第6話


 二日後、歳三は町中へ向かって歩いていた。


 質草に愛刀を預けてから五日。いよいよ誰かに刀を借りるしかないと思っていた所へ、巳の刻も終わり頃、文が届けられた。使命感に燃える男から、待ちに待った知らせだった。



『本日、開店致し候。但し店主曰く、近々店じまい心算有り。急がれたし』



 律儀に朝一で出してくれたらしく、今日の日付だった。その中で捨て置けない一文を見て、歳三はすぐに腰を上げた。店を畳むなど言語道断だ。


 歳三は昼餉の仕度をするつねに頭を下げ、大きな握り飯二つと沢庵たくあん数切れを竹皮に包んでもらった。懐の財布をもう一度確かめて、小さな風呂敷包みを背負うと、部屋を出た。


 試衛館がある市谷は江戸の西の端に近い。目的の店まで直線でも二里以上あるが、江戸市中を行商していた歳三にとってはそう辛い距離ではない。


 とはいえ連日顔を出せるような距離でもない。もちろん、行った分は帰らないといけないのだ。それを考えると、やはり向かいの店の男に言伝ことづてたのは正解だった。


 もくもくと歩いて、うっすら額に汗をかいた頃、道端に小さなお堂を見つけて、手ごろな岩に腰を降ろした。太陽はちょうど真上にある。いつもなら休むことなく歩くが、今日は少々特別である。水を一口飲んで、いそいそと風呂敷から包みを取り出した。




 あの日以来、八郎はずっと試衛館に居る。未だ練武館へは戻る気配はない。おかげで連日、なんだかんだと気付けば夜毎、酒宴になっている。


 毎日飽きもせず同じ面々で酒を呑む輩に、歳三は呆れを通り越して諦めの境地だが、晩酌からの宴会に発展するのは、そう珍しくはないので普段通りと言えば普段通りである。


 飯粒を噛み締めながら、澄み切った空を見上げた。賑やかなのも悪くはないが、こう連日だと一人の時間も恋しくなってくる。それにここ数日の憂いの一つが、今日解消することも手伝って、歳三は気分が良かった。


 握り飯一つをぺろりと平らげ、沢庵を口に放り込む。噛めば噛むほど味が染み出るそれは、小野路の小島家特製だ。歳三にもし一人部屋があったなら、自室に壺ごと持ち込みたいと常々思っている一品だ。


 ゆっくりと沢庵を味わい飲み込んでから、次の握り飯に手を伸ばした。



「あー居た居た」


 指先が握り飯に触れる寸前、のん気な声に手が止まった。声の主は、断りもなく歳三の隣に腰をおろした。じろりと睨むも、当の本人は歳三の膝の上に目が釘付けである。



「うわぁっ、美味しそう!」

「八郎さん…。あんた何してんだ、こんなとこで」

「わーいいなぁ…。え? ああ、暇だったので、ご一緒しようと思いまして」

「はぁ? 何を勝手に」

「えー、良いじゃないですか。町へ行くんですよね?」

「良くない。帰ってくれ」



(そもそも、お前は身を潜めてんじゃねえのかっ)



 歳三は今度こそ、じろりと睨みつけるが、八郎はにこりと笑みを返してくる。



「邪魔しませんし、何を見ても口外しませんよ」

「………」


 返事をしないまま、歳三は無言で握り飯を掴んだ。言ってもわからない野郎は相手しないに限る。そのまま大口をあけたものの無遠慮な視線に、つい手が止まった。



「…………」


 真横から、歳三の持つ握り飯を凝視している。食べ辛いにも程がある。今にもよだれが垂れてきそうだ。



「急いで出て来たから、昼、食べ損ねました」

「自業自得だな」

「だって、土方さんを追いかけてきたんです」

「頼んでねえ」

「あなた歩くの早いから、大変だったのにっ!」

「知るかよっ」


 ついに乱暴な口調になるが、繕う気はない。相手はれっきとした武士の子、最低限の礼儀と出来るだけ抑えてきたが、そろそろ我慢の限界だ。


 だが、その言葉にも、八郎はむっとするどころか、反対に嬉しそうに笑みを返してくる。



(調子狂うな、ったく)



