第10話 水の音


「葵さぁん、初心うぶな子にそんな言い方するのよしなって」


 金垣内かねがいちさんがまたクヒヒと笑いながら、横から葵さんの肩をぽんぽんと叩いた。


「ふふ、そうですね。杜嗣さんにはあまり私に気兼ねせずに、自由にしていて欲しいですし」


「まあ、ここはいい物件だと思うよぉ杜嗣くん。記憶がないんなら心配だったかもだけど、家賃も君のお父さんの口座から引き落としになってるそうだし、ね」


「そうだったんですか!?」


 思わず身を乗り出すと、葵さんはちょっと後ろへ身を引いて答えた。


「ええ。預かり金とは別に、そういうことになってます。だから、ここにいる限りは、杜嗣さんが細かいお金の心配をする必要はないんです」


「うーん……」


 それはそれで、なんだかすごくダメな人になってしまいそうで心配なのだが――


「まあ、僕は自分のことも思い出せない始末で、どこか他所へ行こうにも何のアテもありませんから……そういうことなら、本当にありがたいです。お世話になります」


「よかった。じゃ改めて、よろしくお願いしますね」


 葵さんはそう言って、ぺこりと僕に頭を下げた。僕も同じように返した。


「早速ですけど、明日は駅前まで一緒に行って、銀行と携帯ショップを回りましょうか」


「あ、そうか……! 僕のキャッシュカード、何とかしなきゃ……暗証番号は通帳と印鑑があれば銀行で再設定とか――」


 言いかけた僕の目の前へ、金垣内さんが人差し指をくいっと立てて突きつけた。


「あのさ、杜嗣君。金融関係あちこち転々としてるから教えてあげるけど、暗証番号はどうしたって前のやつを要求されるはずよ」


「ええ、そんなあ!?」


 それだと詰みだ。僕の頭の中に今、そんな番号の記憶はないのだから――


「だいじょうぶだいじょうぶ、人間ってね、よほど自分の記憶力を過信してるバカ以外は、だいたい念のためそういうのはメモしとくもんなのよ。あとスマホのアカウントやパスワードは買った時にもらう冊子に記録する欄があるからね――まあ、死に物狂いで探せ?」


「うう……」


 記憶喪失の人間には本当に切ない世の中だと思う。


「引っ越しのどさくさで、失くしたり捨てたりしてないといいけどねえ」


「『それをすてるなんて、とんでもない!』って言われる奴よね」


 早織さんまでニヤニヤ笑いながら僕をあおって来る。


 そんなわけで――食事の後は、葵さんに用具や設備の使い方を教えてもらいながら浴室の掃除。その後は部屋で探し物に取っ組んだ。

 収納ケースの中に、パスワードや暗証番号をメモした紙切れを発見したときは、本当に心の底からホッとした。



       * * *


 風呂の順番は、他の三人の後にしてもらった。

 葵さんたちは僕を最初にしたがったが、遠慮した。なにせ僕は今朝まで病院にいたのだ。入院生活ではさすがに毎日入浴などということはできないので、僕の体は少々垢が貯まっている感じだった。


 ――そんなこと言って、若い女三人のダシが出たお湯を使おうってわけぇ?


 金垣内さんが変なことを言ったせいで、妙に意識してしまってゆっくりお湯に浸かれなかったのはちょっと残念だ。

 あと、葵さんははっきり言わなかったが、どうも僕たちが入ったあと小出さんが深夜にひっそり入るのが常らしく、できるだけお湯を汚さないようにと求められた。

 しっかり体を洗ってから入ったが、やはり少々の気遣い、遠慮はしてしまう。それでも、広々とした浴槽で手足を伸ばしてゆったりと入るお風呂は素晴らしかった。



(今日は、いろんなことがあったなあ)


 風呂から上がり、湯冷めしないように体を乾かすつもりでこたつに当たりながら、今日一日のことを反芻した。南豆畠からここまでの短い電車の旅。風変わりな立地と構造の醤油坂ハイツ。

 そして、屋上フロアから這いおりてくる銀髪の織り子に、無遠慮だが気さくな金融OL。ラーメン様に、葵さんのやんわりとした保護者(そして場合によっては許嫁)宣言――


(なんだか疲れた……)


 我慢できなくなって、ぱたりと仰向けに寝転んだ。こたつで足をあぶられて、いい感じに眠くなっていた僕はいつしか、こたつ布団に肩まで潜り込んで寝てしまっていた。



 ――ごぼり。


 どこかで水の動くそんな音がしたように思った。吹き抜けを伝って階下の、浴室からの水音が聞こえるのだろう。夢うつつにそんな説明をつけ、まどろみ続けようとしたのだが。

 水音はごぼごぼといつまでも続き、次第にこんこんと湧き出る水の流れを思わせるものになっていた。どうしたことか、その水音に合わせて僕のまぶたの裏には、あの暗い赤に塗られた醤油桶のイメージが浮かび上がった。

 事実とは違って中まで真っ赤に塗り固められた、ちょうど朱塗りのお椀を大きくしたようなその桶の中に、黒々とした水がとめどなくあふれてくる情景を、僕はその場に立っているかのように夢見ていた。


(!!)


 不意に意識がはっきりして、切り落としたような唐突さで目が覚めた。照明は点けっぱなしで、相変わらずこたつが僕を温めていたが、上半身が少し冷えていて、大きなくしゃみが出た。

 そのこだまが消えてしまうと、ハイツの中はしんと静まり返っていた――やはり、あの水音は夢だったらしい。

 それでいてなんとなくすっきりしない感覚があって、僕は引き戸を開けて廊下に出ると、吹き抜けを囲む手すりのところまで歩いて出た。上からのぞき込むと、醤油桶が薄暗がりにぼんやりと浮かんで見えるが、別に水があるようには見えない。


(うん、夢だな)


 そうつぶやいて、部屋へ戻ろうと踵を返しかけたその時。


 階下の廊下を誰かが、西側へ向かって歩いていくのが見えたのだ。背格好からすると葵さんのように見えたが髪の色が違った。今日見た誰とも違う、暗い赤系統の色。


 その誰かは、ゆっくりと、頭をほとんど上下させない滑るような歩き方で、一号室のほうへと消えていった。下の廊下はここからでは、その全部を見渡せない。


(もしかして、あれが小出さん――ラーメン様?)


 知らないふりをしてあげてください、という葵さんの言葉が、そのときなぜか妙に鮮明に思い出された。

 結局のところ。僕はもう一つ吹き抜け全体に響くようなくしゃみをしてしまい、管理人室のあたりで人が動き出す気配にたじろいで、慌てて部屋に戻った。そして布団を出し、それに包まって朝まで目を閉じたのだ。

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