1章.魔に転ずる

1.Re birth

 気が付くと王城の中庭にいた。


 何故、とかいつの間に等といった疑問は不思議と思い浮かばなかった。とにかく、自分は今中庭にいる。ただ漠然と、それだけを理解していた。


 大人にとっても広大な敷地は子供の自分にとっては、花の生垣も相まってまるで迷路か何かのようだ。色とりどりの花が囲む庭を、ちょっとした冒険気分であちこち歩き回って遊んでいるうちに、これが夢であることを認識した。


 そう、これは追憶の夢。古い記憶の旅。


 

 なら次は彼女だ。


 

 花園の真ん中にポツンと置かれた、小さなテーブルに彼女は腰かけていた。


 じっと見つめていると、彼女もこちらに気付いたのか、まるで幽霊でも見たかのような驚愕の表情をこちらに向けて、口を開いた。


「君、私が見えるのかい?」


 第一声を聞いた時、彼女の方こそ物語に出てくるお化けのようなことを言うな、と思った。実際、彼女の存在の儚さは幽霊か何かのようにも感じられて、でも不思議と怖くはなかった。むしろ、その容姿は妖精のように可愛いらしく思えて————。





 その赤子には自我があった。母親の胎内においては思考に靄のかかった、ある種微睡みのような状態で存在したそれは、この世に生れ落ちて間もなく、およそ赤子の身には不相応な自我と知識をはっきり認識した。


 もちろんその赤子は当初、混乱した。わけもわからず泣き叫んだ。恥も外聞もなく泣き喚いた。


 とはいえ幸か不幸か、あるいは不幸中の幸いとでもいうべきなのか、その身は赤子であるため、それによってかく恥も取り繕うべき外聞もなかったのだが。


 ひとしきり大泣きして幾分すっきりしてしまった赤子は、いっそ開き直って現状把握に努めだした。


 まずは自分についてだ。今一つ視覚を始めとした各種感覚がぼやぼやしたままではあるが、動かせる範囲で何度か身じろぎをし、赤子は自分がどうやら男であることを確認した。


 次に身の回り。柔らかな質感の布にくるまれたその身は、誰かの腕の中に納まっている。部屋は広く、もしこれが自宅なら、それなりの家柄だろうことが察せられる。


 後は他者だ。彼は生まれたばかりなのだから、当然母親が存在し、彼女はベッドに横たわって赤子をその腕に抱いている。線の細い、どこか儚げな印象の女性だった。


 そうやって彼が自由の利かない体を精一杯使ってあちこちを見回していると、不意に頬をつつかれた。


 つられる様にしてそちらを見やると、まだ2歳ほどだろうか、小さな女の子が興味深げに赤子のことを覗き込んでいた。


 おそらく自分にとっての姉に当たるのだろうと、赤子は考えた。


 他にも、忙しそうに部屋を出たり入ったりを繰り返す者が数名。こちらは服装を鑑みるに、使用人か何かだろう。


 ときおり何か話している声が聞こえるが、残念ながら言葉は理解できなかった。


 一通り確認し終えて、再び母親の方に視線を移すと、目が合った。


 母親は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、赤子の頭に手を伸ばし――――


 愛おしげにその角を撫でた。


 そう、角だ。赤子だけではない。この部屋で見られた人は皆漏れなくその頭部を、まるで山羊のような2本の巻き角で飾っていた。


 有角種、角持ち、またの名を――――魔人。


 純人にとっての敵。忌むべき反逆者達。


 この身は魔人なれど、宿りし知識は紛れもなく、純人のものだった。


 しばらくの間、母親に撫でられたり姉につつかれたりしていると、部屋の外がにわかに騒がしくなる。幾人かの声とドタドタという足音が響いたと思うと、勢いよく扉が開かれ、一人の男が飛び込んできた。


 まだ若く見える、精悍な顔つきの男だ。


 男はこちらに歩み寄ると、母に何か確認を取り、おっかなびっくりといった手つきで赤子を抱き上げた。


 その瞬間、赤子はその男が自分の父親であることを確信した。


 父親は心底嬉しそうな笑みを浮かべ、少し涙ぐんでいた。あまりに純粋な家族からの愛に、赤子はくすぐったい思いになった。


 しかし、同時に複雑な思いも抱えていた。その身に宿る不自然な自我。それも、彼ら魔人を仇敵と認識する人類のもの。自分はこのふたりの真の子だと言えるのか、いや、その前に自分はこのふたりを両親として慕えるのか。


 暗雲のように立ち込める不安を胸に、堂々巡りの思考に身をやつすうちに、眠気がしてきた。急激に襲ってきた睡眠欲に抗うこともできず、まもなく赤子は目を閉じた。





「あら、寝ちゃった?」


 女――――ヘレナ・アールストロムは、まだ生まれて間もない我が子の頬をそっと撫でた。

 

「シスカ、優しくね?」


 その様子を見ていた女の子、シスカが自分の真似をしようとするのを見て、ヘレナは声を掛けた。


「今は閉じちゃってるけれど、目元なんてローガン、あなたそっくり」


 ローガンと呼ばれた男はヘレナのように赤子の頬に手を伸ばし、口を開いた。


「なら、輪郭は君譲りだな。将来は別嬪さんだ」


「もう、ローガンったら。この子は男の子よ?」


 苦笑いを湛えながら指摘するヘレナに、ローガンは頬を掻きながら「あ、そうか」とこぼした。そのとぼけた返事と、ローガンの武骨な手が優しくというより、壊れものに触れるような手つきで我が子を撫でる様を見て、ヘレナは思わず吹き出してしまう。ローガンがそれに心外だというような拗ねた表情をするものだから、より一層笑いを誘ってしまう。

 

「……そういえば、名前をまだ決めていなかったな」


 ふと、思い出したかのようにローガンが切り出した。


「ん……実はね、私はもう決めているの」


「ん、そうなのか?」


「ええ。……この子の名前はファリス。あなたのような立派な騎士に……いえ、騎士でなくてもいい。立派に育ってくれればいい。があったばかりで、大変な世の中になるかもしれないけれど……」


 この先を案じるように、どこか憂いを帯びた表情になるヘレナ。ローガンはそんなヘレナを元気づけるように、ひときわ威勢のいい声をあげた。


「ファリス……ファリスか。いい名前だ! なに、きっといい子に…」


「しー! ファリスが起きちゃうから、もう少し静かに」


 そのままヘレナを慰めようとしたローガンは、大きな声をヘレナにたしなめられてしゅんとした。


「これからよろしくね、ファリス」


 ヘレナが柔らかく微笑みながらファリスと名付けられた赤子に、そう言って、


「よろしくねー」


 それを見たシスカがまた真似をして、ファリスにそう言った。

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