第135話 郷田の戦い
5月も下旬になり、神崎高校自転車競技部は夏に行われる全日本選手権と、インターハイに向けて始動することになった。
全国高校自転車競技連盟が主催する全国高校自転車競技会は民間大会でありスポンサーを集めて大々的に行われるが、全日本選手権は、日本自転車競技協会が主催する大会のうちのジュニア部門であり、インターハイは全国高校体育連盟が行う体育の総合大会の1競技となる。
この他に、国体や全国高校選抜自転車ロードレースもあり、それぞれ主催が異なる全国大会が5つ存在することになる。
出場するには、国体以外は主催する団体への登録が必要となり、インターハイにしか出場しない高校や、逆に去年までの神崎高校のようにインターハイには出場していなかった高校もあった。
夏からはスケジュールもタイトであり、緊張感を持って臨まなければならないはずだが、全国高校自転車競技会後に、一旦緩んでしまった気持ちを引き締めるのは、時間がかかる状況だった。
「おい冬希、脚立を知らないか」
身長が150cm台の柊が言った。部室のスペースを広く使うため、棚は比較的高い位置にあり、潤や柊などは、脚立を使わなければ届かない棚もあった。
「脚立なら、あの棚の上です」
冬希が指差した棚は、柊が手に届かない高さにあった。
「手の届かないところにある物を取る脚立を、手の届かない場所に置いてどうするんだ!手に届かないところにある脚立を取るための脚立が必要になるだろうが!」
柊は、整った顔を真っ赤にして怒っている。
「はっはっは、馬鹿だな、柊先輩。手の届かないところにある脚立を取るための脚立があるなら、その脚立で手が届かないところにあるものを取ればいいじゃないですか」
「バカはお前だ!」
柊は飛びついて冬希の首を絞める。
「ぐえ」
丁度その時、扉が開いて平良柊の双子の兄、平良潤が入ってきて、じゃれあっている二人を見て小さくため息をついた。
「あれ、今日は郷田さんは?」
「ああ、今日もまた病院だそうだ」
郷田隆将は、学校の近くのガン治療に特化した病院の前にいた。
郷田自身が通院しているのではなく、この病院に入院している母の元に通っているのだった。
昨年秋、郷田の母親は突然歩けなくなり、救急車で総合病院に運ばれた。
それまで、郷田の母は腰痛でその病院に通院していたため、救急隊員にかかりつけの病院ということで指定したのだった。しかし、これが裏目に出た。
病院では、腰痛に関連して下半身が動かなくなった可能性について徹底的に検査が行われたが、全く原因がわからなかった。
原因不明なまま半月が経ち、ようやく他の病院に出していた検査の結果で、病名が判明した。
悪性リンパ腫だった。
血液の癌の一種で、これが腰の神経を圧迫して、郷田の母は下半身が麻痺してしまっていたのだった。
直ちに治療が開始され、下半身はまだ動かないものの、症状は改善が見られてきた。
だが、5年後の生存率は70%とされ、完全に安心はできない状態だった。
現在も、治療により免疫力が低下しており、郷田も郷田の父も、郷田の母に会うことはできず、郷田自身も必要なものを持って病院の玄関まで行き、母親に渡してもらうということを繰り返していた。
直接会うことはできないが、携帯での通話は可能なため、会話はできていた。
「着替えとか、看護士さんに渡しておいたから」
「ありがとう。あなた部活は大丈夫なの?」
「ああ、家でローラー台で練習するから大丈夫だよ」
「家の中で自転車に乗れるなんて、便利な時代なのね」
優しい母の声、郷田は安堵する。
「治療は苦しくない?」
「大丈夫よ。看護士さんたちも本当によくしてくれるから。今度、別の病院に一度転院して、そこでリハビリをやるの。そしたらまた戻ってきて治療ですって」
苦しくないはずはない、だが心配をかけまいとしているのだ。母親の性格をよく知る郷田は、そのことがわかっていた。
「次に出る大会は?」
「インターハイか、全日本選手権になると思う」
「大変ね」
「俺は、船津か青山のアシストだから、本当に大変なのはあいつらだよ」
「この間のレース。TVで見てたけど、あなたよく映ってたわよ。青山君を一生懸命引っ張って」
「それが仕事だから。あいつは本当にすごい。1年生でステージ4勝する選手のアシストなんて、すごい経験をさせてもらっているよ」
「じゃあ、青山君に感謝しなきゃね」
「ああ」
「また、しっかり役割を果たしなさい」
「わかってるよ。どっちでもTVで中継があるから、また楽しみにしていて」
「はいはい、楽しみにしてるわよ」
スマートフォンの通話を切り、ポケットにしまう。
直接会うことが許されない以上、郷田にできることは、次の大会にちゃんと出場し、チームの勝利に貢献することだった。
全国高校自転車競技会では、冬希や船津がずっと大会の中心人物であったため、郷田自身もTVに映る機会が多かった。
郷田は、チームメイトに恵まれていると思っていた。そして船津や冬希に、その恩を絶対に返したい。
病院に背を向けると、神崎理事長から指示されている練習メニューを自宅でこなすため、郷田は家路を急いだ。
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