10 総理大臣

総理大臣

 探偵事務所のある薄暗い路地に高級車が停まることは滅多になかった。夜なら酔っ払いを乗せたタクシー、昼なら配達の車。狭い道で駐車場もない。道はすぐに行き止まりになるから、入り込んだ車はバックで出るしかない。


「どうやら、こちらに来るようじゃぞ」

 窓から外を眺めていた紫苑が、振り返って言った。


 神三郎も窓際まで歩く。最高級ランクの国産車だ。会社の役員か政治家か。白い手袋をした運転手が、後部座席のドアを開けているのが見える。

 まだ日も高い。下のスナックに用事があるのは酒屋の配達員くらいだ。探偵事務所が目当てならかなりの上客だろうが、電話がなかったのが気になる。何しろ二人しかいないから留守が多い。地位の高い人間なら空振りは嫌うものだ。


「とりあえず、テーブルの上くらいは片付けておくか」

 神三郎は煙草の燃えさしが溜まった灰皿を拾い、流しに持っていった。水をかけて濡らしてからビニール袋をかけたゴミ箱にそのまま捨てる。


「神三郎様。せめて、袋に入れてから捨ててもらえぬか。そのようにされると、なかなか臭いが取れぬのじゃ」


「ああそうか。悪かった」

 雑巾で拭いた灰皿をテーブルに置いたちょうどその時、ノックの音がした。


「紫苑、僕が出る。お茶を出せるようにしておいてくれ」


 鬼神の事件もようやく落ち着いてきたところだ。小室からの事情聴取も終わり、二条からの脅迫めいた口止めの電話も来なくなった。そろそろ探偵としての仕事に本腰を入れてもいい頃だ。

 神三郎の客はほとんどが口コミだ。報酬は高いが、ほぼ百パーセントの確率で人探しをしてくれる探偵がいる。

 陰陽道の占いと八咫烏の情報収集。何かきっかけをつかめば、そこから現場に向かう。後は普通の探偵がやるような報告書類の作成だ。半月もあれば、大体はケリがつく。


「突然で申し訳ございません。九十九さんはいらっしゃいますか」


「どなたですか」

 一瞬、不思議な間があった。小声で何かを確認している。ドアの向こうの男は咳払いをした。


「それを話す前に、ひとつ約束をしてください。ここに閣下がいらしたことは、誰にも話さないこと。もちろん話の内容もです。信用できる方だとは伺っておりますが……」


「まあ、堅いことはいいじゃないか。九十九君でしたな。ワシはこの国の総理大臣を務めておる男だが、一応は非公式ということで頼む。在野で活躍する陰陽師がいると聞いて、どうしても会いたくなった。どうだ、ワシと腹を割って話をせんか」


 ほお。随分と大物が出てきたな。神三郎は新鮮な驚きを覚えていた。

 国の陰陽師が変化したことに、現職の総理大臣が絡んでいるのは聞いていた。そのうち何らかのアプローチがあるとは思っていたが、まさか本人が現れることまでは想定外だった。


「どうぞ、入ってください。紫苑、お客さんにお茶を頼む。二人だ」


 日本の首相は、神三郎と比べれば小柄だった。ただ、貫禄がある。

 秘書らしい男は神三郎に軽く頭を下げると、スーツケースと風呂敷に包まれた一升瓶を抱えながら慎重にドアを閉めた。


 神三郎はソファーに案内した。

「どうぞ」


「ああ、すまん。秘書が持っとるのはワシからの手土産だ。ワシの地元の日本酒でな。向こうでの評判はいいんだが、勿体ないことにあまり出回っておらん。だが、未来の日本は変わるぞ。これから日本中に高速道路を通す。それで物流が変わる。なだ伏見ふしみばかりじゃない。何年か後には新潟の酒も東京中の酒屋に並ぶようになる」

 総理大臣は風呂敷を外してラベルを神三郎に見せた。八海山とある。


明後日あさっては、確かキミの父親の命日だったな。キミが良ければこれを墓前に供えてやってもらえんか。実はまだ新米議員の頃、通産省に出向いた折に世話になったことがあってな。柴崎サンは実に優秀な人間だった。鬼神とやらのせいで残念なことになったが、彼はキミを残してくれた。ワシはそのことに感謝しておる」


 政治家にしては訛りも強い。キミという言葉の発音は、むしろチミに近い。声色にも犬が唸るような濁りがある。いわゆるダミ声というやつだ。だが言葉には不思議な熱というか、力があった。

 なるほど、噂通りの人だ。父に会ったのは本当かもしれないが、命日のことまで知っていたはずがない。プロフィールを綿密に調べて記憶している。ふらりと出向いたようなふりをしているが、おそらく神三郎が事務所にいることも、先に人を使って調べさせていたのだろう。

