第9話

「お忙しいところすみません」

「いえいえ、私が忙しいときは日本が大変なときですよ」

「たしかにそうですねぇ」

 大人の二人は気さくに会話を交わす。

 日本は今日も平和だ。

「それでも書類仕事とかあるでしょう」

「残業だけで済む仕事は忙しいうちに入りませんよ。さすがに演習直前とかだと睡眠時間を削らないと終わりませんけどね。それに今日はサービスの休日出勤ですから問題ありません」

「ははっ……」

 校長はただ苦笑いするだけだった。

 忙しいときは睡眠時間を削るだなんて、国家公務員も楽ではないのだろう。

 それにサービスの休日出勤だから問題ないという意味が分からなかった。東郷がまだ高校生だから分からないだけだろうか。

「今回は隊員の募集に来たようなものですから。それに説明会の時間も頂いてこちらこそありがとうございます。パンフレットもたくさん持ってきましたよ」

 そういいながら宗太郎は足元に置いた段ボールに視線を送った。

 今日の彼は普段とは違った服装。いや制服だった。

 金色の桜の飾りがつけられた帽子。紺色の上着の左胸には金属でできた五つのバッジが金色に輝き、その下にはカラフルな布製の飾りが装着されている。

「ついでに応募用紙も持ってきました。今年の一般曹候補生の募集は終わりましたけど、自衛官候補生は一年中募集していますから」

「それは商売が上手で」

「これで見つかれば評価が上がりますから来年のボーナスが楽しみですよ。そのかわり応募者が見つかるまで帰ってくるなって上官に命令されましたけどね」

 そんな上官の話をすれば確実に誰も応募しないだろう。

 すくなくともここにいる東郷と軽音楽同好会の部員たちは応募しない。そもそも東郷は自衛隊に行くつもりなんて考えたことすらないけども。

 今年の自衛隊の試験に応募しているという部長をちらりと見ると、彼は顔を引きつらせていた。これから足を踏み入れようとしている世界のちょっとブラックな一面を垣間見たのだから仕方がないだろう。

いや、宗太郎は最初の自己紹介で小隊長を務める一等陸尉だと言っていた。部長は陸海空のどこをどの区分で志願しているかは聞いていない。しかし陸上の場合であれば最初の訓練を終えて部隊に配属されると上官は分隊長になる。宗太郎が務めている小隊長はその分隊長の上官なのだ。

 よく考えたら以前、宗太郎が学校にやってきたときに彼は部長と対面していなかった。それにファミレスで宗太郎を紹介してくれと言われたときも彼の素性は話していなかった。軽音楽同好会の部活動昇格という内部の問題を解決するために呼び寄せたのが未来の上官のさらに上官になるかもしれない人だったことで部長が委縮していても何らおかしいことはない。

「悪いんですけども軽音楽の皆さんはこの段ボールを職員室に持っていってもらえますか? 近くの先生に自衛隊のパンフレットって言えば伝わりますから」

「分かりました」

 校長が仕事を依頼すると、チャラそうな見た目の副部長が快く引き受けた。

「さて宗太郎さん。こちらへ。校長室でいろいろ話を聞かせてください」

「もちろんです。パラシュートが開かなかった話でもしますか?」

 かなり気になる雑談をしながら彼らは校長室の中へと消えていった。

 パラシュートが開かなかったのになぜ宗太郎は生きているのだろうか。

「……東郷君、マジ?」

「え?」

 未来の情感の上官が立ち去ったことで部長の硬直が解けたようだ。

 彼は戸惑いながらも東郷に質問した。

「あの人とどこで知り合ったの?」

「母校の吹奏楽部関係です」

 彼の声はやや震えていた。

 たまたま母校に戻ったときに、たまたま指揮を振ることになった吹奏楽界の大物の助手として来ていたのが宗太郎だった。初対面だった彼はなぜか東郷の家系を言い当てていたが、嘘偽りなく彼とはそこで知り合った関係だ。

「本当? 鶴見が言っていた人って本当にあの人なの?」

「……そうですよ」

 部長はわなわなと震えたのちに隣で段ボールを持ち上げようとしていた鶴見に掴みかかった。

「おい鶴見! お前なんて人を呼んできたんだ!」

「え? 俺、なにかやっちゃいました?」

 鶴見は冗談めかして返答した。

 どこかの異世界に飛ばされてしまった主人公が言いそうなセリフだ。

「やっちゃったんだよ! 別の意味でやっちゃったんだよ!」

「え? もしかして空手部の顧問と試合にならない的な?」

「別の意味でならねぇよ!」

 東郷の偏見だったけども部長は文武両道で冷静沈着な人物だと思っていた。

 そんな部長がここまで興奮しているのだ。

 気づかないうちに何かまずいことをしてしまったのだろうか。宗太郎を呼ぼうと言い出したのは鶴見だが、実際に交渉したのは東郷だ。がっつりとこの一件に関わっているということで東郷は冷や汗をかいていた

「あの人、どう見てもヤバい人じゃねぇか! 特殊部隊の出身だって言われてもおかしくねぇぞ!」

 部長は鶴見の肩を掴んで激しく揺する。

 動揺している部長に対して鶴見はヘラヘラとしている。とんでもない事をしてしまったという状況を理解していない様子だ。

「お前、あの人の階級を知っているか?」

「東郷、なんだったっけ?」

 鶴見は宗太郎の階級を知らなかったようだ。

 よく考えてみるとあの宗太郎飛び降り事件のときは階級の話が出なかった。

 鶴見が知らなくても仕方ないと思い、彼に代わって東郷が答えた。

「1等陸尉って言っていましたよ」

「1等陸尉っていうのは外国の軍隊の大尉のことだ。大尉って分かるか?」

「それなりに偉い人でしょう?」

「そういえば宗太郎さん、小隊長をやっているって言っていましたよ」

「そうなんだよ大尉は隊長クラスなんだよ」

「分かったからちょっと落ち着けよ」

「……悪い、ちょっと興奮しすぎた」

 興奮している部長を副部長がなだめる。

 チャラそうな見た目をしているけども、きっとこうやってクッション役になる能力を買われて副部長という大役を任されたのだろう。

「話を戻すけど、大尉って普通あの年齢じゃなれないんだよ」

「え? じゃあもしかして政府のコネで入ったみたいな?」

「いや、あの年齢で一等陸尉ということはたぶん防衛大学校か一般幹部候補生のどちちらかで入隊しているはずだ」

「へぇ~」

 説明を受けたもののその凄さを鶴見は何とも思っていないようだ。

 あまりにもその凄さが伝わらないことに呆れたようで、部長はさらりと鶴見の関心がありそうな話をした。

「言っておくけど防衛大の偏差値って東京大学とほぼ一緒なんだぞ」

「マジっすか!?」

 法曹を目指す鶴見は当然、法学部がある大学への進学を考えている。それだけでなくさらに先の法科大学院への進学者数、司法試験の合格者数の実績がある大学に絞っている。その中にはもちろん日本の最難関の東京大学も視野に入れているらしい。この鳴子川高校からその大学に進学した実績はないらしいけども、「それならば俺がその最初の実績になる」と意気込んでいる。

 彼は防衛大学校への進学は全く考えていなかったようだ。だから偏差値を知らなかったとしても不思議ではない。そして東京大学を目指す彼が東京大学と防衛大学校の偏差値が同じと聞いて驚かないわけがなかった。なにせ東京大学レベルの人間がついさっきまで目の前にいたというのだから。

