第15話 経過観察
「ど、どういう意味ですか……」
声を殺して金垣内さんににじり寄り、真意を問いただそうと身構えた。金垣内さんは僕を見上げてへらへらと笑うと額の高さまで上げた右手を、何かを払うようなしぐさで振った。
「やぁ、怖い怖い。そんな切羽詰まった顔で女に迫っちゃあダメ……冗談よ、冗談。まあ、杜嗣くんが毎日のようにどっかにメール出してるのも、返信を待ってそわそわしてるのも、私らから見ればバレッバレなんだけどね」
「う……」
「葵さんはまあ、女神様みたいな人だからね、杜嗣くんが他所で何をしようが少々のことでは怒りも責めもしないから安心してていいと思うんだ、だけどさ」
金垣内さんは再び缶に口をつけると、ビールをぐいっと長めにあおって、焔でも吐くようにカァッと息を継いだ。
「葵さんに頼っちゃいけないところは頼っちゃいけないところとして、きちんと切り分けて線引いておく方が、杜嗣くん的にすっきりするでしょ。ね?」
金垣内さんの、湯上りの肌がビールのためかひときわ上気してさらに赤くなった。ニヤニヤ笑いながら、一人納得したようにこくこくとうなずく様子を見ていると、こちらは妙に冷めた気分になった。言われてみればその通り。
自分が疚しさを感じる事さえも「いいんですよ」「大丈夫ですよ」と許され認められて、自分の中にとどめることができなくなったら、それでは本当に僕はヒモにも劣る何かになってしまいそうだ。
まあ、今のところ新宮さんとのやり取りには、疚しさというほどのものもないのだが。
「仰ることはいかにもその通り、ごもっとも。承っておきます……お金の件はまた何かあった時に改めて」
「うんうん、素直でよろしい」
こういう場合、ドラマとかなら「私はこれで」とか言って去りそうなものなのに、金垣内さんはそのまま座ってTVの画面を眺め続けていた。ビールのアルミ缶はいつのまにか空っぽになって、テーブルの上にころんと放り出されている。
TVはチャンネルを変えられ、巨大なクルーズ船が北欧のフィヨルドに進入していくところ。その陽光眩しい映像に見入る彼女をあとに残して、僕はバスタオルと着替えを取りに部屋へ戻った。
* * *
当日は靴を三階まで運びあげ、北側の出入り口から葵さんと一緒に外へ出た。ドアを開けて空中に張り出した通路を通り、歩道の上へ出ると、数メートル西には例の横断歩道。北側へ渡り終えた僕たちの後ろを、大きなワゴン車が不意打ちのように通り過ぎた。
「わっ、と……もう、なんか危ないな。渡り始めたときは車来てないと思ったんだけど……ここって、信号機つけてくれないんですかね?」
「以前から陳情はしてるんですけどね」
仕方なさそうに笑うと、葵さんは僕の手を取ってなだらかな坂を駅の方へ歩き出した。駅に着いて改札前で別れる時、彼女僕の手を握ってしきりに念を押した。
「杜嗣さん。帰りも、駅に着いたら必ず連絡を下さいね」
「そうですね、約束します」
あんな感じで車が走り回るのなら、確かに危ない。そう何度も事故に遭いたいわけではないし、僕は葵さんの言葉にしっかりと従うつもりでいた。
「……脳波にも、MRI画像にも今のところ異常や前回との大きな変化はないですね。お疲れさまです。午後に整形外科の診察があるので、その間に食事に行かれるといいでしょう」
「どうも、お世話になりました」
脳神経外科主任の野上医師に向かって軽く会釈をすると、僕はソファの並ぶ待合室へ戻った。
野上医師は色白で痩身のいかにも知的な中年男性で、僕のような門外漢の的はずれな質問にも丁寧に答え、説明してくれる。自分がどういう状態で、どういう治療、ケアを必要としているかをきちんと伝えてくれる、という点でとてもありがたく、信頼できる人だ。たぶん、こういうのが本当の「名医」なのだろうなと思う。
さておき、新宮さんと連絡を取らなければならなかった。彼女は準夜勤の出勤により四時間早く出てきてくれるという。時刻は現在十二時十分。多分、もうすでに院内のどこかにいるはずだ。
電話番号はまだ教えてもらっていないので、チャットアプリを立ち上げて挨拶を送った。すると――ピロリン、と表記できそうな電子音が鳴って、新宮さんからの
【薫:菊谷川さん? 今どこに?】
「何だ……普通に届くんじゃないか」
思わず声に出したほど、その結果は僕にとって意外だった。続けて返事を送る。
【菊谷川:脳神経外科診察室の、待合です】
【薫:そっか。ご飯は済みました?】
【菊谷川:まだですよ】
(あ、これは院内のどこかで会食する流れかな……)
そう思っていると、不意に肩を指でつつかれた。
「わ!?」
後ろを振り向くと、そこに新宮さんがいた。僕の視線からわずかに斜め下で、細身のケミカルウォッシュ・ジーンズに包まれた腰と太ももがモデル顔負けの曲線を見せている――やや小柄なせいで、足はそれほどの長さはなかったが。
一見ダウンジャケット風の、ふかふかした紺色の上着の内側に、太めの毛糸で編まれたグレーの縦リブセーターを着こんでいる。夜中に家路をたどることになる準夜勤の準備らしい、いかにもな恰好だった。
「お待たせ……って程でもないですよね。あのアプリでちゃんと会話できて、ちょっと驚きました」
「うん。拍子抜けしたなあ」
「とりあえず、ご飯食べに行きましょうか。職員用の食堂にはご一緒頂けませんから、売店でお弁当買って、談話室か中庭にでも」
「あ、じゃあそれで」
院内にはちょっとしたレストランもあるが、どのメニューもめっぽう高い。恐らくは個室を取るような入院患者の家族が見舞いの時に利用するものなのだろう。
僕たちはそれぞれ好みの弁当を買い込むと、少し考えた後、人目を避けて駐車場に近い中庭の一角へ向かった。
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