 人の心を獲るのが上手い。計算ずくで信念を通そうとする。この人間にはそういう凄みがある。


「いただきます。父も喜んでいるでしょう」


「そうか、そうか」

 総理は嬉しそうに笑った。


 お盆に載せた湯呑みを運んできた紫苑が戻ってきた。湯呑みを置くと、お盆はそのままにして自分も神三郎の隣に座る。

「茶菓子が切れておった。煎餅でも買ってきた方が良いか」


「いや、総理は忙しい人だ。それよりも話をした方がいい」


「お嬢ちゃん、ありがとう。ワシの方こそアメ玉でも用意させておくべきだったな。後で何か届けさせよう。オジさんに名前を聞かせてくれないかな」

 総理はまるで、子どもか孫にでもするように目を細めた。どうやら普通の少女だと思っているらしい。


「妾の名前は紫苑じゃ。神三郎様の式神をしておる。この国の権力者のようじゃが、妾を侮るでないぞ。神三郎様に害があると思えば即座に首を飛ばす。利用もさせぬ。妾が従うのは神三郎様だけじゃ」


 神三郎が止める前に、総理大臣が笑い出した。

「はっはっは、これはいい。いや、侮ったのではないですぞ。実に羨ましい。式神とやらに、こんなに可愛いお嬢ちゃんがいるとは知らなかった。怖い女はウチの娘だけだと思っていたが、考え方を変えんといかんな。いやあ、ワシもこんな子に守ってもらいたいものだ」


「なるほど。それが今日のご用件ですか」


 どうやら、その言葉がツボを突いたらしい。総理の目から一瞬、笑いが消えた。それを隠すように目を伏せると、お茶を一口。ずずっと音を立てて啜ってから話し始める。


「まあ、聞いてくれ。ワシが悩んでおるのは、国家の奥深くに巣食う陰陽師のことだ。あそこはずっと、歴代の首相でも手の出せん場所だった。平安の御代みよから続く天皇陛下直属の機関ということになっておったのでな。

 もちろんそのことを陛下は知らん。ただ、形式がそうだと言うことだ。だから連中もずっと好き勝手にやっておった。まあ、少し予算を使うくらいなら構わんとワシも思っていたんだが、最近、内閣調査室から報告があってな。連中が不穏なことをやっているのがわかった。どうやら防衛庁の役人と組んで、勝手に米軍と取引をしているらしい。式神を兵器として売り込んで、その見返りを貰う算段というワケだ。あいつらがベトナムに行った話は知っているか」



「はい。実際に行った男から聞きました」

 神三郎は二条の話を思い出した。式神が実際に戦う場面を、米軍に撮影させたらしい。その時同時に、何体かの式神に人間を喰わせた。おそらくは式神を強化する目的もあったのだろう。


 紫苑が不思議そうな顔をした。

「お主はこの国で一番偉いのであろう。役人など、自分で一喝して従わせれば良いではないか」


「お嬢ちゃん、なかなかそうもいかんのだ。九十九君なら知っとるだろう。この国を動かしているのは政治家ではなく役人だ。ワシら政治家は役人が考えて作った書類に、ただハンコを押すだけだった。それを変えねばならんとワシは思っておる。

 それとこの国では陛下の名前には触れてはならんことになっているのだ。ワシはそれに踏み込んだ。陰陽師の連中を抑えるために陛下に直接お会いして、そのことを訴えた」


「それで、陛下は?」


「決まっておるだろう。キミのようなインテリなら、陛下がどのような方か知っとるはずだ。陛下は陸軍の将校が自分を担いでクーデターをやろうとした時、毅然として反対したお方だ。この前の戦争のことも、ずっと後悔なされている。

 陛下は自分の名前を使って、一部の者が国を乱すことを嫌っておられる。陛下は話を聞くと、ワシに同行して連中を説得しようとまで言ってくださった。だが、それでは天皇陛下ご自身が政治に関わることになる。陛下がお苦しみになることを、ワシがするワケにはいかん」


「それで、陰陽師たちに恨まれているということですね」


「まあ、そういうことだ。陛下のご内意が伝わってからは、連中も一応はワシに従っておる。だが、いつまでそうしているのか。そのうちに隙を見て、ワシを殺そうとするかも知れん」


「僕は探偵です。用心棒じゃありません。それに連中はまだ、強い式神を何体も抱えています。とても勝負にはなりませんよ」

 神三郎は正直に話した。安倍晴明が使役していた十二神将と呼ばれる式神のうち、最強の三体はまだ安倍の本家に伝わっているはずだ。それに宮毘羅もいる。紫苑がいくら強くても、その全部に勝てるはずがない。

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