不幸の写真

差出人不明

1

 八月十八日十九時


 半日振りに足を踏み入れた室内は、むわりと体に纏わりつく空気で充満している。顔を顰めて、迷いなくエアコンのリモコンに手を伸ばした。すぐに涼しい風が頬を撫で始め、ようやく煩わしい汗から解放されると息を吐いて鞄を床に下ろす。制服のポケットをごそごそ探り、目的の物を掴んでベッドの淵に腰掛けた。スマートフォンをタップし、ラインチェックをしてから流れ作業でアプリを開く。


「あー、思ったより反応無いな、つまんない」


 予想外のことに消沈した気持ちを隠すことが出来ず、ごろりと寝転がりスマートフォンを放り投げた。アプリを閉じたところで、もう今日やることは済んでしまった。後はせいぜい風呂に入って寝る準備をするばかりで、それも先ほどの画面と同じつまらないものに思えておもしろくない。


「あんなヤバそうな写真上げたのにさ、拡散してくれても友だちのフォロワー止まりだったし」


 ため息は一人きりの自室中に霧散して、他人の気配が無いことを露呈する。


 二日前の八月十六日、相園奈々宛に妙な手紙が届いた。妙な、といっても、封を切る前に振ってみたが、怪我を伴う嫌がらせの類が入っているわけでも目立つ柄の封筒であるわけでもなかった。差出人不明のそれは、もちろん相園に心当たりは無く、首を傾げるに留まった。どうせダイレクトメールだろうと中身を覗けば、写真が一枚だけ入っていた。


「何これ……気持ち悪」


 一番相園の心を揺さぶらせたのは、写真の内容だった。カビの生えたゴミを触るように、端を親指と人差指でつまみ上げる。そこには、黒で全面を塗りつぶされた背景の中、唯一見える四角形の真ん中に、左目が確かにこちらを向いて鎮座していた。「やだッ」


 平面でしかない塊がこちらを向いた気がして、思わず払いのける。ひらひら、ゆっくりと地面に落ちていく様は水面に舞い落ちる桜の花びらで、静かで不気味な印象を相園へと突きつけた。


 怪我を伴う嫌がらせは確かに入っていなかったが、予想外の物が相園の不安を煽った。誰が何の為に、考えてみても差出人すら書かれておらず、意図の分からない写真にただただ恐怖した。


 それと同時に、この写真を見せびらかしたくなった。気味が悪い、異常であればある程後で笑い話のネタになることは多く、非日常を手にしたことを自慢したかった。相園が多感な年齢であることも後押しした。すぐに手元のスマートフォンで写真を撮影し、SNSに投稿する。もしかしたら、友人が怖がって画像を広めてくれるかもしれないし、たまたま見つけた見知らぬ人間が他の人間に見せてくれるかもしれない。話題になったらおもしろい。アルバイトの関係で人に見られることはたまにあるが、一般人よりは知られているに過ぎない。有名気分を味わいたくなって、軽い気持ちで左目を大衆の場に放り投げた。


 しかし、友人たちは怖がってくれたものの、数日経っても大した話題にならず、相園は上げた労力を無駄にしたと明らかに落胆していた。


「つまんなぁい」


 すでに興味の先は違うものに移っていて、写真よりも夕食の内容が頭の中を占めた。今日は遅くまで母親は帰ってこない。高校三年生に上がった今でも家事全般を母親に頼っているため、まともな料理が作れるはずもなく、冷蔵庫を開けて食材をぐるりと一回し眺めて結局手に取ったのは飲みかけのペットボトルだけだった。気の抜けた炭酸を一気に喉へ流し込んで玄関に続く廊下を見遣る。ため息を吐いて、しかし選択肢は一つしかない相園は緩慢にペットボトルを流しに置いた。


 小ぶりのショルダーバッグにスマートフォンと財布を詰めて、玄関にある棚に置きっぱなしの鍵を引っ掴む。散らばるいくつかの靴から適当なサンダルを選び外に出た。


 すでに時刻は十九時を差しているのに、八月の風はぬめりを帯びたまま腕に纏わりついてくる。腕を引いてこの場に押し留めてくるのを無視して無理やり大股で歩き始めれば、それはすぐに諦めてくれた。


 最寄り駅から徒歩十分、住宅地に位置する家の周りは、夜ともなれば人通りが一気に消え、家々に明かりが灯る代わりに暗闇を一手に引き受ける。駅前にあるスーパーまで行く気にもなれず、一番近いコンビニへ足を向けた。


 たまに見かける街灯は手元を明るくしてくれるけれども、伸びる影が一つだけで、丸く浮かび上がった世界に独り投げ出された気がして身震いする。結局、目的地へ辿り着くまで誰にも会わず、気分が乗らないままドアを潜った。


「いらっしゃーせー」


 やる気の無い声をすり抜けて惣菜コーナーを覗く。出かける前、炊飯器の中にご飯があるか確認したので、惣菜の一つでも購入すれば今日の分はまかなえる。商品棚でまばらに散らばる売れ残りを吟味し、読みたくもない雑誌を立ち読みしてからレジに並ぶ。やはり聞こえてくる接客音はまるで客に届かない不愛想さであったけれども、相園自身もコンビニ店員に何かを求めているわけではないので気にもならなかった。


 ビニール袋を揺らしながら来た道を戻る。車も通らないのをいいことに、スマートフォンを見ながら道路の真ん中をふらふら歩いていたら、ふいに人の影を感じて横にずれた。珍しいと頭の片隅で思うが、自分自身がその珍しい人間であるのだから、もう二、三人珍しい者がいてもおかしくはない。物音が聞こえた気がして顔を上げた。すぐ角を曲がれば、もうゴールは見えていた。

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