「一般幹部候補生で入っていたとしても大卒資格が必要だし倍率も高いからかなりの学力を持っていると思うぞ。国立大出身なんてザラにいるらしいからな」

「ヤバいじゃないっすか!」

「それにあの人が凄いのはあの年齢であの階級に上り詰めていることじゃない。左胸にバッジを五つもつけていただろ?」

「そうだったか東郷?」

「つけてたよ」

 ただの飾りだと東郷は思っていたが、それは価値があるものだったようだ。

「レンジャー、空挺、冬季遊撃、格闘、潜水……」

 今ここにいるメンバーで唯一その価値を知っている部長が興奮気味に呟いた。

 彼の意識を呼び戻すかのように副部長が面白そうに質問した。

「レンジャーってあれだろ? 返事を全部「レンジャー」で答えるっていう」

 その名前は東郷も聞き覚えがあった。以前ニュース番組を見ていたらその訓練の特集が組まれていた。その訓練生たちの返事を祖母がまねして遊んでいたものだ。

「ああ。それに空挺徽章も着けていたから、もっと細かく言うと幹部空挺レンジャーだ」

「空挺ってパラシュートのことですよね?」

 鶴見の質問に部長はやや興奮気味にそれが正解であることを伝えた。

 迷彩を施された大きな輸送機から隊員たちが次々に飛び出していく。落下すると同時に背中のリュックサックからパラシュートが引っ張りだされ、青空に暗い緑色の花が一直線に並ぶ。

 そんな映像を正月のテレビ番組で何度か見たことがあった。

 部長が興奮したまま解説を続ける。

「だけどあの人の空挺徽章の上に『FF』ってマークが付いていただろ?」

「そうだったか東郷?」

「……なんか青いのが付いていた気がする」

「あれは自由降下ができる隊員がつけているバッジなんだよ」

「自由降下って?」

「普通の空挺降下はだいたい地上から三百メートルぐらいの高さから飛び降りて自動でパラシュートが開く。だけど自由降下っていうのは約一万メートル。地上からは見えない高さから飛び降りるんだよ」

 東郷はべつに高いところが苦手というわけではない。

 彼は小学校時代に社会科見学で地元の日向市消防本部に行き、消防隊員の指名によってはしご車に乗せられた。だいたい五十メートルほどの高度まで持ち上げられたけども特に東郷は何とも思わなかった。

 彼が経験した最大の高度はそれだった。少なくとも一万メートルという世界は経験がない。しかしその高さから飛び降りろだなんて言われようものならば確実に足が震えるだろう。ましてや自分の意思で飛び降りなければならない。東郷ならば泣き喚いて近くのものにしがみつくに違いない。

「それで輸送機を飛び出したら任意の高度でパラシュートを手動で解放するんだよ。すぐに開いて長距離を滑空することもあれば、姿を見られないように地面ギリギリで開くときもある。どちらにせよ自由降下っていうのは敵地に隠密潜入するときに使う技術なんだよ」

「敵地にパラシュートで潜入って……いわゆる「鳥になってこい」的な?」

「まさにそれなんだ。そしてあの資格を取るための訓練は、ほとんどが特殊作戦群、いわゆる特殊部隊の隊員で枠が埋まっているらしいんだよ」

「ということはまさかあの人って特殊部隊の隊員ってこと?」

「そう。きっと特殊作戦群の出身に違いない」

 鶴見は「なんかすごいんじゃね?」とでもいうように軽い口調で質問したが、それを肯定する部長の声は震えていた。

 東郷も宗太郎の凄さを理解していた。

 彼は胸に五つのバッジを付けていた。そのうちの二つはレンジャーと空挺のものだ。どちらか片方だけでも十分に凄いのに二つとも持っているだなんて。詳しくはないけども部長の話ではより特殊な技術らしい。

「先輩、それで格闘なんとかというのは何ですか?」

「格闘徽章な。あれは格闘術の教官であることを示すバッジだよ」

「ということは枕崎先生も付けていたということですか」

「そういうことになるな。だけどさっきの人のは……いや、これは言わないでおく。戦うところを見れば分かるだろうからな」

 そうもったいぶる部長は何かに恐れているかのようだった。それと同時にニヤついていた。それは一体どういう意味なのだろうか。


 軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた特別試合が開始された。

 先鋒同士の試合が始まって一分ぐらいだ。

 つい先ほど審判の「一本!」の判定が轟いた。

 軽音楽陣営で副将、つまり四番目の選手を務めていた部長が撃破された。俺に任せろと意気込んで試合に臨んだ彼。空手を昔かじったことがあると言っていた部長は他の部員よりも善戦していたものの、軽々と一本を取られて負けてしまった。

 しょんぼりと特設のマットから退場してきた部長に宗太郎が声をかける。

「奮闘したじゃないか」

「ありがとうございます」

「だけど相手は手加減していたな。俺は空手に詳しくないけども」

 腕を組んで断言する宗太郎は武道の師範というよりも完璧に自衛隊のどこかの教官のような雰囲気を醸し出していた。着ているのが武道技ではなく迷彩服だからなおさらのことだ。

 空手部陣営はまだ先鋒の選手が戦っている。それに対して軽音楽陣営はあっというまに大将が引きずり出された。誰がどう見ても圧倒的に追い込まれており、同好会に所属する部員たちの顔は曇っている。

 その心情を察したのだろう。

 宗太郎が周囲に聞こえるように冗談を飛ばした。

 むしろこれが冗談でなければ本当に困る。

「東郷、俺の代わりに戦ってみるか?」

「僕に死ねって言いたいんですか?」

「さすがに格闘技で死ぬことはないだろう。格闘技ではな」

 軽音楽同好会が追い込まれているというのに宗太郎はたいしたことはないとでも言うように冗談を飛ばしている。

 しかしなぜだろう。

 彼が言うと不思議と冗談には聞こえない。

 そして不思議と彼は格闘技であることを強調していた。

「頑張れば一人くらいは倒せるかもしれないぞ」

「普通に考えて無理ですよ。だって今年全国に行っていたんですよ?」

「ほう、全国か」

 ニヤリと宗太郎は口角をあげた。

「……なにか変なこと考えていませんか?」

「別に。ただあの連中で三年生の奴が誰か知っているか?」

「いえ、友達にも空手部の人はいないので」

「そうか。駐屯地に連れて帰ろうと思ったんだけどな」

 すっかり忘れていたけども、今回の宗太郎はあくまで自衛隊の広報活動として来校していたのだった。クラスマッチの特別試合で空手部陣営として戦うのは異種格闘技の試合という形で自衛隊の格闘展示をすると事前に聞かされている。

 こんな時まで隊員募集を考えているだなんて。

 彼は仕事熱心なのか、それともちゃっかりしているのか。

 審判のコールで大将の入場が指示された。

 コートに足を踏み入れる宗太郎。そんな彼を軽音楽陣営の選手たちや部員たちが思い思いに応援の言葉を述べる。

「おう、任せとけ。だけど相手が相手だから手は抜かせてもらうぞ」

 そう言い残して宗太郎は競技エリアへと入っていった。

 相手は空手衣を身にまとい頭にはヘッドギア、名前は分からないが両手両足には防具を付けている。それに対して宗太郎は迷彩服。ヘッドギアを装着しているのは同じだが、黒光りしているブーツはマットの上には似合っていない。純白の空手衣と迷彩服だなんて普通ではありえない組み合わせだ。

「始め!」

 審判を務める校長の号令によって試合が開始された。

 空手部陣営の先鋒を務めている選手はこれまでとは違う容貌の相手に戸惑ったようだがそれは一瞬のことだった。全国大会に出場したんだから絶対に勝てる、と顧問に応援されていた空手部員はこれまでと同じように宗太郎に襲い掛かる。

 しかし東郷が把握できたのはそこまでだった。

 床に崩れていたのは空手部員だった。

「一本!」

 なにがあったのか分からないという表情で張り倒された部員は退場していく。

 自信満々な表情で次の選手が入れ替わりで入ってきた。

「始め!」

 準備が整うとすぐに試合開始が宣言された。

 先ほどの選手と同じようにぴょこぴょこと宗太郎の出方を伺うが、肝心の宗太郎は仕掛ける気配がない。

 ジリジリと後退しつつもフェイントのパンチを繰り出してくる。宗太郎は迎撃する動きを見せるがそれでも仕掛けてはこない。

 東郷は空手のルールについては全くと言っていいほどの素人だ。

 しかし今回の試合は完全な特別ルール。空手部陣営が勝利するためには制限時間内に軽音楽陣営のすべての選手を倒さなければならない。これは宗太郎によって事前に追加されたルールだけども彼は試合が膠着することを予測したのだろうか。

