第5話 左手は動く!
両膝から崩れ落ちた龍夜の身体。
もはや顔を上げる力すらなく、辛うじて動かせるのは左手のみ。
「おぺおぺおぺぺぺ!」
蜘蛛型変異体の奇声は近くにいるのに遠くからする。
(動かせるのは、左手だけ、ん?)
頬から流れ落ちる冷や汗が滴となり、床に落ちる寸前、遮られるように弾ける。
これで二つの事実に気づいた。
霞む意識の中、両手を動かす。
右手は感覚がない。左手には若干の痺れが走る。
眼球運動で滴の痕を追う。水濡れで露わとなった一本の糸。
その先にあるのは刀身が繭となった日本刀。
(左手は動く! なら!)
龍夜は唯一動かせる左手を伸ばし、その糸を掴む。
後は力の限り引き寄せんとした。
(この麻酔、効くのは早いが持続性が短い!)
だから左手は痺れが残ろうと短い間で動かせるようになった。
(だが、左手以外は動かせない。刀身はこの状態で斬れそうに――いやこれなら!)
糸繋がりで蜘蛛型変異体を引きずり落とした光景を思い返す。
(この糸はリビルドが流れる! 流すことができる!)
ならば龍夜が行うことは一つ。
たぐり寄せた日本刀を掴むことなく、慣性のまま蜘蛛型変異体の側頭部に叩きつける。
当然のこと、刀身が繭に包まれた状態では蜘蛛型変異体を斬るに能わず、その口に文字通り食い止められた。
(今だ!)
全身全霊、残る意識の全てを左手に回し、掴む糸にリビルドを流し込んだ。
「オベベベベベベペペペンベベッェエ!」
糸で繋がった日本刀を介して蜘蛛型変異体にリビルドが流れ込む。
高圧電流に晒されたように蜘蛛型変異体は無数の手足を痙攣させながら絶叫する。
もはや根比べだった。
龍夜の全身に麻酔が行き渡り、意識が途切れるのが先か。
蜘蛛型変異体に憑依した死霊全てをリビルドにて消失させられるのが先か。
一瞬でも気を緩めれば押し負ける。
「ぐうううう……あああああああああっ!」
後はもう吼えるだけだ。
龍夜の意識はなお狭まる。蜘蛛型変異体はなおもがく。
「おぺ、ぺぺぺ、り、りじゅ、りんじ、じゅ、じゅじゅ……」
先に変化があったのは蜘蛛型変異体。
その巨体が傾ぐ。積み上げたブロックが崩れるように、蜘蛛型変異体の身体は人間の形となって崩れていく。
否、憑依した死霊が消滅したことで異形化が解ける。
誰もが白の医療服を着た物言わぬ死体に戻っていた。
「はぁはぁはぁ」
無数の死体が散らばる屋上にいる唯一の生者。
龍夜は激しく肩で呼吸をしながら、辛うじて残る意識を絞る。
まだ痺れが残る左手をストレージキューブに伸ばし丸薬の入った小瓶を取り出した。
コルク栓を震える親指で弾くように抜けば、小瓶ごと飲み込む勢いで丸薬を口に放り込む。
最後の最後の力で丸薬を嚥下した。
「がぐううう、があああぐううううううっ!」
霞む意識が急激に晴れ渡った瞬間、龍夜は凄まじい形相を作り、手足を激しく痙攣させる。
その形相を例えるならタンスの顔に足の小指をぶつけたようなもの。
原因は当然、丸薬であるが、龍夜の身体を蝕む麻酔を消し去ったのもこの丸薬であった。
<試作型超万能薬四八三号>
メルキュルル=ワズウイワーメズンが調薬した四八三種目の状態異常回復薬。
一粒飲む、あるいは患部に擦り付ければ身体蝕むあらゆる毒素を完全に消し去る効果がある。
負傷や欠損を回復させる完全回復薬は製造コストが高く、毒一つで使うべきではないと使用をためらう問題がある。
また毒一つといえどもピンからキリまであるため、あらゆる毒素に対応できるよう調合と(人体)実験を繰り返した結果、完全無効化に成功する。
仲間であるガガル=ルワオガの身体を張った協力(異性にモテると嘯いた)により、食欲不振・倦怠感・胃荒れなどの副作用は取り除かれる。
問題点を強いて上げるならば、クッソ苦いこと!
異世界の勇者タツヤ・ヒガもまた協力者の一人(こっちは善意)であり、感想を苦い顔で語った。
『ゴーヤとピーマンとケールとセンブリ茶が悪魔合体した味だ』
異世界ニホンにある食材らしいが詳細は不明である。
麻酔は消えた。だが注射針の痛みは消えたわけではない。
「痛ってて」
麻酔が消えたからこそ痛覚は戻り、針を刺すような痛みが身体を襲う。
また中空の針は微々たる量ながら血を滴り落とし、剣道着と床を汚し続けていた。
「クッソ苦いが効果は絶大だから困る」
文字通り苦い顔で口内に残る苦みと戦いながら、身体に突き刺さった注射針を一本一本抜いていく。
ハリネズミではないが、なんとなく爪楊枝で刺されるたこ焼きの気持ちが分かった気もしなくはない。
「雑に刺しやがって、院長先生ならもっと上手く刺すぞ」
身体に注射針が残っていないか、各所に触れて確認する。
連動して思い出されるは幼き頃の予防接種。
誰もが接種時の痛みで泣きじゃくる中、龍夜もまた漏れなく泣きじゃくった。
白狼も泣いた。優希も泣いた。泣かない子は誰一人いないほど注射は痛かった。
「院長先生の注射は痛くないんだよな」
気づいた時にはいつも終わっていた。
痛くないと子供たちの間で広まり、注射は院長先生じゃなきゃ打たないと他の医師や看護師からの接種を拒む始末。
まあ立場的に多忙故、親や他の医師に無理矢理押さえられて注射を打たれるのが安定のオチであった。
「次はどこに行く?」
気を取り直すように龍夜は顔と気を引き締める。
正直言って、島の東側は壊滅状態。生存者は誰一人とて発見できていない。
既に島そのものが壊滅状態なのかと不安が過ぎる。
「小学校、中学校、高校もダメだった。市場は燃え尽きていたし他に行くとすれば……もしやエンジュの山か?」
人のいるところがダメなら敢えて人がいない場所だと思考を反転させる。
幼き頃、泥だらけになるまでかけずり回った山。
土地勘ある優希なら並ぶエンジュの木々を障害物にして死霊から逃げおおせている可能性が高い。
「よし、次はエンジュの山だ」
次なる目的地は決まった。
龍夜は放り投げたままの日本刀を拾い上げるも、刀身が繭状のままであることに顔をしかめた。
「この繭、変異絡みじゃないのか? もしかして手術用の縫合糸だったりするのか?」
困ったように後頭部をかいた龍夜はストレージキューブからナイフを取り出し、切除作業に移る。
繭を燃やす発想はあったが、爆炎に飲み込まれた身。
しばらく火など見たくなかった。
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