2

 義手の装着は一か月程経ってから行った。患部がしばらく痛んだからだ。傷により発熱もした。一週間はまともに眠れなかった。竹下が痛み止めだと薬をくれたが、病院で処方されたものではないので不安だった。しかし飲んだ。


 その間に、世の中で飯塚かえでは過去の人間となった。山小屋には不釣り合いな大画面のテレビで知った。山の中が警察や記者たちで五月蠅くなったため、しばらく散歩が夜中しか出来なくなった。テレビは落ちているのを拾ったという。山にはたまにお宝が落ちているのだと竹下が言っていた。


 リハビリに散歩をしているとその通りで、夜中のうちに捨てていくのか、数日前に無かった物がいくつか置かれていたことが何度もあった。中には綺麗な状態の家具もある。どうしてこれを捨てに来るのか飯塚にはさっぱりだったが、もらえるものはもらっておいた。


 山小屋と言っても、竹下の家は一人暮らしにしては随分広いものだった。部屋は二部屋しかないが、リビングが転がり回れる程で、しかしガラクタがあちこち放ってあるため、歩けば何かにぶつかった。竹下曰く、医療行為を行うには広さが必要らしい。竹下は世捨て人であり、決して義肢装具士でも医師でもない。部屋の隅には義手やら義足が慎重に並べられていた。飯塚がそれらを触ることは一度もなかった。


「動かないんだね」

「そりゃ、装飾用だから」


 普段は装飾用義手を付けた。遠目から見れば本物に見間違うもので、義手の中で一番気に入っていた。自分の意思で動かすことが出来る能動用義手の方がはるかに便利ではあったけれども、見た目がどうしても慣れず、両手を使いたい時以外はずっと装飾用だった。


 ある日、にやついた竹下がソファに座っていた。あまり近づきたくなかったが、手招きをされた。嫌な顔を隠さず、足音を立てて傍に寄る。


「何」

「出来た。動くやつ」

「それが?」


 見せてきたのは毎日付けている装飾用だった。これが動くとはにわかには信じ難い。しかし、竹下はつまらない男なので冗談は言わない。飯塚はまた一歩近づいた。


 装着してみると、なるほど、右手の指がゆるゆると曲げられた。細かい作業は無理だが、物を両手で持つ程度なら可能だろう。


「良いでしょう」

「うん」


 元の体に思える。素直に嬉しかった。竹下は飯塚を実験台にしか考えていないが、こちらにメリットを与えてくれる存在だ。


「する? 復讐」


 ふいに、頭を鈍器で殴られた気分だった。


 飯塚が竹下を見る。きっと今、ひどい顔をしている。


 思いつかなかったわけじゃない。むしろ、毎分毎秒思っている。彼らを忘れたことはないし、一生を終えるその時まで憎んでいる。しかし、実際にやるとなれば話は別だ。


「しない」

「しないの? なんで? あんたは殺されたんだよ」


 飯塚は生きている。だが、社会的にはすでに死者。戸籍の無い、何も無い死人だ。そこまで追い詰めた相手に何の義理があるのか。不思議そうな顔で竹下が飯塚を見つめ返した。


「怖い」

「怖い? どこが?」


「全部。全部怖いよ。あいつら全員死んでほしいけど、私にはそんな勇気無い。あったらここにいない」

「確かに」


 竹下が無邪気に笑い声を上げた。彼は狂っている。きっとずっと前から、常識の外へと走り出したのだろう。飯塚は良くも悪くも平均を脱しない人間だった。その彼女が、非常識から手を差し伸べられた。


「ならさぁ、俺が実行してやろうか。義手のモデルと、モニターのお礼に」


 飯塚の頬が分かりやすく引きつった。


「それ、随分安くない? 竹下さん不利だよ」

「そうかな」


 今晩の料理当番をどちらがやるか話しているのと大差無い温度だ。もしかしたら竹下にはその温度すら無いのかもしれない。しかし、それならば。


「じゃあ、私もやる。一人じゃないなら」

「実行するのは俺だけでいい。協力はしてね」

「うん」


 助けてもらったからではない。飯塚は飯塚の意志で手を取った。誰も知らない山小屋で、秘密の殺人計画が始まった。


「計画はすぐじゃない方がいい。誰かの復讐を恐れてあっちは殺気立ってるはず。誰かに言うわけないけど、それでも仲間内では守り合ってる。実行するのはそれが風化してから。そうだね、一年後とか」


 それに飯塚が熱心に頷いた。どうせなら成功する方法で行いたい。この男なら、今までの人生でいろいろ考えてきただろう。頭の中で何人か処分しているだろう。竹下の演説は飯塚を納得させるのに十分なものだった。


 これからの日々をどうすればいいのか路頭に迷う気分でいたが、生きる目的を見つけられた気がする。彼らが苦しみ、後悔する姿を見るまでは死んでやれない。


 仮に一年後を実行日とすると、まだ八か月以上ある。時間もたっぷりある。自分が動かない限り代わりに彼らを地獄には送ってくれないだろうから、ゆっくり、最善の方法を考えよう。


──ああ、もしかしたら高岡さんなら少しは考えてくれてるかなぁ。


 半年ほど前に初めて出来た彼氏を思い出す。今になって思い出される程度の仲だったけれども、親しくしていた相手が死んだのなら、髪の毛の先程は哀しんでくれているといい。ただ、飯塚は高岡のことを大切には思っていなかった。近所に住んでいるお兄さんで、たまに話しかけられる、そんな仲だった。その過程で二人の関係が一歩近しいものにはなったけれども、たいした変化はなく、二、三度買い物に出かけたことがあるだけだった。


 はたしてあれが彼氏彼女であったのか。飯塚は分からない。分からなくてよかった。他人の心うちを覗き込むことはとても怖いものだ。高岡もこちらに踏み入ろうとしなかったので、もしかしたら同じような形だったのかもしれない。人の温もりが欲しかったわけじゃない。一人暮らしの男が、名前だけのものでも、何か人と繋がりを持つ。そういう類のものを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る