 どうやら宗太郎は攻撃を受けたときに限って反撃するようだ。それは戦っている選手も気づいていた。しかし相手からは攻撃されないからといっていつまでも試合を長引かせるわけにはいかない。時間切れになれば勝利条件を満たせなかったということで空手部陣営の敗北になるのだから。

 空手部員は覚悟を決めて攻撃を仕掛けた。

 しかし彼も一瞬にして床に組み伏せられていた。

「一本!」

 再び審判を務める校長が試合終了を宣言した。

 あっという間に二人を倒してしまった。

 もしかしたらどうにかなるかもしれないぞ。

 そう期待を抱きながら試合を見守る東郷たちはちらりと大型のタイマーを確認する。

 一秒ずつカウントが減っていくタイマーにはまだ二十五分以上が残っていた。この残り時間を宗太郎が耐えきることができれば軽音楽陣営は勝利し、そして部活動に昇格することができる。

 選手が退場し、次の選手が入場してきた。

 東郷は試合会場のマットを挟んだ反対側からずっと疑問に思っていた。

 その選手が大村だったからだ。

「お前、空手部にも入っていたのか?」

 会場のざわめきでうまく聞こえなかったけども、宗太郎がそう大村に聞いているような声が聞こえてきた。

 この試合には軽音楽同好会の未来がかかっている。

 そして部活動昇格に吹奏楽部の大村は反対している。

 それに大村は空手部のとある部員と恋人関係らしい。

 きっと部活動昇格を自分の手で阻止したくてチームに混ぜてもらったのだろう。

「始め!」

 校長はそれを指摘することなく試合開始を宣言。

 あらかじめ顧問である枕崎から伝えられていたのだろうか、それとも生徒総会で舌戦を繰り広げた大村のことだから参加するだろうと想定していたのだろうか。

 いずれにせよ校長は審判として試合開始を宣言するだけだった。

 もしかしたら大村も空手の経験者なのかもしれないと東郷は考えていた。

 しかしそれは違うとすぐに分かった。

 彼女はぴょこぴょこと小さく跳ねることなくそそくさと素早く後退していく。それを宗太郎はファイティングポーズをとったまま追い込んでいく。

 端まで後退すると横に逃げた。ひたすら横に逃げ回った。しかしあっという間に軽音楽陣営が陣取っている目の前の角に追い込まれ逃げ道を遮断される。

 もうどうすることもできないと悟ったようだ。

 窮鼠猫を噛むという言葉だってある。

 やけくそになった大村は素人なりの渾身の前蹴りを繰り出した。

 それは宗太郎の股間に直撃。

 ドカッという嫌な音が大きく響いた。

 大村の反則だった。

 東郷は本能的に内股になり無意識のうちに急所を手で押さえていた。

 しかし男ならば耐えることができないはずの攻撃を受けた宗太郎は何とも思っていないようだ。試合を止めようとしていた校長のコールよりも先に、彼は大村の脇と後頭部に両手を差し込むと丁寧にその場に倒して一本を取ってしまった。

 さっきの二人に対しては腕を掴んで地面に倒していたように見えたが、大村に対してはそのようなことはしなかった。彼女が楽器をやっていることを知っているからこそ商売道具である腕には攻撃をしなかったのだろう。きっと宗太郎なりの優しさに違いない。

「……大丈夫ですか?」

「何がだ?」

 立ち回りで目の前にやってきた宗太郎に東郷は金的の心配をしたけども彼はその意味が分からなかったようだ。かといって痛みを我慢しているようにも思えなかった。いったい彼の体はどのような構造になっているのだろう。

 退場していく大村と何か会話を交わした副将が入れ違いで入場してきた。

「あれがこの前の議長だよ」

 部長がそっと教えてくれた。

 入学したばかりの当時の東郷は議長の顔なんて覚えていなかった。

 そうか、あの人が大村の恋人なのか。東郷は嫉妬とはまた違う、なにか特別な感情を抱いていた。

 入場してきた副将は周囲に手を振り、「俺が決めてやる!」という強気な宣言をしていた。本格的な空手の試合であれば禁止されているものかもしれないけども今回は学校のイベントだ。盛り上げるためにもそのくらいのパフォーマンスは許されるだろう。

 試合開始の位置で正対する二人。

「俺、総合格闘技やってるんで手加減なしで来ていいっすよ」

「いいだろう。そのかわり文句は言うなよ?」

 その二人の会話は周囲によく聞こえていた。

 空手部陣営の副将は大村と交際している。

 彼女である大村に格好がいいところを見せたいのだろう。

「始め!」

 校長が試合開始を宣言。

 それと同時に副将は突撃して上段蹴りを繰り出した。

 残念ながらそれは読まれていた。宗太郎は片腕で側頭部をガードする。

 攻守が入れ替わった。

 宗太郎が相手の頭部を目掛けて蹴りを繰り出そうと右脚を振り上げた。それを見切ったようで副将も素早く左腕で防御姿勢をとった。

 しかしそれは失敗だった。宗太郎は空中で足を入れ替えて左足のハイキック。それは無防備だった副将の右側頭部に命中。軸足のない状況での蹴りだったけどもかなりの衝撃だったようだ。ヘッドギアを衝撃が貫通したようで副将はよろける。そんな彼を襲ったのは宗太郎の右足の踵だった。初撃に使った左足を軸足に使い、一回転して右足による上段後ろ回し蹴りに繋いだのだ。

 東郷は中学の体育の授業で柔道を経験した。柔道には連絡技という複数の技を連続して仕掛けるテクニックがあるらしい。技が失敗したから別の技を仕掛けただけではないだろうか。当時の東郷はそう思っていたがたった今理解した。柔道とは違うけどもプロによる上段回し蹴りからの上段後ろ回し蹴りはまるで流れるような一つの技に見えた。

 倒れた副将に宗太郎が馬乗りになる。

 これはまずいと思ったのだろう。校長が慌てて一本を宣言。

 試合が終わって立ち上がった宗太郎は相手の副将を引き起こした。誰から見ても審判の介入は遅れていたが、馬乗りになった宗太郎は攻撃を仕掛けることはなかった。

 互いに礼をしたのちに両者は会場を後にした。

 いよいよ最後の大将同士の決戦だ。

 試合の目玉を盛り上げるために放送が流されることになっていた。

 今回の特別試合は学校行事の一つ。体育大会で応援団の演武の時間が設けられているように、ノリの良いアナウンスで試合を盛り上げようという魂胆なのだ。

 自陣営に戻ってきた宗太郎に対し、軽音楽同好会の部長は興奮気味に話しかけた。

「上岡1尉!」

「なんだ?」

「実は俺、いや私は来月自衛隊の試験を受けるんです」

「どこだ?」

「陸上です。自衛官候補生と一般曹候補生を受験します」

「防大は受けないのか? 航空学生もあるだろう」

「私の学力では無理ですよ。それに防大に行ったらどこに配属になるか分かりませんし、航空学生だと海と空にしか行けないので」

「そんなに陸に来たいのか。なんだ、戦車にでも乗りたいのか?」

「実は空挺に行きたいんです」

「そうか」

「それで最終的には特殊作戦群に行けたらと」

「ほう。特戦群を知っているのか」

「もちろんです。ただそこに入るのはかなり難しいと思いますが……」

「上等、上等。目標を持つことはいいことだ。あとはそこに進んでいくだけだな」

「まずはレンジャーを取らないとですね」

「そうだな。レンジャーはゴールでもありスタートでもある。俺は何度か教官をやっているが、レンジャーになった後のことを最初から考えている奴は大歓迎だ。もしも俺が担当になったら他の訓練生よりも可愛がってやるよ」

 可愛がる。

 その意味は決して優しくしようという意味ではない。

 むしろ逆だ。

「一足先にいいことを教えてやろう。足元だけ見ていても前には進めない。前に進みたければ前を見ることだ」

 自身が目標としている世界で教官として活躍している人物から直接教えられた事に部長は感激しているようだった。彼の返事はこれまでに聞いたことがないような気力に満ち溢れたものだった。

