あだ名

 その日の夜は一睡もできなかった。

 志穂と会って、どう言おう。何を話そう。考えれば考えるほど堂々巡りになった。佑子さんならどう言うだろう。いや、それじゃあダメだ。人から借りた言葉で、志穂が納得するはずがない。


 学校に行ってからも、迷いは晴れなかった。授業も全く頭に入らない。クラスメートからは様子がおかしいと心配された。でも後で仮病を使うことを考えれば、それで良かったのかもしれない。

 午前中の最後の授業が始まる前に、涼子は生理痛を訴えて、保健室に行かせてもらった。担任の男性教諭が視線を合わせないようにして、短く『そうか』とつぶやいた。騙してしまったことに、チクリと胸が痛む。

 目を開けたまま二十分ほど横になってから、保健室の先生に断って学校を出た。


 志穂が入院しているのは山手線の駅にある警察病院だった。元々は警察官の家族のための病院だったらしいが、今では一般にも解放されている。もちろん警察絡みの患者が優先されるから、志穂のような特別な患者も受け入れてくれる。

 国鉄に乗り換えて切符を買う。カチン、厚紙を切る音が耳に残る。


 病院の入口のすぐ横に、男の人が待っていた。ここだとでも言うように、大きく手を振る。髪は角刈り。背は神三郎より少し低いが、肩幅はもっとがっしりとしている。電話で聞いた小室という刑事だろう。


「ああ、ようやく来た。待ってたぞ。君が白藤涼子くんだな。佑子さんから聞いているよ。あの子を説得する秘密兵器なんだってな」


 うっ。ちょっとカチンときた。

 なるほど。涼子は納得した。確かに佑子が言うように、デリカシーが足りない。ただし、全く悪気はないらしい。授業中に勝手に呼び出して悪かったな。そう言って、肩をポンと叩く。


 涼子は入学祝いに祖父に買ってもらった腕時計を、わざと見せつけた。今朝ネジを巻いて時間を合わせたばかりだから、十秒と違わないはずだ。


「約束の二時まで、まだ十五分もありますけど」


「ああ、そうか。悪い悪い。今日もまた、佑子さんに会えると思うと待ちきれなくてな。君はあの子と一緒に車の後ろの座席に乗っていた子だろう。白いブラウスを着ていた。スカートも白だったかな」


 涼子は少し驚いた。

「ちょっと見ただけなのに、よく覚えてましたね」


「俺は刑事だぞ。それも所轄じゃない。本庁だ。まあ、誰も知らないような裏の部署だけどな。一度行くと、二度とは戻れない。警視庁の神隠かみかくし部屋なんて言われてる」


「神隠し部屋?」


「佑子さんを待たせるといけない。歩きながら話そう。なあ、いいだろう」


「はい」

 涼子は、小室に促されて歩き始めた。


「俺のいる部署は警察の職員録にも載っていない。正式には警視庁特殊生物対策課っていうんだが、長いからそのまま呼ぶ奴はいない。警視庁の神隠し部屋。後はそうだな。鬼神の後始末をする課だから便所っていう意味で、鬼の雪隠せっちんなんて呼ぶ奴もいる。

 職員は課長と係長と俺、三人だけだ。課長が来年退職だから、係長が課長になって、俺が係長になる。それで新人がひとり入る。まあ、そういう職場だ。異動した瞬間に退職までのコースが決まるわけだ。面白いだろう」


「は、はあ」

 正直な話、涼子には何が面白いのかわからなかった。だが小室は声を上げて笑う。


「三人だけのちっぽけな部署だが、逆に言えば代わりがいないってことだ。これは強いぜ。圧力でも何でもドンと来いだ。今度の件でも神三郎のせいで始末書を書かされたが、なんとか減給だけで済んだ」


 涼子はびくりとした。

「九十九さんのせいで?」


「ああ。あいつ、国の陰陽師に喧嘩を売りやがったからな。お陰で警視総監にまで告げ口されちまった。間に入る俺の立場も考えろってんだ。普通なら首だぞ。首」


 小室が文句を言っているうちに、エレベーターの前まで来た。上がる、のボタンを押す。他に乗っている人間はいない。内側から四階のボタンを押すと、ドアがゆっくりと閉まっていく。


「それはそうと、なんだ。ちょっと聞いてもいいかな」


「なんです」


「その、佑子さんのことを、どう思う」


「えっ?」


 涼子は小室の顔をまじまじと見た。斜め上に視線を逸らしている。


「その、つまり。君は神三郎の絡みで佑子さんと何度か会ったんだろう。ああいう人を、女性の目から見たらどう思うんだろうかなあ、とかな。ああ別に、特別な意味じゃないんだ。印象とか、そういう話だ。テレビドラマなんかにもあるだろう。警察の人間は尋問とかで犯人を落とさなきゃいけないからな。俺も、人間観察には興味があるんだ」


 ふふっ。

 思わず笑いが漏れたのに気づいて、涼子は口に手を当てた。

「ごめんなさい。でも、あんまりわかりやすかったから。もちろん佑子さんは素敵な女性ですよ。女でも憧れます。聡明だし、強いし、優しいし。最初に会った時にもびっくりしました。世の中にあんな人が本当にいたんだなって。あの人を見ていると女は弱いっていうのが作り話だって、真剣に思えるんです。小室さんも、佑子さんのことが好きなんでしょう」


「いや、別に。バカ。何を言ってるんだ。大人をからかうもんじゃない」

 小室は急に咳き込んだ。エレベーターが止まると、さっさと逃げるように自分から先に外へ出る。スマートじゃないな。そう思ったが、それがかえってこの人らしい。

「ほら、急げ。友達が待ってるぞ」


「は、はい」


「あの人は特別だ。俺みたいな男には手の届かない、雲の上の人だ。東大の医学部を出た医者で、自分で手術もやる。論文だって書いてる。開業医として個人病院も持ってる。それから神三郎の世話だ。全く、いつ寝てるんだか。あの人は、呆れるくらいに遠くにいるんだ」


「私も、そう思いました」


「思った?」


「あの人って、意外に近いんです。いつも近くで見てくれてるような気がします。みんなを見て、みんなのことを気にして考えちゃう。だから、わざと距離を作っているふりをしているんだと思うんです。でもまあ、それでも九十九さんのことは特別だと思いますけど」


「鬼狩り神三郎か。あいつ、兄貴だろう」


「本当に遠いのはあの人です。淋しさとか悲しさとか。みんな閉じ込めて、いつも優しく笑ってる。佑子さんはたぶんずっと、お兄さんのことを追いかけているんだと思います。九十九さん、カッコいいですからね」


「俺よりも、そんなにいいか」


「比べちゃいます?」

 涼子は悪いなと思いながらも、また笑った。


 それにしても、鬼狩り神三郎か。いつも見ている刑事ドラマもそうだけど、警察の人はニックネームをつけるのが好きらしい。

 まあ、許せるかな。涼子は勝手に採点していた。時代劇のタイトルみたいだけど、この刑事さんにしては悪くない。あの人なら、どんなニックネームでも着こなしてしまいそうな気がする。

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