第8話 囃し歌
僕はしばらくそこにしゃがみ込んだまま考えた。
もしも僕が何か重大な事故を起こしていたとかであれば、警察が関わってくる。その場合は葵さんたちも事の次第を知ることになったはずだ。彼女はどちらかと言えば口数が少ない方だと思うが、二カ月もの間病院へ通って来ていて一度くらいはその話が出ていてもおかしくはない。
現実には、自分が車を持っていることすら、今の今まで思い出せずにいた。であれば、重大事故の線はそれほど心配ないのではないか。根拠が今一つ不確かな気はするが。
ああ、もどかしい。たかだか二カ月かそこら前、それも自分の事なのにどうしてこうもあやふやでつかみどころのない話になってしまうのか。
ハイツへ戻り、玄関から廊下を回り込んで食堂へ向かった。葵さんはキッチンに立ち、井戸の方を向く格好でコンロにかけた鍋をかき混ぜているところだった。
声をかけると、彼女はこちらへ向かって顔を上げて微笑んだ。
「どうかされました?」
「車の事なんですけど――西側のガレージの。あれ、僕のですよね?」
「ええ、そうですけど……ああ、すみません! 私、機械のことはあまりよくわからなくて、ずっと放ったらかしで……本当なら、きちんと洗ったり整備をしたりしておかなきゃいけませんでしたね」
葵さんは軽く眉をひそめると、ガスコンロの火を止めた。
「いや、それは……そういうのはまあ、いいんですけど――」
僕は彼女に、ガレージで見たものについて話した。
「――車に、傷、ですか?」
葵さんは怪訝そうに首をかしげると、額に指を押し当てて何か思い出そうとするしぐさをした。
「じゃあ、あの時かしら? ……あれは十二月末だったと思いますけど――」
「何か、あったんですね?」
「ええ。ひと駅先の三木浜まで、靴を買いに行くって仰って出かけられて……帰ってきてからしばらく、杜嗣さんが何だか変なことを言って、元気がなかったんですよね」
「すみません、それ重要なことだと思うんで、もう少し詳しく思い出せませんか」
「何だったかしら……ああ、そうだわ。『何かぶつけたと思ったけど、何もいなかった』って」
どう考えてもそれだ。確信は得たものの、僕は葵さんの言葉の一か所に引っかかった。
「いなかった?」
正確には、かつての僕の言葉だ。
その言い方をしたということは、何か「いる」とか「いない」で言い表せるようなものに車をぶつけた――あるいは、「ぶつけられた」ということになるのでは。
「……ネコじゃ何かだったんじゃないでしょうか。嫌な話ですけど、猫って体が柔らかくて軽いから轢かれてもその場で倒れずに、家まで逃げ帰ることがあるそうです」
「そりゃあ、逆に嫌だなあ」
「この辺の丘はまだ緑が残ってますし、イタチやキツネ、ハクビシンなんかもよく見かけるんですよね」
葵さんはまた鍋を火にかけ始めた。
「警察が来たりとかそういうこともなかったですし、塗装を直すほどでなければあまり気にしなくていいんじゃないですか」
「そ、そうですね」
「でも、運転するときはこれからも十分注意してくださいね」
葵さんの穏やかな声と笑顔に、僕はいくらか安らいだ気分になった。
ああ、そうだ。そうとも、ちょっとバンパーが凹んで汚れただけの事じゃないか。
「じゃあ僕、汚れが落ちるかどうか洗ってみますね」
それでしたら、と葵さんがホースとブラシの置き場所を教えてくれた。水をかけてやわらかい毛のブラシでこすると、あの黒い粉末の汚れは次第に目立たなくなっていった。
晩冬の午後は短い。ガレージの外、白い石庭に映える陽光の色は次第に赤みを増していき、低い角度で差し込む光の帯は、漂うわずかな塵に反射して金色に輝き揺れ動く。
ブラシを動かす手を休めて、その微細な動きを目で追っていると、ハイツの南側にある道路との境界、アコーディオン式のガレージ門扉のところに、何やら動くものが見えた。
ハッとしてそちらへ目を凝らすと、小さな丸い瞳と視線が合った。
おかっぱ頭をした、三歳くらいの女の子だ。毛織物らしい厚手の生地でできた、明るい褐色のジャンパースカート風の物を着ている。
頭身が低いためか、その子の姿はちょうど絵本の中から出てきたような、現実離れした感じに見えた。
「や、やあ」
目をキラキラさせてこちらを見つめられ、妙にうろたえながら僕はそんな風に声をかけた。すると――
(えっ……?)
意表を突かれたことに、その子供がぼやけたようにぶわっと拡がって、三人になった。
(増えた!?)
いや、おそらく――背中に隠れてでもいたのだろう。顔かたちも背格好も服装もそっくりな、あと二人の女の子が現れた、と見えた。
三人の女の子は何やら楽しそうに顔を見合わせ、次の瞬間一斉にこちらを向いて笑った。
そしてひとかたまりになったまま、道の途中にある曲がり角から奥の路地へと、転がる
――むこさま むこさま もどらいた
ふちがみさまの かどのうち ――
囃し歌のような、奇妙な旋律のついた歌声がその後ろに漂って消えていく。
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