サイコロジスト

ニシマ アキト

1/3 臆病、卑怯、脆弱。

 自分が涙を流していることに気付いて、僕は思わず足を止めた。高校の最寄り駅から校舎へ向かう道程でのことだった。


 頬の辺りを流れている涙を、指先で拭う。そして指先に付いた涙の雫を、僕はなんとなく舐めとった。何の味もしなかった。


 そこで僕は、目の前に電信柱がそびえたっていることに気が付いた。このまま足を止めずに歩き続けていたら、僕の頭と電信柱が激突していた。ずっと下を向いて歩いていたのか、自分の前方に全く注意を向けていなかった。


 今日は調子が悪いのかもしれない。疲れているのかもしれない。昨日も夜の九時までバイトだったし、家に帰ってからも零時まで課題をやっていたし。


「学校行くの、めんどくせ……」


 ふらふらとおぼつかない足取りで歩き出し、ふと通りかかった公園に吸い込まれるように入って行き、ブランコの隣に設置されてあったベンチに座り込み、口を半開きにして天を仰いだ。空には灰色の曇が一面に広がっていた。少し肌寒かった。


 空を見ていたらと眼球の奥が痛くなってきたので、視線を地上へと戻した。公園内には誰の人影もなかった。ブランコは一ミリも揺れていないし、錆びたぼろぼろの滑り台も木の陰に隠れて押し黙ったように何の音もたてていない。こんな公園で独り座っていると、まるで世界に自分一人だけが取り残されてしまったように感じる、なんて中二病的思考を広げながら、僕は目を閉じた。


 さっきからなぜか、自分の心臓の鼓動が小動物のそれのように早い。


 一度深呼吸をしようと大きく息を吸い込んだら、肺がうまく膨張しなくて軽くせき込んだ。空気が奥まで入っていかない、身体の奥が外界の空気の侵入を拒んでいるような、不思議な感覚がした。


 頭痛がするし、倦怠感もある。閉じた目をもう一度開けようという気が全く起きない。


 もう今日は登校するのをやめにしてしまおうか。


 一日くらい欠席してしまっても、僕が困ることはそれほどないだろうし、僕の周りの人間が困ることも特にないだろう。高校は義務教育ではないし、僕は誰かに頼まれて学校に通っているわけではないのだし、だから僕が学校に行きたくないと思ったのであれば、その日は行かなくたっていいんじゃないか。


「…………」


 しかし、学費を払ってくれている親のことを考えると、病気にかかったわけでもやむを得ない事情があるわけでもないのに学校を欠席してしまうというのは、申し訳ないような気がする。条件付きだったとはいえ僕の高校からの一人暮らしを認め、家賃や水光熱費諸々と私立高校の学費を払ってくれている両親。僕は私立高校で一日授業を受けたときに発生する授業料のだいたいの金額を知ってしまっているので、僕がずる休みをしたと知ったときに両親がどういった感情になるのか、ある程度想像ができてしまう。あまりすすんで味わいたいとは思えない感情だ。


 まあ、あんな実家にはもう二度と帰りたくないけれど。


「……行くか」


 閉じていたまぶたをこじ開け、僕は立ち上がった。軽く伸びをしつつスマホで現在時刻を確認すると、もうホームルームが始まっている時刻だった。いつの間にそんなに時間が過ぎていたのか少し驚いたけれど、せめて一時限目が始まるまでには教室に入ろうと、僕は小走りで駆けだした。


 誰もいない閑散とした道を駆けて、校門を通るときに門のレールにつまずいてつんのめるような体勢になったところで、僕は今日初めて声をかけられた。


「おはよう少年。重役出勤ってやつかな?」


 顔を上げて声のしたほうを向くと、茶髪でショートカットで少し小柄な、二十代前半くらいに見える若い女性がいた。明朗な笑顔だった。


 この学校にこんな先生いたっけ?