 その顔を見て、歳三は先だっての夜を思い出していた。近藤の声掛けで町へ繰り出した日の、帰りのことだ。







『───私を狙っていたのかもしれません』


 あの夜、八郎はおもむろにそう告げた。息を呑んだ歳三は思わず立ち止まり、まじまじと目の前に立つ青年の顔を見た。意思の強そうな目をわずかに伏せると、小さな声で話し始めた。



『よくある話です。門弟から伊庭の養子になり宗家を継いだ義兄を妬む者が、跡取りの血筋である私をだしに、でっちあげの跡目争いとでもいいましょうか。私も義兄も、相手していなかったんですけど、門弟同士が衝突するようになって…』

『………』


 八郎がゆっくりと足を踏み出した。それに遅れて歳三もその横に並んだ。相変わらず数歩前では、近藤らの楽しげな笑い声が響いていた。



 御徒町の練武館と言えば、江戸に四大道場有りとうたわれる剣術道場の一つである。門弟は幕臣が多く、人脈も厚い。幕臣のための剣術指南処、講武所こうぶしょへの指南しなん役にも声がかかるほどだ。代々、門弟の中から優秀な者を養子に迎え、宗家を継いできた。完全実力主義な世襲で有名でもある。


 八郎は前当主の実子で長男だが、彼が幼い頃、現当主である秀俊が養子となり、宗家を継いでいるため、跡目を継ぐことはできない。(余談だが、武士の子は家督を継いで初めて武士になるが、次子以降には身分は与えられない。つまり、八郎は武士の子であるが、厳密には武士ではない)



『剣術は楽しいです。ですが、宗家には興味ありません。父も元は養子ですし、義兄は剣豪としても、当主としてもできた人間です。私が物心つく前に決められていたことですが、父の決定は今も正しかったと思っています』

『──それは、嘘偽りなく、そう言い切れるのか』


 歳三はあえて直球を投げかけた。その言葉に、一瞬で眼力を灯した八郎は、再び足を止め、まっすぐ歳三を見据えて言った。



『ええ。神仏に誓って』


 歳三はその目に嘘がないことを見てとると、小さく頭を下げた。



『試すようなことを言った。すまない』


 打って変わって潔く頭を下げるその姿勢に、八郎は刹那呆気あっけに取られたが、慌てて歳三の肩に手をかけ、頭をあげさせた。



『いやいやっ、止めてくださいよ。むしろそう思われても仕方ない──…というか、その口調、いいですね。これからはそれで行きましょう』

『……………は?』


 歳三の肩に手を置いたまま、八郎はいつになく不機嫌な顔をしていた。八郎の発した言葉の意味が上手く理解できずほうけていると、肩に置いた手にぐっと力がこもった。



『だいたい土方さんは、どーして、私にだけそんな余所余所よそよそしい喋りなんです? 一人だけけ者みたいで嫌です』

『あ、え? ──喋り?』

『そうです、喋り方です。私の方がずーーーっと若輩なんですから、もっと皆と話しているみたいなので、お願いします!』

『……………』


 肩を掴まれて両手でがしがしと揺らされながら、冷静に状況を整理した。急で少々戸惑ったが、よく見ればそれは確信に変わった。



(こいつ、酔ってやがるっ)



『だから、聞いてます?』

『わーった、わかったから、手、離せ!』


 ようやく、肩の手を払いのけて、歳三は乱れた襟元を正すと、改めて八郎に向き直った。



(そういや、しこたま飲まされてたな…。くそ、あいつら人に押し付けやがって!)