「これは山の中だけじゃない。人生だって同じだ。自分はどこに行きたいのか、どこに行くべきなのか。前を見ていなければそれを見失ってしまう」

 その言葉の意味は重かった。

 自衛官は独特な生死感を持っていると聞いたことがある。その考え方は一般部隊から精鋭部隊、そして特殊部隊へと強くなるにつれて磨かれていくのだろう。

 部長は宗太郎がきっと特殊部隊の出身だろうと話していた。

 本当にその経歴があったとすれば、彼の生死感はより研ぎ澄まされているはずだ。そしてその生死感が人生の考え方にも繋がっているのかもしれない。

「宗太郎さん、さっき先輩たちが話していたんですけど……」

 これを聞いてもいいのだろうか。

 東郷は悩みながらも切り出した。しかしその続きを口にしない。

 その心中を察したようで宗太郎が続きを促した。

「なんだ?」

「もしかして……宗太郎さんって特殊部隊にいたことがありますか?」

「さぁ、どうだろう」

 何を言い出すのか、とでも言いたげに宗太郎は不敵な笑みを浮かべる。

「というか何でそういう話になったんだ?」

「宗太郎さん、制服にバッジを五つもつけていたじゃないですか」

「あれの事か」

 彼は何でもないというように笑った。

「空挺団にいたら強制的にレンジャーと空挺は取らされる。特戦群じゃなくてもフリーフォールを持っている空挺隊員はザラにいるし、潜水員だって持っている奴は持っている。格闘と冬季遊撃は持っているに越したことはないが必須というわけじゃない」

 大した事はないとでも言うかのように宗太郎は淡々と語る。それとは対照的に東郷は恐れおののいていた。

 自衛隊の訓練というものはテレビの特集で何度か見ている。きっとカメラがないところはあれ以上の訓練をしているに違いない。東郷はテレビの特集で紹介される内容の訓練でさえ突破することはできないはずだ。

「仮に特殊部隊出身だったとしても、現役隊員がそれを言えるわけがないぞ」

「もしかして首を折ったりできますか?」

「なんだ、消されたいのか?」

 宗太郎は笑っていたが、どうやらはぐらかされたようだ。

 それでもと部長の予想は当たっているかのような気がした。

 理由なんて分からない。

 しかし彼ならば日本が大きな災害に直面しようとも、不利な戦争状態に陥ったとしても、どのような困難もひっくり返してしまいそうな頼もしさを東郷は感じていた。

「上岡1尉、よろしくお願いします!」

「任せとけ。相手の手の内は全部知っている」

 自信満々にそう答えた宗太郎は試合会場のマットの縁に立った。

 会場に流れる放送はこれまでのダイジェストを説明していた。

 そしてこれから始まる最後の試合に話題が移った。両陣営で大将を務める選手が紹介される。

 さながらプロレスで流される選手入場のアナウンスのようだった。その放送を担当しているのは放送部の部員なのか有志の生徒なのか分からなかったけども口が達者なのは間違いない。

「最終所属は都城駐屯地、第43普通科連隊、第2普通科中隊、分隊長! 元3等陸曹、格闘指導官、枕崎耕司!」

 生徒たちの歓声や拍手を受けて空手部陣営の大将が入場してきた。

「空手部に所属していた高校時代には全国大会に出場! その実績を買われて特待生で入学した大学では四年間のすべてを空手に捧げる! 卒業後は陸上自衛隊に入隊し格闘指導官養成課程を修了したのちに格闘術の教官として隊員の育成に尽力! 数年前に教員採用試験に一発合格! 現在は我が鳴子川高等学校の体育教師! 宮崎県には彼に勝てる人間はいない!」

 彼はそれなりに生徒たちに人気があるようだ。普段のジャージ姿とは違う迷彩服姿に一部の熱狂的なファンは卒倒するのではないかというような声援を上げる。

「続きまして軽音楽同好会陣営!」

 選手入場の熱が冷めやまぬまま宗太郎の紹介が開始される。

「所属はえびの駐屯地、第24普通科連隊、第3普通科中隊、小隊長! 1等陸尉、上級格闘指導官、上岡宗太郎!」

 そのコールを受けて宗太郎はマットの中央に歩いて行った。

 東郷は驚いた。

 聞き間違いでなければ彼の称号の頭には「上級」という単語が付いていた。

 説明を求めようと部長に視線を送るが、彼はただ目を輝かせて試合開始を待っていた。その興奮している様子に水を差すわけにはいかず、東郷は何も聞かずに試合会場へと視線を戻した。

「出身は宮崎県の日向市! 第1空挺団を経て宮崎に帰ってきました! 陸上自衛隊幹部候補生学校、幹部空挺レンジャー課程、上級格闘指導官養成課程を主席で卒業! 現在は教官としてさまざまな駐屯地に出張し、多くの訓練生を死の淵に追い込んでいます!」

 最後の一文で各所から笑いが漏れた。

 その文章はいったい誰が考えたのだろうか。口が達者なアナウンサーなのか宗太郎本人なのか。いずれにせよ冗談っぽい一文であるが宗太郎ならばやりかねない。

「ともに格闘教官の経験があるOB隊員と現役隊員の試合です。それと同時に軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた最後の一戦でもあります!」

 アナウンサーが会場を盛り上げるなか、試合を行う二人は会場中心で何かを会話し、すぐに審判を務める校長がやってきた。

「始め!」

 審判のコール。

 それと同時に宗太郎が突撃。

 音すらしなかった。

「一本!」

 審判によってすぐに試合終了が宣言される。

 さっきまでは攻撃を受けるまでは手を出さなかった宗太郎。

 しかし今回は違った。

 肉薄する宗太郎を迎撃するべく枕崎は手を出したもののそれは赤子の手に等しかったようだ。宗太郎は一瞬にしてその腕を弾いて枕崎をねじ伏せていた。

 音もなく接近し、口を塞ぎ、音もなく倒す。

 もはやスポーツではない。

 それは鬱蒼と茂ったジャングルの中で気づかれずに敵を排除していくランボーのようだった。これが戦場であれば既にナイフを喉に突き立てているのだろう。

「うおおおぉぉぉぉぉ! マジか!」

 判定を受けて真っ先に声を上げたのが副部長だった。

 堰を切ったかのように周囲で試合を見守っていたほかの軽音楽同好会の部員たちも歓声を上げる。いや、彼らが部活動に昇格する条件は達成された。もはや彼らは軽音楽部の部員たちだ。

 こぶしを突き合せたりハイタッチをしたりする男子部員。喜びのあまり涙を流しながら飛び跳ねて喜ぶ女子部員。

 そんな彼らのそばでただ一人、部長だけがわなわなと震えていた。

 これが彼なりの喜びの表現なのだろうか。それにしてはなにかに恐怖しているようにも感じる。

「……部長さん?」

 東郷は心配そうに、そして水を差すようで申し訳なさそうに声をかけた。

 ようやく言葉を発した彼の言葉は震えていた。

「枕崎がやっていたっていう格闘指導官は部隊の格闘術の教官をする人のことなんだ。その教官を育てる教官が上級格闘指導官なんだよ」

「教官の教官、ですか」

「そう。格闘徽章を見てビビった。上級指導官なんて超難関だし、使える技の種類だって普通の指導官とは比べ物にならないらしい……」

 宗太郎の強さを説明していたはずの部長だったが、もはやそれは説明ではなくなっていた。まるで人間ではない何かの怪物を目の前にしているかのように呆然としている。

 そんな部長の姿に気づかないようで周囲の軽音楽同好会の部員たちは飛び跳ねて喜んでいた。

 宗太郎の勝利。

 すなわち軽音楽同好会の勝利。

 そしてそれは軽音楽同好会が部活動に昇格する条件を満たしたことを意味していた。数年間に渡る悲願がようやく叶ったのだ。自分たちの世代でそれを達成することができたのだ。この歴史的な瞬間に立ち会った当事者たちが人目も気にせずに喜ばないわけがなかった。

