4 処女の血

佑子

 少女の姿をした美しい鬼神。その作り物の指が、涼子の頰に触れていた。


「そなたは処女か」

 涼子は息ができなかった。滑らかに磨かれた木の冷たい感触が、頰をなぞるように動いている。


「妾は聞いておるのだ。そなたは処女なのか」

 紫苑という鬼神は重ねて聞いた。


 意味はわかっているつもりだった。

 志穂を救う代償として、純潔を捧げる。

 処女かどうか。そんなことを聞く理由が他には思いつかなかった。結婚するまでは清らかな体で。そんな少女趣味の幻想を抱いているわけではなかったが、いざその時が来ると思うと、震えるほどに怖い。

 涼子はまだ、男性とキスをしたこともなかった。そういうことには順番がある。デートをして手を握り、キスをして、それから……。母親から教えられた。いきなり体を許すのは、娼婦のすることだ。


 その程度の覚悟なの。

 心の中で自分を非難する声がした。


 それなら、最初からしない方がいい。憐れみなんて、誰も欲しがらない。

 そうだ。今更、何をためらっている。志穂のためなら何でもする。そう誓ったばかりのはずだ。志穂は命を懸けて守ってくれた。そうでなければ、あの時、涼子は間違いなく死んでいた。

 鬼に体を奪われても、志穂は涼子を見捨てなかった。純潔を汚される? 鬼に体を奪われることと比べたら、そんなことは何でもない。想像しただけで、怯んでしまった自分が恥ずかしい。


「処女かどうかくらいは、自分でもわかっておろう。まさか、股ぐらを広げて寝ているわけでもあるまい」


「紫苑……」

 たまりかねたように、神三郎が口を挟もうとした。


「尻の軽い女は口も軽いものじゃ。処女かと聞かれて怯むような女子を信用することはできぬ。我らのことは誰にも知られてはならぬのだ。それは、神三郎様もわかっておろう」


「でも。この娘はまだ、高校生だ」


「九十九さん、大丈夫です。答えます」

 涼子は決意を込めていった。恥ずかしい。顔は火のように赤くなっているだろう。でも、逃げるわけにはいかない。


「私は処女です。まだ、男の人は知りません。それが役に立つのなら、私の体をどのようにでも使ってください。その代わり、志穂は必ず救っていただきます」


「うむ。善き覚悟じゃ」

 紫苑は満足そうに微笑むと、指で涼子の首筋をなぞった。ぞくり。快感が首筋から全身に走る。


 紫苑は指をくわえて吸った。それは、どう考えても少女の仕草ではなかった。ぞくっとするほどに色っぽい。

「嘘はないようじゃな。汗から処女の味がする」


 涼子は目をつぶった。いま、自分の下半身を意識した。そのことが顔から火が出るほど恥ずかしく、罪深いことのように感じられる。


 突然、無造作にドアを開ける音がした。

「紫苑、いる? 勝手に入るわよ」


 それは女の声だった。声のする方向に目を向ける。

 涼子はその美しさに思わず息を呑んだ。

 その人の黒髪は、背中にかかる程に長かった。かかとの高い靴。体にぴったりとしたスーツ。白いスカートから、すらりとした長い脚が出ている。

 彼女は肩に黒いカバンを吊っていた。ためらうこともなく事務所の中に入り、靴音をたてながら真っ直ぐに近づいてくる。


 涼子は慌ててソファーの端に寄って場所を空けた。


「ああ、なんだ。お客さんだったのね。可愛い娘じゃない。もしかして高校生?」

 丸いサングラスを外すと、まるで女優のような美貌が現れた。大人の女性という感じだ。顔が近い。


「相変わらず遠慮のない女じゃな」


「これからまだ、三件も往診があるの。時間がないのよ。無駄口はいいから、さっさと済ませてちょうだい。えっと、あなた。名前は?」


 自分に聞かれていると気づくまでに、少し時間がかかった。 

「あ、はい。白藤涼子と言います」


「私は柴崎佑子。初めてだから、自己紹介しなくちゃね。ええと、なんて言えばいいのかな。ここの探偵さんとはずっと昔からの腐れ縁。まあ、色々とあるんだけれど。そうね。簡単に言えば、身体を捧げたオトコかな」


「おい、待ってくれ。誤解されるようなこと言うな」

 神三郎が咳き込んだ。タバコを灰皿に押しつけてもみ消す。


「いいじゃない、別に。自分から望んで式神のエサになってくれる人間なんて、そうはいないわよ。それに、あなたのために純潔を守ってるんだから、少しは感謝しなさい。私だって一人寝が寂しい夜もあるのよ。行きずりの男に抱かれなんかしたら、困るのは誰かしら」


 え……。

 涼子は胸に、痛みのようなものを覚えた。この探偵さんだって、大人の男性だ。そういう人がいてもおかしくない。悔しいけど、こんなに綺麗な人に自分が敵うわけない。


 えっ、え……。

 今、なんでそんなこと考えたんだろう。この前、初めて会ったばかりの人に。涼子はまだ、この人の名前しか知らない。


 左の薬指に銀色の指輪を見つけて、涼子は確信した。この人は神三郎さんのいい女性ひとだ。入り込む隙なんかない。

「お邪魔してごめんなさい。用事が済んだらすぐに退散します」


「何それ。ん、もしかしてこれのこと? この指輪はただの男除けよ。お母さんの形見。面倒臭いから、わざと左にしているの」


「えっ」


「ふふふっ、驚かせちゃったわね。この人、自分は世捨て人みたいなことしてる癖に、私には早く嫁に行けとか言うから。たまに、からかってやるのよ。

 安心して。九十九神三郎は私の兄よ。名前が違うのは、兄が養子に入ったから。実力はあるのに、非情になれないダメ人間。私が生贄になってあげるって言ったのに、自分の片腕なんて喰わせて……。そのせいで史上最強の陰陽師になり損ねたバカ。まあ私はそういうの、嫌いじゃないけどね」


「ふん、兄のために自分が喰われるなどと。畜生の考えることじゃ」


「鬼に言われたくはないわね」


「妾はお主など喰わん。腹を壊すわ」


「じゃあ、それなら早く血を吸ってちょうだい。さっきも言ったけど、患者さんが待っているの。医者は信用が大事なのよ。あと、ほっぺに生クリームがついてるわよ。襟に着くと困るから、先に口をすすいでくれる」


「ふん。憎まれ口をたたきおって」

 紫苑は手で頬を拭うようにしてから、事務所の奥の方に行った。佑子は黒いカバンを置き、紫苑のいた場所の隣に座る。


「紫苑って可愛いでしょう。兄さんの前だから、恥ずかしがってるのよ。本当は、今のあれウソ。頬にクリームなんてついていなかったわ」


 涼子は戸惑った。

「そんなことして、大丈夫なんですか」


「どうして? 紫苑は優しいよ。それに貴重な処女の生き血を吸わせてあげるんだから。それくらいは当然よ」


「処女の生き血……」

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