「あ、えと、おはようござい、ます……」


 遅刻していることの後ろめたさから、言葉尻が弱々しくなってしまう。


「うんおはよう。今日も良い日になるといいよね!」


「え? ま、まあ、そうですね……」


 良い日になればいいのはそれはそうなんだけど、初対面の人に言う言葉として不自然なような気がする。いや別に自然なのか? 海外だったらハブアグッデイくらい誰でも言うし。


「ほら、早くしないと一時限目に間に合わないよ。はい、下駄箱行って靴履き替えて」


 背中を軽く押しながら僕に急ぐように促す先生。いや、この時間であれば先生は全員校舎内にいなければおかしいし、この人は先生ではないのか? 


 じゃあ、この人は何者なんだ?


「ちゃんと授業頑張ってきなね」


 その言葉を背中で受け止めて、僕は上履きの踵を踏みながら校舎内に入り、階段を駆け上がった。慎重にそっと教室の扉を開くと、ちょうどホームルームが終わったところらしく、教室内はざわついていた。担任に今来たことを軽く報告して、自分の席に向かう。遅刻になったのかならなかったのかはわからない。まあどうでもいい。


「なぁ、なんで今日遅れてきたの?」


 席に座って筆箱を取り出したところで、前の席の男子に声をかけられた。


「ああ、ちょっと寝坊しちゃってね」


「ふうん」


 今の会話でわかる通り、僕と彼はそれほどの仲だ。こうして学校で顔を合わせれば軽く言葉を交わすこともあるけれど、自信を持って友達と言えるほどの仲でもない。僕を取り巻く人間関係は、こういう関係値の人が大半だった。


 だから、僕には困ったときに頼れる人がほとんどいない。


 僕の前の席に座る彼に、今日の朝にわけもなく涙が出てきたんだとか、公園でぼーっと座っていたら気付かぬうちに三十分も経っていたんだとかそういう話をしても、不思議そうな顔をされるか、気まずそうな笑顔で流されるだけだろう。彼が僕のことを本気で心配することはないのだ。だからといって別に、前の席の彼が倫理観に欠けているとか致命的に良心が不足しているとかそういうことではない。誰だって、それほど仲の良くない誰かが困っていても、面倒だからと無視するだろう。至極当然のことで何もおかしくない。路上でうずくまって泣いている人がいたとしても、中には駆け寄って話を聞いてあげる人もいるかもしれないが、九割の人が無視して素通りするだろう。みっともなく泣き叫んだところで、手を差し伸べてくれる人はとても少ない。