 とはいえ、そこで捨て置けないのが、歳三である。




『おら、とっとと帰るぞ。この、酔っ払い』


 手を払われた拍子によろけた八郎へ向けたその言葉は、実に歳三らしく、乱暴な中に優しさがにじんでいるのだが、言った本人は気付いていない。


 その証拠に、さっさと背を向けたにも関わらず、数歩先で止まって、仏頂面のまま八郎が動くのを待っている。こちらに半身を向ける歳三に、八郎は満面の笑みで返事をした。



『はいっ』


 八郎は返事と同時に駆け出して、その勢いのまま歳三の背中に飛びついた。歳三は提灯を落としそうになって、怒鳴り声をあげて容赦なくふるい落とした。落とされた方も酔っ払いらしく幾度か押し問答を繰り返し、結局最後にはお互いに声を出して笑っていた。


 そこからは近藤らと肩を並べて、夜道を大いに騒いで帰った。それは八郎の中に残る少年らしさを、垣間見た瞬間だった。





「───だから、一口だけ、ねっ! いいでしょう?」

「………」


 目の前の八郎の声で、急に現実に引き戻された歳三は、ため息をついた。



(少年って言うよか、ただの餓鬼だろっ)



 ついに両手を顔の前で合わせて、拝み始めた。腹は満たされていないが、面倒臭さが勝った。歳三は無言で、握り飯を八郎に突きだした。



「はぁー…。いいよ、やるよ」

「えっ、全部? くれるんですか? 本当に?」


 目を輝かせてそれでも遠慮することなく、握り飯を受け取ると、頭からかじりついた。仕方なく、残った沢庵をぽりりとかじっていると、また視線を感じた。もう見るまでもない。歳三は最後の一切れを差し出した。



「ありがとうございますっ! …あっ、この沢庵、美味い!」

「沢庵名人のばあさんの一品だ。心して食え」



(ついでに俺の好物だ、覚えとけ)



 最後の一言だけ、かろうじて飲み込んだ。よほど腹が減っていたのか、あっという間に握り飯と沢庵を平らげると、手についた米粒も綺麗に舐めとった。丸腰の八郎に歳三が水筒を差し出すと、礼を言ってそれも飲んだ。



(って、よく考えたら質屋にこいつと?)



「土方さん、飯足らないですよね」

「今更それ言うかぁ? …一つは食ったし、まあなんとかなるだろ」

「じゃあ、団子おごりますよ」

「団子…ね」



(やっぱり、まんま総司だな、こりゃ)



「さて、行きますか」

「どこ行くか知ってんのか?」

「知らないです。どこ行くんですか」

「……野暮用だ。あんたの道場に近い」


 歳三は注意深く八郎の様子を探るが、さして動揺することなく、八郎は腰を上げた。



「……ついでに、顔を出しときますよ」



(自分の立場が分からないほど、馬鹿な奴じゃねえしな。…ま、なるようになるか)



 小さく笑って立ち上がると、二人で並んで歩いた。




「それで、あんたの方は何か進展は?」

「んー、特にはないです。義兄に日野の件も知らせましたが、証拠が無い以上、どうにも動きようがない」

「こそこそしやがって、女々しい輩だな…」

「ははっ、うちは幕臣の息子が多いですからね。彼らも表だって動くわけにいかないんですよ。色々と面倒ですから。それに腕は今一つな奴ほど、自尊心だけはやたら高くて。正直なところ、扱いに困ります」

「あー…それは、わかるな」


 状況が容易に想像できて、苦笑いが出る。



「結局、権力に固執する輩は、自分に有利な奴を担ぎ上げておいて、用済みになればすぐ鞍替えをする。まったくもって、男の風上にも置けない、糞野郎です」

「…あんた、中々言うじゃねえか」


 歳三は意外そうな顔をして、改めて八郎を見た。伊庭の小天狗と囁かれ、錦絵にしきえが出回るほど人気の若き剣豪が、百姓出の自分と考えが通じる所がある。何故か妙に嬉しくなった。