 ヒーローインタビューなのだろう。

 解説や実況を担当していた生徒がマイクを手にして宗太郎の元に駆け寄った。

 そして宗太郎がその生徒からマイクを借りて演説を開始した。

「お前ら、何か勘違いしていないか?」

 勝者のスピーチ。

 ヒーローインタビュー。

 そのような華々しいものと誰もが期待していた。

 しかしスピーカーから大音量で聞こえてくる宗太郎の声色は予想とは異なっていた。

 これはヤバい。

 そう思ったのは東郷だけではなかった。

 きっと格好いい勝利宣言をするとここにいる全員が思っていた。

 しかし予想とは真逆の口調と内容に誰もが不安になり口を閉じた。

 宗太郎は声を荒げることはなく冷静だった。

 それなのに全校生徒の誰もが怖い教師に怒鳴られたときのように静まっていた。普段の全校集会で校長が壇上に上がってもおしゃべりを止めないというのに、今回ばかりはピタリと騒めきが収まっていた。

 今日はクラスマッチの日。

 それぞれのクラスが力を合わせてスポーツをする日。

 そして軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた試合が行われる日。

 軽音楽同好会にとって大事な日だとしても学校の行事であることには変わりない。

 クラスマッチ。

 たかだか学校のイベント。

 ましてや部活動昇格を賭けた自分たちの試合に自分たちだけで試合に臨むのではなく、外部の専門家を呼んできた。しかもよりによって陸上自衛隊の小隊長、上級格闘指導官。もしかすると特殊部隊の経験者という肩書と実力を持つとんでもない人間を呼んでしまった。

 空手道場の師範のようなスポーツ選手ならともかく、殺すか殺されるかという命のやり取りをしている戦闘のプロを連れてきてしまったのだ。それはエアガンで戦うサバイバルゲームに本物のライフルを持ち出す行為に等しい。

 自分たちの問題に外部の人間を巻き込み、そして最後は外部から招いた宗太郎によってすべての試合の決着がついた。

 それなのに軽音楽同好会は悲願の部活動昇格が達成されたと大騒ぎしていたのだ。

 まるで自分たちで目標を達成したかのように。

 自分たちは何もしていないのに。

 それなのにバカ騒ぎしていたのだ。

 宗太郎が決着をつけたのにまるで自分たちが勝負を決めたかのように大騒ぎされたのではいくら彼が温厚だったとしても腹を立てないわけがない。

 東郷は今回の計画に宗太郎を紹介するという形で加担してしまった。彼は同好会の部員ではないけども、この試合に関してはれっきとした関係者だ。

 自分たちの問題を自分たちで解決できないのか。

 きっとそのように説教されると誰もが思っていた。

 東郷も申し訳なく、そして恐れながら宗太郎の次の発言を待っていた。

 しかしそれは見当違いだったようだ。

 宗太郎は「ルールを聞いていなかったのか?」と呆れているようだった。

「俺が提示した条件は軽音楽陣営が三十分生き残った場合に軽音楽が勝利とするものだ。裏を返せば三十分以内に軽音楽を全滅させた場合に空手部の勝利となる。空手部の大将を倒した場合でも三十分が経過するまで試合を続行すると伝えていた。つまり残り時間で俺を倒すことができたら空手部の勝利だ」

 誰もがその意味を理解した。

 全国大会に出場したプライドを粉々に砕かれた空手部員たちの瞳には再び火が灯る。

 部活動昇格を阻止できなかったと誰よりも悔しがっていた大村の顔にも再び決意と希望の色が戻る。

 部活動に昇格できるとぬか喜びしていた軽音楽同好会の部員たちはまだ悲願が達成されていないとがっかりしていたけども、きっと彼ならば勝てると信じていた。

 宗太郎がタイマーをちらりと確認する。

「残り二十五分間、楽しいものになりそうだ」

 東郷は戦慄した。

 宗太郎の表情は普段通りだったが、東郷は本能的な何かの恐怖を覚えていた。

 スポーツの事を東郷はよく知らない。だけどもオリンピックのテレビ放送で見るような格闘技の選手はやる気に満ち溢れていた。よく知らなくてもそれだけは分かった。

 しかし宗太郎は違う。

 例えるならば海に漂う海藻。

 漁船に続く白い航跡。

 血気盛んな空手部陣営とは対照的。今の宗太郎のことをきっと自然に溶け込んでいる、というのだろう。

 最初から自然にそこにいる。

 すぐ近くにいても気が付かない。

 まるで人々の騒めきに混じっているひとつの音のようだ。

 これから三十分近い時間を一撃も貰うことなく戦い続けなければならない。それなのに彼は恐れることもなく自信に満ち溢れることもない。

 ただ戦う必要があるから戦うだけ、とでも言っているかのようだった。

 恐怖を感じる原因はきっとそれだろう。

 恐ろしいほどに自然体。

 ニヤリと笑うとマイクに声を吹き込んだ。

「全員まとめてかかってこい!」


 タイマーが残り一分を切った。

 空手部陣営が総がかりで宗太郎に襲い掛かっている。

 その光景を一言で言うならばこれ以外にはないだろう。

 オーバーキル。

 ただそれだけだった。

 五人がかりで宗太郎に襲い掛かっていることではない。

 たった五人で宗太郎と素手で闘わなければならない。

 それがただただ悲惨な光景だった。

 大勢で襲い掛かっても歯が立たない空手部陣営がただ気の毒で仕方がない。

 いくら殴ろうが蹴ろうが、宗太郎に有効なダメージを与えることができなかった。背後から掴みかかっても軽々と投げられる。反則技の金的さえも効かない。

 枕崎はハンデとして渡されていた装備を持ち出したものの、模擬銃はあっさりと奪われて銃口で突き飛ばされる。振り回したゴムナイフも軽々ともぎ取られ、口を塞がれたのちに首筋や脇腹に突き刺される。

 戦う宗太郎の姿は不気味だった。

 恐ろしいほどの自然体で一人ずつ無力化していく。

 しかも宗太郎は無差別に反撃しているわけではない。空手部員に対しては攻撃を受けたときにのみに反撃。吹奏楽部からの応援参加である大村に対しては決して商売道具である腕を掴むことはなかった。そして元プロである枕崎に対しては一切の容赦を加えず投げ飛ばし、さらにはパンチやキックの連撃を加える。

 あまりのワンサイドゲームにそれを見守る観客はまるでその試合に台本があるかのような錯覚に陥っていた。しかし大村を除けば空手部員は空手部員であって演劇部員ではない。宗太郎に一撃を叩き込もうと必死に食らいつくその姿はどう見ても本気のものにしか見えなかった。軽音楽同好会の部活動昇格を食い止めるべく大村も必死の形相で戦っている。それらを宗太郎は涼しい顔で丁寧に投げ飛ばしていく。

 タイマーの数字が三十秒を切った。

 どこからとなく聞こえてきたカウントを読み上げる声が徐々に大きく、周囲に伝染していく。

 その声は選手たちにも聞こえていたのだろう。敗北が目前となった空手部陣営は全力で攻撃を仕掛けるが次々に軽々と反撃で倒されていく。

 十五秒を切った。

 大村の恋人と聞かされている部員が攻撃を仕掛ける。試合の最後で彼女に格好の良いところを見せようと渾身の中段蹴りを繰り出す。しかしそれは有効打とはならず掴まれてしまい、張り倒される以外に未来はなかった。

 残り十秒。

 仇を討つべく、そして部活動昇格を食い止めるべく大村が攻撃を仕掛ける。周囲の目は気にせず、そして反則を取られることも気にせずに彼女の力任せの金的を繰り出した。それは男性に対する攻撃としては効果抜群のものだ。しかし大村の失敗は宗太郎を一般男性として分類してはいけないことを忘れていたことだった。

 なんで効かないの!?

