第12話 閉ざされた街路

 美女が毎日見舞いに訪れる入院患者――僕は入院中、そういう存在として看護師たちの興味を惹いていたらしい。それで若手の新宮さんが、同僚たちと「菊谷川杜嗣からメアドをせしめられるか」という賭けをしたのだ、ということだった。

 いささか下世話な興味の対象として巻き込まれたわけだが、それほど悪い気はしていない。


 新宮さんには入院中お世話になったし、日に焼けていかにも明るく健康的な彼女は、僕から見ても好ましく魅力的だ。彼女が僕をダシに賭けをするというなら、勝たせてあげるのもやぶさかでないしむしろ楽しいことに思えた。


 少しばかり期待して待っていたのだが、メールの返事は、すぐには届かなかった。少々残念だったが、新宮さんは何せ病棟勤務の看護師だ。多分夜勤か何かで忙しいか、さもなくば仮眠を終えてオフに入っているかどちらかなのだろう。

 あのアドレスがフェイクだなどという発想はおよそばかげたことに思えた。賭けの話が本当なら、僕からメールを受け取らない限りは彼女の「勝ち」は確定しないのだから。


         * * *


 醤油坂ハイツ南側にはセンターラインのない一車線の生活道路がある。

 通称「坂の下通さかのしたどおり」と呼ばれているらしいこの道からは、おととい「門前さんの三つ子(?)」が駆け去って行ったあの路地を通じて、商店街へ出ることができた。

 こちらも道幅はせいぜ六メートル未満。いうなれば昭和のたたずまいを残した昔ながらの狭い通りに、軒を接して八百屋や魚屋、花屋あるいは金物屋といった、今では珍しいタイプの個人商店がずらっと並んでいる。


 駅前でスマホと銀行口座の用事を済ませたその翌日、二月二十七日。僕は葵さんに頼まれて買い物に出た。ほんの雑用だが、なまった体を鍛えハイツ周辺の地理を把握するためと思えばちょうどいい。


「っと、次は雑貨屋で、台所用のスポンジか……」


 葵さんに貰ったメモによれば雑貨屋はここから少し西、商店街が駅前通りと交差する場所のすぐ近くだ。

 この辺りはどうしたわけか、スマホの地図アプリで検索しようとしてもあまり詳細な情報が出てこない。初見で歩きまわるにはアナログな地図や、このメモのような見取り図が必要になるようだ。

 それでも目的の店はほどなく見つかった。色白でふっくらした顔つきの、人のよさそうな中年のおばちゃんがレジに立ち、袋詰めした食器用スポンジとおつりを手渡してくれる。


「あら、あなた渕上さ……さんとこの杜嗣さんじゃない。しばらく見かけなかったけどどうしてたの」


 何やら一瞬言いよどんだ感じがあったが、おばちゃんはすぐにペースを立て直した。どうやら顔なじみの店だったらしい。


「ちょっと事故に遭って、入院してたんですけど。困ったことに記憶があらかた飛んじゃって……」


「え。まあ、そんなことがあったの。大変だったわねえ」


「ええ。お姉さんのことも全然覚えてないんで、失礼があったら申し訳ないです」


「んま、お上手ですこと。大丈夫よ、余計な心配はいらないから。またよろしくね!」


 商店街の人たちの反応は、だいたいこんな感じで好意的。変な噂を立てられたり好奇の目で観られたりしてないのはありがたい。入院先の病棟と違って、ここは僕が日常を送る場なのだし。


「そうかそうか、なるほどね。それでこうなってんのねえ」


 雑貨屋のおばちゃんは何ごとか得心した様子でしきりにうなずいた。


「まあ、あたしたちにしてみりゃどっちにしてもありがたいことだしね。杜嗣さん、また寄ってちょうだいねえ。気が向いたらお茶でも出すからさ」


「あ、ありがとうございます」


 思いがけず浴びせられた好意にたじろぎながら、愛想笑いと共に店を出た。


 さて、正午まではまだ時間がある。買ったものの中に、この気温ですぐ傷むような生ものもない。


(せっかくだし、もう少し歩きまわってみるか……)


 昨晩は一番風呂を使わせてもらった。早めに入浴して、湯上りにもう一度マッサージしたおかげで、足の調子は昨日よりさらに良くなっている感じがしている。


 東西に延びたこの「坂の下商店街」は、ちょうど今出てきた雑貨屋のところからL字型に曲がって、南へと向きを変える。その曲がった先に、赤い鳥居が見えていた。あれがたぶん、「門前さん」と呼ばれる一家が神主を務める、件の稲荷神社なのだろう。


 あの三つ子ちゃんたちにもう一度会ってみたい気もしたが、僕はそのままL字型の曲がり角の先にある、商店街出口のアーチを目指した。スマホの地図で見る限りでは、この先は駅から真っ直ぐ南へ伸びた麹町駅前中央通りにぶつかる。

 そこから北へ向かうと駅につくはずだ。程よい勾配のついた坂が上りと下りでワンセット、リハビリのための散歩にはちょうどいい――そう思ってアーチをくぐった矢先、僕は困惑と共に首をかしげることになった。


「え、これ……どっから中央通りに入ればいいんだ?」


 商店街出口のアーチの前は、高速道路か何かのガード下のようになっていてた。中央通りそのものの路面はここからでは見えず、目の前には南北に金網のフェンスが伸びている。


「おっかしいな……」


 一昨日の退院日、駅前からこちらの方角をパッと見た感じでは、こんなに周囲との高低差があるようには見えなかったのだが。北へ目をやると、どうやらフェンスの端は醤油坂通りの南側、例の切り落としたような壁に繋がっていた。その傍らには人が通るためと思しい細いトンネルが口を開けている。

 だが地形を考えると、その穴をくぐっても駅前に出ることは出来なそうだ。上の道にはどうやら歩道が設けられているようだが、ガード下と連絡するための階段もスロープも見当たらない。


 スマホでこの辺りの地図を出してみる。指先で拡大したりずらしたりして見ているうちに、この辺りの地形の奇妙さが頭に入ってきた。


 つまり、この「坂の下」一帯の街並みは、駅前で直行する中央通りと醤油坂通りが作る十字型の、南東部分にできた谷間にすっぽりと囲い込まれていて、駅へ向かうにはずっと東の、踏切から南北に延びた「了傳寺門前通り」まで出て、遠回りするしかなさそうなのだ。

 結局、僕は中央通りへ廻ることを諦めて、ガード下を北へ歩き、トンネルの前から東に折れて醤油坂ハイツへ戻る道を選んだ。途中に一か所のクランクになった細い道を抜けると、ハイツ南側の「坂の下通り」に出る。そこから少し西へ歩けば、玉砂利の敷き詰められた門の内が見えてくるのだった。

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