第18話 人間のような欲を持つ


 いつの間にか訓練場からサビーヌが居なくなったことに、他の騎士たちは気付くことはなかった。


 サビーヌはいくら強いとはいえ女であるから、手洗いに行くにしても男の騎士よりは時間がかかることがあるからだ。


 薬師のヴェラと時々入れ替わらなければならないことも考えて、普段から時々いつの間にかサビーヌが居ないことに、騎士達を慣れさせるよう仕向けているということもある。


 そんな風にして、薬師のヴェラと騎士のサビーヌは、誰にもバレることなくそれぞれを使い分けて生活することが出来ていたのだ。


 プリシラとエタン卿が去った後、暫くはグスグスと泣いていたヴェラも、気持ちが落ち着いた後は治療室へと戻って行った。


「それにしても団長……、ヴェラ先生ってあんな風に泣いたりするんですねぇ」

「あんな風にって……どんな風にだ?」


 相変わらず、女のこととなるとまるっきりダメな団長に向けて、副長ポールは丁寧に説明した。


「いつも余裕で大人、色香がムンムンのヴェラ先生が、あんな風に子どもみたいに泣きじゃくることですよ」


 三白眼で何もない景色の上方を見据えながら、ユーゴは顎に手を当てて考える素振りを見せた。


「まあ、確かにそうだな。先生には巻き込んでしまって嘘を吐かせ、申し訳ないことをした」

「いや、団長。それだけですか?」

「それだけ……とは?」


 ポールはこの非常に鈍い男に、ガツンと一発お見舞いしたくなるほどの衝動に駆られたが、そこは何とか堪える事に成功した。


「団長……、先生はきっと……。いや、やめときましょう。僕の口から伝えるのは……」

「なんだ?」

「いえ、いいです。またそのうち……」


 あえて艶っぽい悪女のような演技まねをしてまで、騎士団長ユーゴの無理な縁組を防いだ薬師ヴェラの気持ちは、副長ポールには知られることとなった。


 その日、勤めを終えた薬師のヴェラは、アフロディーテの神殿へと向かった。


「我が愛し子、可愛い子。今日は泣くようなことがあったの? 目の周りが赤いわ」


 白い女神は衣擦れの音を立てながら、ひざまずくヴェラの頭を撫でてやる。


「アフロディーテ様、今日私はユーゴを助ける為とはいえ、人に酷いことを言ってしまいました。たくさんの言葉が、いつの間にか口をついて出たんです。まるで私が私ではないように、きつい言葉が次々と……」


 モフは元々気が小さくて、人を傷つけるようなことをすることが出来ないような生き物である。


 パン屋のルネの時には、一方的にプリシラに詰め寄られても我慢するしかしなかった。

 だけれども、薬師のヴェラとなった時には、時々思った以上に他人に対してなまめかしい態度をとる時があった。


「あら、ごめんなさい。気付いてしまった?」


 アフロディーテは歌うように、悪戯がバレてしまった子どものように笑いながら答えた。


「アフロディーテ様? 私が人間の姿になった時、何か自分が自分でないような、おかしい時があるのです……」


 ヴェラの姿をしたモフは、不安げにしてアフロディーテに尋ねる。


「実はね……パン屋のルネも、薬師のヴェラも、そして女騎士のサビーヌも、過去に実在した人間なのよ」

「過去に、実在した人間?」

「そう、昔々にね。可愛い愛し子、あなたは元々無垢で人の心をまだよく知らない、とても可愛らしい生き物よね。そんなあなたを人間にするには、誰かの人格を借りなければいけなかったの」


 アフロディーテが言うには、ルネやヴェラ、サビーヌといった娘達は過去に実在したのだと言う。


 もう既に、彼女達はこの世には存在しないが、それでもこの女神アフロディーテの神殿に熱心に通い詰めた彼女たちの人格を、ケサランパサランであるモフに貸し与えたそうだ。


「どうりで、作ったことがないはずのパンが焼けたり、薬師としての知識や、騎士としての身体の動きが自然と出来ると思いました」


 モフは納得した。いくら女神の加護とはいえ、あまりにも上手く出来過ぎていると思っていた。


「アフロディーテ様、それでは私がルネやヴェラ、サビーヌである時には、私は私であって……、でも厳密には私ではないのですか?」


 サラリと長い白髪を、肩から胸に流したアフロディーテは、切長のアメジストのような神秘的な瞳を細めた。

 そして薄い唇を微かに持ち上げたのちに、目の前の愛し子に向けて言葉を紡いだ。


「そうね、厳密に言えば確かに私の愛し子は、ルネであり、ヴェラであり、サビーヌであるの。あなたが本当にあなたとして人間になる方法はあるのよ。知りたい?」


 モフが、過去の娘達の人格を借りずして人間になる方法……。

 それはつまり、モフがモフとして人間の姿になれるということ。


「アフロディーテ様、知りたいです。私は……、出来ればユーゴのそばに、モフとして寄り添いたい」


 プリシラという存在によって、そしてユーゴのことを知れば知るほどに、モフはユーゴに対する気持ちが膨らんだ。

 ユーゴのそばに他の誰かが居ることを考えただけで胸が苦しくて痛むのだ。


「ケサランパサランの私が、まるで人間のような欲を持ってもいいのですか?」


 ヴェラの顔立ちと声音で、しかしケサランパサランのモフとして言葉を発した。

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