 そう言いたげな大村はそのまま丁寧に宗太郎に倒された。

 残り三秒。

 宗太郎が枕崎と対峙する。

 現役上級指導官が元指導官のパンチを防ぐ。

 攻守が入れ替わった。

 パンチの三連撃。

 それらを枕崎は上腕でガードするが衝撃はそれを貫通しているようだ。

 すかさず宗太郎はがら空きとなっていた太腿に蹴りを入れる。

 さらにパンチを二発。

 観客のカウントが渾身の力でゼロを叫ぶ。

 タイマーが鋭いブザーで時間切れを告げる。

 それと同時に宗太郎の回し蹴りが無防備になった枕崎の側頭部に命中。気味の良い軽快な打撃音が体育館にとどろいた。頑丈なヘッドギアを付けていたものの衝撃はかなりのものだったようで枕崎はどさりと倒れてしまった。

 審判を務めていた校長が試合終了を宣言しながら中央に割って入った。

 一撃も与えることができなかったことで激高したのだろう。枕崎は上司である校長を突き飛ばして宗太郎に掴みかかった。しかしそれは想定内だったようだ。突き出された枕崎の腕を引っ張るように宗太郎は涼しい顔で最後の攻撃を捌いてしまった。

 宗太郎の反撃はない。

 その必要もなかった。

 ルールを無視して襲い掛かった枕崎はマットに膝をつき、右手を抑えて悲鳴を上げていた。彼の右手は関節を外され、人差し指が曲がってはいけない方向に曲がっていた。

 クラスマッチの最後に設けられた特別試合。

 多くの生徒が興奮。

 枕崎の怪我に一部の生徒が卒倒。

 宗太郎は気だるげに枕崎の関節をはめ治す。

 軽音楽同好会の未来がかけられた三十分の特別試合は終了した。

 軽音楽陣営の勝利として。


「なぁなぁ、あのバトルゴリラ凄かったよな」

 さすがはチャラそうな見た目をしている副部長だった。なんの違和感なく近くの部員に絡んでいた。

 場所は変わり軽音楽同好会、いや軽音楽部の活動部屋。

 軽音楽部の内部には複数のバンドが構成されており、軽音楽部に所属するすべての部員はそのどこかのバンドに所属している。そして練習場所では同時にバンドが練習できるわけではない。そのため練習部屋は事前に割り振られた日程と時間帯だけで使用できることになっている。それ以外のバンドは隣の練習部屋でアンプを使わずに個人練習。もしくは金を出し合って近くのスタジオを借りて練習しているそうだ。

 普段は練習場所の使用権を割り振られているバンドの部員だけが放課後にやってきて練習しているこの教室だが、今回だけはほぼすべての部員が集まっていた。

 練習というわけでなければ定例ミーティングの日というわけでもない。

 床に座った部員たち。

 周囲にはジュースや菓子類が広げられている。

 部活動昇格を記念してその祝勝会をしているのだ。

 本来は部室での飲食は禁止されている。しかし今日ぐらいは大目に見ようということで校長が許可したのだ。それだけでなく少しだけ学校を抜け出して近くのコンビニで買ってきたものを差し入れてくれた。今、床に広げられている食品類はほぼすべて校長のポケットマネーから購入されたものだ。

 差し入れは校長だけではなかった。

 非常勤講師として学校に勤めている軽音楽部の顧問。

 もしかしたら今日部活動に昇格できるかもしれないと聞きつけたであろうOBらしい社会人も菓子類を持ってきて、現役部員たちと談笑している。

 車座になって談笑している部員たちはきっとバンドごとに集まっているのだろう。その団体を部長や副部長が回っている。

 そしてところどころから『バトルゴリラ』という単語が噴出している。

 その単語が一体誰のことを指しているのか考えるまでもない。どうやら宗太郎も『ゴリラ』から『バトルゴリラ』に昇格したようだ。どちらがマシなのかは分からないけども。

 その単語を最初に使ったのは副部長だったが、それが次々に伝染していっている。

「ねぇ鶴見君」

「どうした?」

「僕、ここにいてはいけないような気がするんだけど」

「なんで?」

「だって軽音楽部の部員じゃないし」

「今日ぐらいはいいじゃないか」

 クラスマッチの結果は軽音楽陣営の勝利となった。

 イベントが終了したのちに水分補給の時間が設けられると再び体育館に集合。事前に予定されていた宗太郎による自衛隊の説明会も終了し、各クラスでの終礼も終わって解散。

 教室から解放された東郷は宗太郎に礼を伝えるために真っ先に多目的室へと向かった。放課後にはそこで個別説明会が行われると事前に説明されていたからだ。

 礼を伝えようとしていたのは東郷だけではなかった。軽音楽部の幹部たちもほぼ同時にやってきた。

「立っていないでまぁ座れや」

 今日、彼と会ったのは来客者入口で校長と共に出迎えたときだ。あの時はゆっくりと会話をすることができなかった。時間をかけて感謝を伝えたいと思っていたのは同じだったようで東郷たちは宗太郎に勧められるままに近くの椅子に座った。

 しかしそれは宗太郎の作戦のうちだった。

 座るやいなや、それぞれの目の前にパンフレットが置かれた。

 それに加えて副部長には白い紙とボールペンが渡された。

『自衛官候補生 志願表』

 青ざめた副部長の顔をよく覚えている。

「とりあえず名前を書いてくれ。職業は高校生。第一希望は『陸上』でそれ以降は何でもいい」

 あやうく入隊させられそうになった副部長を筆頭に一行は大急ぎで多目的室を脱出してきた。自衛官候補生という制度は入隊時に十八歳以上でなければならないということで安堵していたが、いつ東郷のもとに飛び火するか分からなかった。

 多目的室を後にした東郷はそのまま自宅に帰ろうとしていたが、なんだかんだと説得されて軽音楽部の祝勝会に連れて来られたのだ。部員ではない生徒を部の幹部たちが連れてきたものだから最初は新入部員と間違われていた。最初は物珍しそうに見られていたけども、そんな部員たちもやがてそれぞれのバンドでの談笑に戻っていった。

「みんな聞いてくれー!」

 練習室のドアが開くと同時に一人の男子生徒が入ってきた。

「俺、自衛隊に申し込んできたぞ!」

 入室と同時の宣言。

 部員たちは戸惑っていたがやがて所々から拍手が湧いてきた。

 その中の一人、おそらく彼と仲がいい部員だろう。野次を飛ばした。

「お前、トラック運転手になりたかったんじゃないのかよ」

「だって運送会社の求人が無いんだもん。自衛隊だったら輸送科っていうトラック部隊があるし、それに大型免許も牽引免許もタダで取らせてくれるんだぜ?」

「免許欲しいだけだろ」

「そんなんじゃねぇよ。給料貰いながら免許も取らせてくれるんだ。こんな美味い話は他にないだろ」

「結局免許が欲しいだけじゃねぇか」

 そのやり取りに一同が爆笑。

 正直なのは良いことだけども東郷は察していた。きっと大型免許を無料で取らせてくれることを宗太郎がチラつかせたに違いない。あの人は目的のためならば何でもする。それが宗太郎という人物であることを東郷はよく知っている。

「部長、これで全員揃ったぞ」

 近くで副部長がつぶやいた。

 その話を聞いた部長は頷いたのちに立ち上がる。

「はい、みんな注目!」

 突然の号令に「なんだ、なんだ?」と部員たちが談笑をやめて視線を部長に送る。

「今年の生徒総会で部活動昇格を求めて鶴見が戦ったけど、顔も知らない先輩たちも同じように生徒総会で戦ってきました。部活動の要件がそろってこれで九年目。俺たちの代でやっと悲願の部活動昇格を果たすことができました」

 東郷はこの部室に集っているほとんどの部員たちと面識はなかったけども、彼らが部活動昇格という目標を掲げ、力を合わせてやってきたことはよく分かった。彼らだけではない。きっと彼らの先輩やそのまた先輩たちも今日を夢見て活動してきたのだろう。

