第3話 関白秀吉の小田原征伐&忍城水攻めの謀略
時間を少し巻きもどすことをお許しくださいませ。
多少説明がましくなりますことも、ついでに。(笑)
*
関越自動車道を花園インターで降りて、国道17号線を東上するルートは、何年か前に、上野沼田城に真田信之の正室・小松姫の痕跡を訪ねたときと重なりました。
天下をねらう秀吉に対抗し、徳川家康や伊達政宗と同盟を結んで関東の実力を誇示していた小田原城主・北条氏が、当時は秀吉の
その要望を受け入れたのが、関白秀吉による「沼田裁定」でございます。
――真田所有の沼田の領地の三分の二、および沼田城は北条に渡す。残る三分の一、および自らの先祖の墓がある(筆者注:ない)
この裁定、一見、北条方に有利に見えますが、じつは遠からず予測される争乱への布石が巧みに織りこまれていたことを、現地で初めて感得できたのでございます。
幅70メートルにもおよぶ長大な河岸段丘の上に天守を構える沼田城に比すれば、利根川を挟んだ小台地の名胡桃城など取るに足りない砦と思いこんでおりましたが、それは土地の事情を知らない者の大いなる錯覚であったことに気づかされました。
つまり、現在の群馬県利根郡みなかみ町に位置する名胡桃城のすぐ東方には、太々と利根川が這っておりまして、両城を遮る一木とて見当たりませんので、名胡桃城内に居ながらにして、本城の沼田城内が手に取るように見渡せるのでございます。(';')
であったればこそ、関白裁定に基づく沼田城の引き継ぎから4か月後、
こうした事態を見越し、前もって『
申し上げるまでもございませんが、秀吉の主君・織田信長が石山本願寺を討つときにも気を配りましたように、私戦と公戦では、人心に与える印象が大きく異なりますゆえ、戦後の世論(現代で言えば内閣支持率でございましょうか(笑))に配慮して「義」を掲げるのが当時の倣いでございました。
ついでに申せば、時代はかなり下りますが、「忠臣蔵」の大石蔵之介も、仇討ちを待ち望む世間の目に押されて吉良上野介の本所邸へ向かったとも言われております。
強気一辺倒で怖いもの知らずに見えがちなお武家さま方も、じつはマジョリティの人気を慮り、内心でビクビクしている部分がおありになったのやも知れませんね。
*
旧主・信長に倣い(本音ではその上を行きたかったのでございましょう(笑))、小田原征伐の大将自らの出陣にあたり、聚楽第出立の際は「
敢えてゆるゆると進軍させる先々で茶会を開くため千利休まで同行させた秀吉は、まずは最大の難所とされる箱根・山中城を攻めると、目指す小田原城を眼下にする
――まるで遊山のようじゃな。
豪語する秀吉は、その一方で、用意周到に3つの別働隊を組織しておりました。
ひとつの別働隊のリーダーには、家康配下の本多忠勝、鳥居元忠、秀吉配下の浅野長政を据えて、武蔵江戸城、下総臼井城、佐倉城、武蔵岩付城を攻めさせました。
前田利家、上杉景勝、真田昌幸の北国部隊は、苦戦しながらも上野松井田城を陥落させると上野箕輪城、
そして、石田三成、大谷吉継、長束正家が率いる別働隊は難攻不落の上野館林城を攻めたのち、関東で唯一不落となっていた武蔵忍城に向かったのでございます……。
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