 だから僕は、一人で生きていくしかないのだ。一人暮らしを決意したときに、否、親に頼ってはいられないと悟ったあのときに、僕はそう心に決めた。


 これまでも、これからも、ずっと僕は一人だ。


 *


「またそのパンだけ?」


 昼休みになって校舎裏に向かうと、既に長瀬が弁当を開いて昼食を食べ始めていた。僕も長瀬の隣に腰かけて、栄養調整食品のパンの袋を破る。


「そうだけど」


「そんなにおいしいの? そのパン」


「まあ、不味くはないかな」


「じゃあなんでそればっかり食べてるの?」


「これだけで一食分の栄養が取れるから」


 彼女はムッと僕を非難するような目で見た後で、おもむろに弁当の卵焼きを箸でひっつかんで、それを僕の口に近づけた。


「わたしが作った卵焼き、ひとつあげる。ほら、口開けて」


「え、いや、その」


「口、開けて?」


 しつこく僕の唇に卵焼きを押し当ててくるので、僕はその卵焼きを口に入れた。砂糖を入れすぎているのか、甘みが強い。じゃりじゃりした食感もある。


「どう? おいしい?」


 不味いと言ったらおそらく顔面を殴られることになるので、嘘をつくことにした。長瀬は少々乱暴な節のある女の子なのだ。


「うん、おいしい」


「そう、なら良かった。そんな、食の楽しみの一切を失ったみたいな食事、いい加減にやめなよ。いつか死んじゃうよ」


「いや、でもこれ以外に食べるものないし、お金もないし……」


「わたしが作ってきてあげよっか?」


「え、いいの?」


「いいよ。ちゃんと全部食べてくれるなら、だけど」


「ありがとう、助かるよ。楽しみにしてる」


 これで平日の昼食代が百八十円からゼロ円になったな。


「ていうか、その弁当っていつも長瀬が作ってたんだな」


「うん。だってわたし以外に作る人いないし」


「あー……」


 そういえばこいつ親いないんだっけ。


 長瀬がまだ小学生にもなっていないくらいの頃に、長瀬の両親は不幸にも交通事故に遭って他界した、らしい。それから今までずっと長瀬は叔父さんとの二人暮らしで、今の話を聞く限りではその叔父さんは料理ができないらしい。だから長瀬が自分で自分の弁当を作るしかない。


 ……僕の今までの人生で、親が離婚していたりして片親しかいないという人とは何人も出会ってきたし実際に関わったことも何回かあるけれど、小さい頃から両親が二人とも不在だった人はさすがに長瀬が初めてだった。物心がつき始めたときから両親がいない感覚なんて、僕のように十七歳になっても両親が二人とも健在な人にとっては理解しようとしても理解できない感覚だし、そもそも下手に理解しようとしない方が良いし、だから僕にできることと言えば、絶対に余計であろう安い同情をすることぐらいしかないのである。


 そういう理由もあり、また異性ということもあって、僕は未だに長瀬との距離感をはかりかねていた。


「わたしけっこう料理好きだからさ、一人分増えるくらいどうってことないし、むしろ今まで一人分だけじゃ物足りないと思ってたくらいだから」


 長瀬保奈美という女の子は表情が乏しい。基本的にはいつも真顔だし、現に今も真顔だ。


 それでも、表情が乏しくて化粧っけもほとんどないのに、顔は美人である。スタイルも十七歳にしてはかなり大人びている。そういう要素も、僕がなかなか長瀬との距離を縮められない原因の一端を担っている。


「黒川くんも、同級生の女の子の手作り弁当が食べられて嬉しいでしょ? まさにwin‐winの関係だよね」


「まあ、あのパンよりは美味いだろうからなぁ」


 本音を言えば、今日の卵焼きを参照する限りでは、おそらくあのパンよりも長瀬の弁当の方が不味いだろう。


「む〜素直じゃない奴。今後の君の人生の中で、女子高生の手作り弁当を食べられる機会はもう二度とないかもしれないんだからね」


 そんなことはないだろう、たぶん。いやあるのかな。


「だからもっとわたしの弁当をありがたがってほしいな」


「はいはいありがたいありがたい」


 そんな冗談じみたことを言う長瀬だが、相変わらず表情は真顔のままだし、僕と目が合うことも一切ない。ずっと何もない空間の一点を見つめて、淡々と流れ作業のように話している。


 長瀬は出会ったときからいつもこんな風だった。言動と態度が一致していない、いや、どんな状況であっても態度や雰囲気が一貫しているのだ。長瀬が真顔以外の表情を見せる機会はとても少ない。僕が長瀬と知り合ってからもうそろそろ一年が経過するが、長瀬の笑顔はたった数回しか見たことがない。