 数年間、数世代に渡る部員たちの戦いが終わり、悲願がとうとう達成された。

 部員ではない東郷が軽音楽部の祝勝会に参加するというのはなんとも居心地の悪いものがあった。しかし軽音楽同好会の願いが叶い軽音楽部と名称が変更になる瞬間に立ち会えたのは言葉には表せない感動があった。

 部長は言葉を続ける。

「今回の特別試合で部活動昇格が認められましたが、それと同時に部員たちが真面目に学校生活や同好会活動をしてきたことも大きな理由だと思います。部活動になったからといって慢心して変なことをしないように、先輩たちの実績に泥を塗らないように、これからも真面目な学校生活や部活動をしていきましょう。それとみんなは部活動昇格という歴史的な瞬間に立ち会いました。今年入部した一年生はあと半年もしたら先輩になるから、楽器の弾き方だけじゃなくてそういう生活面のこともきちんと教えるようにな。来年入ってきた後輩はさらに後輩に伝えていく。これまでがそうだったように、これからも軽音楽部の歴史を作っていくんだぞ」

 拍手が巻き起こる。

 東郷はその演説に感動すると共に何か懐かしいものを感じた。

 軽音楽ではないが東郷は中学時代の吹奏楽部を思い出していた。東郷が現役の時は直属の後輩はできなかった。それでも全体の後輩はそれなりに多かった。先輩が後輩に教え、その後輩がさらに後輩に教えていく。楽器の技術に限らずさまざまなことを伝えていく。現役時代の東郷は顧問の苅田にそう口酸っぱく言われたものだ。

 果たして東郷は後の世代に何を伝えることができただろうか。

 東郷が卒業したのちの吹奏楽部はメキメキと実力を伸ばし、今年のコンクールでは東郷たちの成績を超えていった。もしもそれが東郷たちの世代が何かを伝えたからこその結果だったとしても、東郷は自分で何かを残せたという自信はなかった。

 彼が感じている感情は懐かしさというよりも、正しくは現役時代に何も残せなかったという後悔の念なのかもしれな。

「これをもって軽音楽部として最初の訓示。そして俺の部長としての最後のメッセージとします」

 最後に付け加えられた一文に一同が戸惑った。

 部員たち沈黙はやがて溶け、意味を理解したようで部長にすがる。

「実は事前に話し合っていたんだ。今回の特別試合で部活動に昇格できたら俺たちは部長と副部長の役職を離れるって」

「お前たちよく考えろよ。運動部は夏休み中に三年生は引退しているし、文化部だってそろそろ世代交代の時期なんだぞ」

 隣で副部長が立ち上がると話を受け継いで説得を始めた。

「俺たち三年生は卒業まで部活には参加する。だけど俺たちが卒業したら一、二年生だけでこの部活を運営しないといけないんだ。いつまでも三年生に頼っていたら新しい後輩が入ってきたときに困るぞ」

「俺も副部長と同じ意見だ。俺たちが卒業まで部長、副部長の仕事を続けて、卒業でいなくなった途端に残った後輩たちが困るという状況は避けたい。別に明日から一、二年生だけで運営しろって言っているわけじゃない。俺たちが卒業するまでは練習期間だ。自分たちで運営してみて何か困ったことがあれば頼っていいんだから」

 部長と副部長。

 彼らの決意は固かった。

 後輩たちが自分たちで部活を運営できるよう、今の役職を降りて次の世代に譲ろうというのだ。

「それとは別に三年生全員で議論した結果なんだけど、次の部長として鶴見を推薦したい」

 突然話題に上った鶴見のもとに全員の視線が集中する。

「俺個人としても鶴見に部長を務めてほしい。俺は俺の世代で部活動昇格を達成すると宣言して部長に就任したが俺だけの力じゃ無理だった。鶴見がいたからこそ念願の部活動昇格が達成できたんだ。今回の特別試合を持ち掛けられたときに条件を交渉したのも。バトルゴリラに応援を依頼しようって言い出したのも全て鶴見がやったことだ。生徒総会で鶴見が勇敢に戦ったことだってみんな覚えているだろう?」

 他に部長を務めたいというやつは今のうちに名乗り出てほしい。

 そう部長は促すが誰も挙手をしなかった。

 誰もが鶴見の功績を認めているのだ。そんな彼を差し置いて我こそが部長にふさわしい、と主張する部員はいなかった。

「ほら、『新』部長、みんなに挨拶しなよ」

 そのように部長、いや『元』部長に促され、鶴見がその場に起立する。

 彼はさすが口が達者だった。元部長のスピーチも流暢だったが、鶴見はそれを超える就任演説を行った。

 それもやがて終わろうとしていた。幼馴染の晴れ舞台に感無量になりながらも東郷は紙コップにジュースを注いだ。

「あとと一つだけ。応援でバトルゴリラを呼ぼうと言い出したのは確かに俺だけど、肝心の交渉をしたのはここにいる東郷だ」

 予想外だった。

 それは飛び火以外の何物でもない。

 話題に突然東郷の名前が上ったのだ。

「バトルゴリラは自衛官でありながら、吹奏楽の大御所の最後の弟子でもあるらしい。そして東郷はコントラバスを弾けるんだけど、その大御所と弟子の二人から東郷は演奏会の出演を打診されている。こいつはそれだけ凄いプレイヤーなんだ」

 鶴見の口を塞ごうと東郷は手を伸ばした。

 宗太郎みたいに自然にはできないだろうが、鶴見のスピーチを阻止するぐらいのことはできるはずだ。

 しかし伸ばしたその手は鶴見に払われた。

 必死で阻止しようと食いつくけども再びあっさりとあしらわれた。このままではまずいことになる。東郷はさらに阻止すべく飛びつくが今度は元部長と元副部長に「まぁまぁ」と拘束された。二人は満面の笑みでニヤけている。

 一瞬だけ振り向いた鶴見は恐ろしい笑みを浮かべていた。

 東郷は大事なことを忘れていた。

 鶴見は平気でえげつないことができるということを。

 彼は最初からそのつもりで、いや元部長や元副部長に作戦を説明したうえで東郷を軽音楽部の部室に連れ込んだのだ。

「それに東郷はコントラバスだけじゃなくエレキベースもバリバリ弾けるんだ。三年の先輩でさえ敵わない。うちに入ったら即戦力どころかトップクラスの実力だぞ?」

「やめてよ!」

 体を抑えられた東郷は言葉で懇願する。

 今から入部したらトップクラスだなんて入学と同時に入部して半年間もエレキベースに向き合ってきた部員たちに向ける顔がない。東郷のクラスにだって軽音楽部の部員がいるんだ。絶対に彼らとの関係が気まずくなる。

 しかし鶴見はちらりと振り返っただけだった。

「どこかベーシストが欲しいバンドはいるか~? 今のベーシストをギターにコンバートして枠を作ってもいいぞ~」

 室内にはそれぞれのバンドごとに集まって談笑していた。

 それらの集団が一斉に相談を始めたのだ。

 断片的にその内容が入ってくる。あるバンドはベース奏者をリードギターにコンバートする案。また別のバンドは二人でベースパートを受け持つツインベースの編成案が出てきている。

 このドラフト会議はもう少し時間がかかると思った鶴見は窓際に設置された棚をあさっている。

「入部届ってどこにあったかなぁ~」

 冗談ではない。

 こんなことならば宗太郎と一緒にいるべきだった。どうせ自衛隊は東郷の年齢では入隊できないはずだ。

 しかし今となってはもう遅い。

 東郷は元幹部に取り押さえられ、鶴見は入部届を探し、そして部員たちはドラフト会議を行っている。

 完全にハメられた。

「親と相談してみるから少し時間をちょうだい」

 この問題を一度家に持ち帰って前向きに考えてみる。

 嘘も方便とは先人の知恵だ。

 そして問題を持ち帰ってうやむやにするというのも祖母に教わった生活の知恵だ。

 東郷はちっとも考えるつもりはなかったが、前向きに考えてみると嘘をついてその場を脱出した。しばらく親と相談しているふりをすればそのうち諦めてくれるだろう。

 先に嘘をついて部室に連れ込んだのは鶴見たちだ。

 東郷の嘘だって許されてもいいだろう。

 そのように逃げようとした東郷だったものの、彼は軽音楽部の熱心さをまだ理解していなかった。

 部室を脱出した東郷は帰宅準備を整えてそそくさと駐輪場に向かった。いつまでも学校内にいたら再び鶴見に連行されるかもしれない。学校敷地内から脱出するまで油断はできなかった。