「ちょっと見直したぜ」

「今頃ですか? 酷いな、土方さん」

「悪ぃな。俺ぁ、ひねくれてんだ」

「あっ、じゃあ詫びついでに、今度、手合わせして下さいよ」


 実は八郎が試衛館に通い始めてしばらく経つが、歳三とは一度も剣を交えていない。意図的に避けていたのだが、どうやら気付かれていたらしい。



「…俺はあんたの綺麗なそれと、合わねえよ」

「そんなことないですよ。沖田さんが言ってました。土方さんは実戦になったら、めっぽう強いんだって」

「あいつ、余計なことを…」


 思わず舌打ちするが、口を開けば減らず口を叩く総司が、そんなことを言っていたとは意外だった。口端が自然と上がっていた。



「そのうちな」

「約束、ですよ」

「わーった、わーった。ったく、ほんとそっくりだな」

「え? 何がです?」

「なんでもねえよ。おら、さっさと行くぞ」


 上空をとんびが円を描いて飛んでいる。いつになく穏やかな午後。そんな様子を見つめる複数の目があることに、まだ二人は気付いていなかった。




◇  ◇  ◇



 それより三日ほど前、品川のとある江戸下屋敷の、もっとも奥まった一室に、いら立った声が響いていた。



「───それでお主らは、おめおめ帰ってきたというのか」

「面目次第もございませんっ」


 上座に座る人物が、下座で平伏する男を見下ろしていた。そこに居並ぶのは、他に数名、皆一様にこうべを垂れている。



「これだから、郷士ごうしは使えん! もう良い、江戸留守居るすいの者から適当に見繕みつくろう。──たかが、田舎侍に遅れを取るなど、恥を知れ!」


 怒りが収まらないまま、上座から扇を投げつけた。扇が肩に当たった男は、わずかに頭をあげ、主君の顔を見るが、その憤怒ふんぬの形相に、さらに額を畳みにこすりつけて懇願こんがんした。



「殿! 次は必ずっ」

「聞かぬ。下がれっ、顔を見るだけで気分が悪うなる」


 容赦なく浴びせられる言葉に、頭を下げる男達は唇を噛み締めている。それを視界の端で捕らえた一人の男が、上座に向かって口を開いた。



「──…殿、お怒りもごもっともでございますが、どうでしょう。この者たちに今一度、機会を与えてやっては」


 そう語ったのは、上座すぐ近くに控えた家臣、深尾である。謹慎中の主君に傍仕そばづかえをする筆頭家老の若き嫡男だ。正式に家督を譲られてはいないが、実質上の筆頭家老である。



「なにゆえだ」

「主命は果たせませんでしたが、こたびの一件でかの者を討つ理由が出来ました。その点は評価すべきことかと存じます。それに…」


 まだ怒りの納まらぬ主君に、深尾が一礼して傍に寄る。未だ頭を下げる男らを一瞥した後、脇息きょうそくにもたれる主に耳打ちするように話した。



「いざ、命を果たした後…。いらぬことを喋られては困りましょう。郷士なら何かと使い捨てられますゆえ」

「──ふむ」

「ここで彼らに温情をかけ、恩を売る方が得策かと」

「なるほど」


 黒い笑みを浮かべて深尾を下がらせると、一つ咳払いをして命を下した。



「では、深尾の進言に考えを改めよう」


 一度言葉を切って口火を切る。



「今一度、そなたらに命を授ける。名誉挽回したくば、命を賭して任を遂げよ。見事目的を果たした暁には──、…そちら故郷での待遇も今より良くなろうぞ」

「はっ」


 畳に着く手が白くなるほど握り締めていた手を緩め、男たちは一様に頷いて部屋を辞していった。部屋から足音が遠ざかると、上座から低い笑い声が聞こえてきた。




「何がおかしいのです? 殿」

「わしも人のことを言えぬが、お主ほど腹黒い男は、見たことがないと思ってな」

「何をおっしゃいますか。殿には敵いません」

「お前が言うと冗談に聞こえぬ。怖い男よ」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 向き合って座った深尾が深々と頭を下げる。その白々しい態度を鼻で笑うと、土佐守、山内容堂は立ち上がった。



「吉原へ参る。おぬしも着いて参れ」

「はっ」


 深尾は主君に深々と頭を下げると、部屋を出て行く容堂について部屋をあとにした。

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