「だからさ、明日は私の弁当を食べるために、ちゃんと学校来てね」


「え、いや、普通に学校を休むつもりはないよ」


「黒川くん、今日、学校サボろうとしてたでしょ」


 ……なぜわかったんだ。女の勘というやつか。やっぱり女って怖いな。


「最近の黒川くん、なんか疲れてそうな感じがしたから」


「…………」


「たまにはバイトも勉強もサボってさ、ちゃんと休まなきゃダメだよ」


「……わかったよ。サボるのは得意分野だ」


 長瀬に心配をかけるほど疲れた雰囲気を醸しているとすれば、僕はいよいよ来るところまで来てしまっているのかもしれない。本当に一度しっかり休んだほうがいいかもな。


「……そういう長瀬も一度、ちゃんと休んだほうがいいんじゃないか」


「ん? 何を休むの? わたしはバイトも勉強もしてないよ?」


「……まあ、色々だよ」


「……? なんかよくわかんないね」


 無表情で小首を傾げる長瀬の瞳の奥にはどこまでも深く暗い闇が広がっている。


 滅多に笑顔を見せることなく、声に抑揚がなく、瞳は黒く澱んでいる。そういう長瀬の方が僕よりもよっぽど精神的に疲れているんじゃないかと、このときの僕は冗談半分に感じていた。


 それを冗談半分にでも感じ取っていたのなら、もっと強く長瀬に言及しておくべきだった。何か困ったことがあれば何でも相談してほしいだとか、悩んでいるのならいつでも頼ってほしいだとか、そんな薄っぺらい言葉でも何でもかけてやるべきだった。


 死にたくなった時はいつでも電話してこい、と言ってやるべきだったのに。


  *


「やっぱチョコリングが一番美味いな」


 深夜十一時のとあるアパートの一室では、スプーンと皿がかちかち擦れ合う音と僕がコーンフレークをばりぼり噛み砕く音だけが虚しく響いていた。自炊ができないうえに食にこだわりがなさすぎる僕の毎日の夕飯は決まってコーンフレークだった。昼に食べている栄養調整食品のパンとちがって、コーンフレークにはしっかりとした食感と味があるので、本当は昼食もコーンフレークにしたいのだけれど、さすがに学校に牛乳パックとコーンフレークの袋をもっていくわけにはいかない。僕といえどそこまで非常識ではない。


 テレビもパソコンも本棚もない、ただベッドとテーブルがあるだけの、不気味なほど静かなアパートの一室で、たった一品コーンフレークだけの夕飯を一人でもそもそ食べる。僕が中学三年生の時に血反吐を吐きながら必死に勉強して全国でもトップクラスの私立高校に合格して、やっとの思いで勝ち取った生活がこれだった。


 いや、別に今の生活が不満なわけではない。特に学校で孤立しているわけでもないし、長瀬という美人な女友達もいる。バイトや勉強は僕には分不相応すぎるほどにとてつもなく忙しいけれど、それも人生を彩るための苦労だと思えば受け入れられる。


 しかし、最近僕の胃をじわじわと蝕んでいるこの焦燥感のような不安感のような緊張感のような、得体の知れない黒い感情は何なのだろう。


 今の生活には何かが足りない、このままの生活をいつまでも続けていても絶対に幸せになれない、そんな根拠のない漠然とした不安感が僕の胃をちくちく刺激していた。


 なぜなのかはわからない。今の自分の状況を俯瞰してみても、何も不満を感じる要素はないはずなのだ。


 コーンフレークを食べ終わった後で少し茶色く濁った牛乳を飲み干して、流しで軽く皿を洗いながしてから、僕は部屋の電気を消した。ベッドの中に潜り込んで大きく息を吐いて、目を閉じた。