 自転車を押しながら校門に向かっていると、遠くに宗太郎の姿が見えた。

 学校の教師と見間違えるはずがない。スーツとは大違いの制服と帽子。それに体育教師でさえ敵わない体つきをしている。

 自転車を押していた東郷は校門を通り過ぎると、さらに奥で車に段ボールを積み込んでいる宗太郎のもとに向かった。

 礼儀を欠かしてはいけない。

 東郷はそのように祖母に躾けられて育ってきた。

 知り合いが近くにいるというのに声を掛けないというわけにはいかない。今日はクラスマッチで体が疲れたから早く自宅に帰って休みたい、だなんて微塵も思わなかった。

 ましてや彼を学校に呼んだのは東郷だ。どうしてもその礼をしておきたかった。

「東郷か」

 声が届くところまで近づいて声を掛けようとしていたら、それよりも早くに宗太郎から声を掛けられた。

 この距離ではキチキチと鳴る自転車の音が聞こえないどころか、東郷の声でさえ届かない。彼は会釈をしながら接近を続ける。

「なんだ、入隊したくなったのか。とりあえず三年生になったら広報官を送り付けるから住所を教えろ」

「絶対教えません」

 東郷はきっぱりと断った。

 自衛隊なんていかにも体育会系な組織には馴染める自信がない。

「まぁいい。高校三年生になればパンフレットが送られてくるからな」

「……どうして住所が分かるんですか?」

「自衛隊って一応、行政機関だぞ。把握していないと思うか?」

 その説明に納得したものの、どこか釈然としない。

「場合によっては広報官が直接やってくるぞ。俺の場合は広報官が直接やってきた。自衛隊とはいろいろ密接に関係していたしな」

 せめて訪問してくる広報官が宗太郎でないことを祈っておこう。

「細島に護衛艦が寄港したときはよく見学に行っていた。新田原基地の航空祭にも県内の駐屯地祭にも毎年のように行っていた。これで広報官に顔を覚えられないわけがないだろう」

 それだけの常連であれば広報官に顔を覚えられていないとは思えないし、宗太郎本人が自衛隊の試験を受けるのだって何もおかしいこともない。

「そんなに好きだったんですね」

「そもそも親が護衛艦乗りだったからな」

「護衛艦……ですか」

 東郷は祖母の散骨式のことを思い出していた。

 散骨する海域に到着し、祖母の骨壺を抱いて散骨式が始まるのを待っていた。

 そこに通りかかった護衛艦が汽笛を鳴らしてくれた。それだけでなく護衛艦旗を半旗に降ろし、手旗信号でお悔やみまで送ってくれた。

「ほう、護衛艦が日向灘を航行していたのか」

 当時のことを思い出し、その出来事を宗太郎に話すと彼は食いついてきた。

 さすが自衛官だ。

 いや、それ以前に自衛隊マニアだ。

 趣味を仕事にするとはきっと彼のことを言うのだろう。

「艦首に三桁か四桁の数字が書かれていなかったか?」

「179って書かれていました」

 東郷は即答した。

 なぜならその数字が祖母の亡くなった時刻と同じ数字だったからだ。

「それなら『まや』だな」

 続いて宗太郎が即答した。

「所属は横須賀の第1護衛隊群第1護衛隊。日本が数隻しか保有していないイージス艦のうちの一隻だ」

 サイズや兵装を全部読み上げてやろうか?

 そう問われたけども東郷は頑なに遠慮した。

 もしも宗太郎に口を開かせたらきっと止まらなくなる。それに東郷は宗太郎に礼を述べるためにやって来たわけであって彼の雑学を聞くために来たわけではない。

 話が逸れていたことに気づいた東郷は強引に話題を断ち切って本題を切り出した

「宗太郎さん、今日は来てもらってありがとうございます」

「なんだそんなことか。これも仕事だからいいんだよ」

 今回の特別試合は自衛隊の広報活動という建前で宗太郎は参加していた。

 駐屯地の記念行事で格闘展示をしているように、今回の特別試合でも技術を披露して生徒に自衛隊への興味を持ってもらい、あわよくば志願者を集めようという魂胆だったのだ。

 たしかに空手部陣営と戦う時の宗太郎は異種格闘戦という形で十分に手加減しているように見えた。そして大将同士の試合では元指導官である枕崎に対して本気で攻撃を仕掛けていた。

 さらに最後の一人対五人で戦う姿。

 それを観戦している生徒たちは興奮の嵐だった。

 きっとあの雄姿に心を奪われて放課後に志願票を出した生徒が数人はいただろう。少なくとも軽音楽部の三年生が一人だけ志願してきたらしい。

「でも今日って本来ならばお休みの日だったんでしょう?」

「別にいいんだよ」

 今日は無賃労働だったが、今度のボーナスが楽しみだ。

 そう言いながら自動車に積み込まれた段ボールを叩いて見せた。

「災害派遣で社会に貢献できるって言えばイチコロだった」

「それもありますけど、自衛隊って国を守るために戦うのが主な仕事ですよね」

「入隊させて誓約書にサインをさせさえすればこっちのものだ」

 頬を歪ませる宗太郎。

 その言動は誰かに似ていた。

 鶴見だ。

 この強引さと手段を選ばない姿は普段の鶴見と同じだった。物心ついた頃から一緒にいた鶴見に東郷は何度振り回されてきたことだろうか。

 運動ができて防衛大学校にも合格できる頭脳を持っている幼馴染がいる。

 東郷はこれまで鶴見にされたことを思い出し、自慢の幼馴染を宗太郎に紹介した。

 宗太郎は興味を示しながら自動車のバックドアを閉めた。そして鶴見が三年生になったら自宅に広報官を送り込んでくれると約束してくれた。

 東郷なりのちょっとした仕返しだった。

「それにしても宗太郎さん、どうして今回参加してくださったんですか?」

「どうしてって言われても、これほど広報活動に適した機会なんてないからな」

 それは建前だというのは容易に察することができた。

 最初東郷が事情を話したときに難色を示した宗太郎が突然参加すると言い出したのだ。広報活動という建前とは別に何か理由があったに違いない。

「建前じゃなくて本当の理由です」

「本音と言うと?」

「例えば……軽音楽部を否定する大村先輩や空手部の顧問が許せなかったとか」

「さぁ、どうだろうな」

 東郷の質問はあっさりとはぐらかされてしまった。

 別にどうしても宗太郎の心情を知りたかったわけではなかったが、今回のイベントに彼を呼んだ関係者の一人として知っておきたかった。

 しかし宗太郎の口調から何か信念のような理由があったことは感じられた。少なくとも理由がなく特別試合のゲストとして呼ばれたわけでなく、ただ広報活動のためだけにやって来たというわけではなさそうだ。

「悪いが俺はそろそろ帰る。明日は仕事だからな」

 宗太郎は話題を打ち切るかのように自動車に乗り込むと運転席のドアを閉めた。

「今度の合同練習にも来るんだろ?」

 エンジンを掛けて窓を開けると、腕を窓の淵に乗せて問いかけた。

「もちろんです。ただ……」

 クラスマッチの一件で合同演奏会の事をすっかり忘れていた。

 東郷はいまだに参加するかどうか決断ができていない。ただ次の練習に参加できるかどうかという質問に答えるだけで精一杯だった。

 いい加減に返事をしなければと東郷は考えていた。しかし宗太郎はそれ以上の質問をしなかった。

「練習に来るだけで十分だ。それじゃあまた今度な」

 そう言い残すと彼は東郷の返事を待たず、サイドブレーキを解除して走り出し、あっという間に校門から出て行った。

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