 心臓の鼓動は、朝から今までずっと早いままだった。眠ったら治るだろうか。


 僕か感じている漠然とした不満を取り除けば、心臓のリズムは元に戻るだろうか。でも、漠然とした不満を取り除く方法も漠然としているから、何をすればいいかわからない。


 素直に病院に行けばいいだろうか。しかし特に生活に支障が出ているわけではないしそもそもそんな時間的余裕はない。


 まあ、放っておけばそのうち治るだろう。


 僕には自分の体調よりも優先すべきことが山ほどあるのだ。だからもとより病院に行く選択肢などなかった。


 ベッドの中で胎児のようにうずくまって、強く目を閉じて、僕は明日も生きるために眠りに落ちることにした。



「お、二日連続重役出勤ってことは、キミは本当にこの学校の重役だったりするのかな?」


 視界が霞んでいた。


「……なーんかものすごく体調が悪そうに見えるけど」


 足が持ち上がりにくい。呼吸が普段通りスムーズにできない。頭の中心がものすごく重い。顔が熱っているような感覚もある。


 だからつまり、風邪でもひいたかもしれない。


「ねえ、キミ、今日は学校を休んだほうがいいんじゃないかな。私が家まで送ってあげる、か、らッ!」


 何か柔らかくて温かいものが顔面を包み込んだ。そのまま膝が崩れ落ちそうになる。


「ちょ、ちょっと! 急に熱烈なアプローチィ?」


 僕は無理やりその柔らかいものから引き剥がされた。肩を掴まれて直立させられる。やっとピントがあった視界に映ったのは美人の顔だった。


 昨日も校門の前にいた若い女性の顔だった。


「キミ、もう今日は授業でなくていいから。ちょっと歩ける?」


「あぁ、はい……」


「今からわたしの秘密基地に連れて行ってあげよう」


 女性の小さく温かい手に引っ張られ、不確かな足取りで歩き出す。昨日と同じく僕らの他に誰もいない下駄箱で靴を履き替え、階段を登らずに一階の奥へと進む。職員室の前を通り過ぎて角を曲がり、その一番奥にあった扉を女性は開いた。職員室にすら入ったことのない僕は、学校のこんな辺境にある部屋がどんな用途を持っているのか全く知らない。


「ここは私が好き勝手自由に使っていいことになっている部屋だよ。だからキミは安心してゆっくりくつろいでもらって結構」


 僕というよりこの人が本物のこの学校の重役というやつかも知れない。


 その部屋は、秘密基地、というにはあまりに遊び心に欠けるように見えた。長机が二つにパイプ椅子が三つ、机の上には小さなカレンダーとペン立てと、そしてなぜか折り紙の束が置いてあった。折り紙を除けば、この部屋は生徒指導室以外の何物にも見えない。自然と肩が少し強張る。


「何なんですか、この部屋」


 そばにあったパイプ椅子に腰掛けつつ、僕は尋ねた。女性は既に僕の向かい側に座って折り紙で遊び始めている。


「だから、ここは私専用の秘密基地だよ」


「……はあ、そうですか。じゃあもうそれでいいです」


「カウンセリング室だよ」


 カウンセリング室、ってなんだ。相談する部屋ってことか。学校の中に相談するためだけの部屋があるのか。よくわからない。


「私、この学校に勤めているスクールカウンセラーです。九月の全校集会で挨拶したんだけど、覚えてない?」


「…………あー、はい、ああ、思い出しましたよ、はい」


「完全に覚えてないねーその言い方は」


 女性は軽く笑いながら器用に鶴を折っている。僕は恥ずかしながら未だに鶴の折り方を知らない。これから知りたいとも思わないが。


舟木真希ふなきまきって言います。名前だけでも覚えて帰ってもらえたら嬉しいな」


 そんな売れないアイドルみたいな言い方されても。


「舟木さん、ですか」


「十七歳の男の子の口から真希ちゃんと呼んでもらえると、私はものすごく喜びます」


「……そうですか」


 舟木さんは不意に鶴を折る手を止めて、期待に満ちた眼差して穴が開くほど強く僕の眼球を見つめた。僕は思わず咄嗟に目を逸らす。


 大人の女性を相手するのは苦手だ。


「それでキミのお名前は?」


黒川くろかわまこと、です」


「ふむ、マコトくんね。ちぃ覚えた」


 下の名前にくん付けで呼ばれたのは小学生の時以来今までなかった。心臓を素手で突かれたような嫌な感覚がした。


 僕を子供扱いしているのか。そこまで歳が離れているようには見えないけれど。


「うい、できたー。じゃあちょっとこれで遊んでて」


 言いながら僕に折り鶴を手渡して、舟木さんは立ち上がって部屋を出て行ってしまった。


「えぇ……」


 そこで学校のチャイムが遠く聞こえてきた。一時限目の始まりを知らせる音だった。そういえばこの部屋には放送のスピーカーがない。


 折り鶴で遊べと言われても、既に高校二年生となった僕は遠い昔に折り鶴で遊ぶ能力を完全に失ってしまっている。まさかその能力がここにきて再び必要になるとは思ってもみなかった。


 赤い折り鶴を手の上に乗せてみる。まじまじ観察してみると、たった数十秒で作ったにしてはかなり精巧だった。なんとなく手先が器用そうだもんな、あの人。


 鶴の両端の羽を引っ張ったり、ふわっと空中に浮かせたりして遊んでみた。何も面白くなかった。十年前の僕なら楽しめたのだろうか。今までの人生成長しかしてきていないようでいて、しかしそれと同じくらい失ってきたものも多々あるよなぁと月並みな感傷に浸ってみる。朝からガンガンと頭が痛んでいたので、感傷と言うほど落ち着いた思考はできなかった。


 窓から見える校庭には体操服を着た一年生らしき男子たちがぞろぞろ出てきていた。


 サボっていることを自覚しながら全くもって露ほども罪悪感が湧いてこない。


 この学校の生徒は真面目で勤勉で堅苦しい。いや、真面目で勤勉で堅苦しくあることを強要されているというほうが正しい。だから授業をサボる人なんか誇張抜きに一人もいない。遅刻してくる人も稀にしかいないから、僕が少し遅刻をしただけで、昨日のようにどうして遅刻したのかといちいち尋ねてくる人がいる。この学校には、そういう空気が隅々まで蔓延している。


 一年と半年以上この学校に通っていても、僕は未だにその空気に馴染むことができていない。ずっと僕はこの空気に疑問を抱いたままだ。


 中学時代の僕はよく授業をサボっていた。僕の通っていた中学校は真面目で勤勉で堅苦しい人がそこまで多いわけではなかったが、それでも常識的にサボりはいけないことだから、僕はなんとなく不良のような扱いを受けていた。しかし僕は学年の中でも一位二位を争うほど成績が良かったので、教師から特別な指導を受けることはなかった。ただ授業をサボっているだけで人に迷惑をかけるようなことはしていないからだったのだろうか。


 僕は勉強が嫌いだから授業が嫌いだったのではなく、授業が嫌いだから授業が嫌いだった。


 しかし、そんな僕も高校に入ってからはほとんど授業をサボっていない。この学校でおよそサボりと呼ばれる行為をすると、教師だけでなく周りの生徒からも無言の圧力をかけられることになる。目には見えないが確かにそこに質量として存在する重い圧力を、僕の身体にのしかけようとしてくるのだ。


 そういう空気が心地良いと感じる人もいるだろう。むしろこの学校ではそちらの方がマジョリティの側だろう。だから、僕は久しぶりに安心できたのかもしれない。


 サボりを許容してくれる人とサボりが許容される空間を見つけて、安心できたのかもしれない。だから罪悪感やら胃をきつく締め上げる類の感情が湧いてこないのだろう。


「飲み物買ってきたよー、パース」


 不意に横からペットボトルが飛んできたので慌ててキャッチする。少し白く濁ったスポーツドリンクだった。帰宅部の僕にはあまり縁のない飲み物。


「体調不良になったらとりあえずそれを飲んでおけばいいって、昔から決まってるのよ」


 言いながら舟木さんは座って缶コーヒーのプルタブを引く。


 そういえばいつの間にか不思議と身体から怠さがほとんど抜けていた。視界も明瞭で、頭のふらつく感じもない。少し頭痛の残滓的なものが残っているが。


 というか、僕は最初から普通に保健室に向かったほうが良かったのでは。


「んー、どうも養護教諭の人苦手なんだよね、私。ま、とにかく体調が治ってよかったよかった。授業出なくてよくなったから安心したのかな?」


「……まぁ、そんな感じです」


 図星だったので目を伏せつつ、ペットボトルのキャップを回す。何とも言えない甘さと清涼感が口に広がる。


「マコトくんはよっぽど授業が嫌いなんだねー」


 両手で缶コーヒーを包み込むように持って、ニコニコと人の良さそうな笑みで舟木さんは僕を見つめる。基本表情が笑顔の女性は何を考えているのか全く推し量れないからあまり会話したくない。


「ところで、マコトくんは今日の朝ごはんは何を食べたの?」


 舟木さんは青い折り紙を手に取って、トーンを変えずに言う。


「えっと、何も食べてません」


「それは、遅刻しそうだったから?」


「いや、朝はいつも何も食べません」


「……一日二食しか食べてないってこと?」


「そうですね。昼と夜だけ、です」


「そんなのダメだよー。江戸時代じゃないんだからさぁー」


 少し笑いながら舟木さんは慣れた手つきで素早く鶴を折る。


「親御さんは? 朝どうしてるの?」


「一人暮らしです」


「……へぇー、この学校じゃ珍しいね。私初めて見たよ、一人暮らししてる高校生」


 舟木さんの手が一瞬だけ止まり、折り紙から目を離して僕を見た。


「この学校に来てる子はだいたいみんなお金持ちの家の温室育ちだと思ってた」


 僕みたいな存在が珍しいだけで、その見方はほとんど合っていると思う。子供の学力なんてある程度親の財力で決まってしまうものだし。


「そっか一人暮らしか。マコトくんは偉いねぇー、えらいえらい」


 言って、舟木さんは手を伸ばして僕の頭を柔らかく撫で始めた。露骨に拒否して手を払い除けることもできないので、されるがまま僕は動かない。


「マコトくん、髪の毛細くてさらさらだ」


 あまり歳下の青年の髪を無闇やたらにいじらないでほしい。


「……もういいでしょう」


 僕はそこでやっと舟木さんの手を払い除けた。舟木さんの指が空中で名残惜しそうにわきわきと蠢いていた。


「でもさ、朝ごはんはちゃんと食べないとダメだよ。パン一枚だけでも」


「明日からは食べますよ」


 と言って多分僕は明日も朝食は食べない。金がもったいないし、面倒だし。


「一人暮らしってことは、バイトとかしてるの? それとも親の仕送りだけ?」


「アルバイトしてます」


「ほぉー。今の私の五十倍くらい忙しそうな生活してるねぇ」


 スクールカウンセラーって生徒の相談を聞く以外に仕事はないのだろうか。舟木さんは相談者が来るまでずっとここで鶴を折っているだけなのだろうか。だとすれば確かに僕は舟木さんよりも五十倍忙しい。


「ま、私も高校生の頃はそれなりに忙しかったさ。今はこうしてのほほんと気楽に生きているけどね」


 舟木さんは赤い鶴の横にたった今完成した青い鶴を置いた。


「高校時代よりも今のほうが何倍も人生が楽しいよ、私は」


 舟木さんは黄色い折り紙を取り出してまた鶴を折り始める。舟木さんはとにかく鶴を折っていないと落ち着かない性分なのだろうか。僕としては、お互いに膝に手を置いて畏まって話すよりは鶴でも折ってくれていたほうが気がほぐれるので、むしろありがたい。


「高校生はパチンコも競馬もできないし、お酒も飲めないし煙草も吸えない。一日の授業が終わっても委員会とか部活が残ってるし、家に帰っても課題やらなきゃいけないし。定期的に行事があるときは周りの空気に合わせて上手く立ち回らなきゃいけないしさ。高校生ってなーんかやること多すぎるうえに制限も多いから、毎日が嫌になっちゃわないのかなぁーって、いつも見てて思うよ」


 まあ、確かに、職種によっては高校生よりも隙間の大きいスケジュールで働いている社会人は多くいるだろう。しかし学校には教師という数ある職業のなかでもかなり忙しい部類に入る大人が近くにいるから、あたかも高校生よりも大人のほうが忙しいように思えてしまっていたが。


 高校生という身分も、世間全体で見たら確実に忙しいほうに入るだろう。冷静によく考えてみれば、思春期の子供に課すタスクの量として高校生の生活は適切ではないのかもしれない。


 だから、その一見不適切に思える忙しさを『青春』の二文字で覆い隠して正当化して、高校生というものは成り立っている、のだと思う。


「だからつまり、マコトくんの人生の中で今が一番忙しい時期なのかもしれないし、本当に辛くて無理になったらいつでも助けてあげるからねってことが言いたかったの」


「は、はぁ、そうですか。ありがとうございます」


 舟木さんに助けを求めたところで何をしてもらえるのだろう。カウンセリングされるだけかな。


「マコトくんのことを一年間養うことくらいはできるから、安心してどーんと頼ってね」


「いや、いくらなんでもそこまでお金を払ってもらうわけには……」


「あくまでもしもの話だから」


 どうして今日初めて話しただけの高校生にそれほどの金を払ってもいいと思えるのだろう。かなりの大金持ちか、あるいは。


「マコトくんのこと気に入っちゃったんだよね、私」


 にやりといたずらっぽく笑う舟木さんが、完成した黄色い鶴をつまみながら言った。


「カウンセラーがエコ贔屓していいんですか」


「別にマコトくんのお悩み相談を受けていたわけじゃないから今のは仕事じゃないよ。私とマコトくんが個人的にお話をして、私がマコトくんのことを気に入ったというだけ。ね?」


「……そ、そう、ですか」


「お、顔が赤くなってるねぇ。また体調悪くなってきたのかな?」


「……からかわないでくださいよ」


 あっははと甲高く楽しそうに笑う舟木さん。今初めて舟木さんの心からの笑顔を見た気がする。


 いったい何が本音で何が嘘なのか……。


「ていうかさ、せっかく学校サボったんだし、私とどっかデート行こうよ」


「えっ?」


「あ、ごめん。二時間目から授業出るつもりだった?」


 いや違う。デートという言葉の響きに動揺して無意識に声が漏れ出てしまっただけだ。


 もう今日はどうしても教室に向かう気が起きなかった。久しく忘れていた中学時代のサボり体質が戻ってきた。殺人的な面倒くささ、と言い換えてもいい。


「デートって、どこ行くんですか?」


「うーん、とりあえずご飯食べに行こうか。マコトくん朝ごはん食べてないし」


「あんまりお金持ってませんよ、僕」


「いやいや、さすがに高校生に割り勘を要求するような大人じゃないから安心して。私が全部奢ったげる」


 僕が最後に外食したのは一年以上前のことだった。それほど久しく外食をしていなかったのは、ただ金がないからという理由だけではなかったことを思い出した。




 非常勤の職員である舟木さんに生徒のサボりを容認する権限はないらしく、学校を出るまで僕たちは隠密行動をとることになった。といっても校内は授業中で、廊下には人っ子一人歩いていない。それでも一応舟木さんが先行して、僕がその後に続く形になる。


「んー、駅前まで行ったら何かご飯屋さんあるよねたぶん」


 舟木さんは歩きながら顎に指をあてて暢気にそんなことを呟いているので、おそらく誰かに見つかったとしてもそこまで大ごとににはならないのだろう。


 僕たちの足音だけが反響する下駄箱で靴を履き替え、校舎を出る。人が一人通れるほどの幅になるように校門をスライドして、学校の敷地外に出た。開放感は特に得られない。


 舟木さんは「忘れ物ないよねぇー?」と言って大きく伸びをしていた。舟木さんも今日は学校に戻るつもりはないらしく、小さなカバンを肩にかけている。


 外に出てからも、なんとなく縦に、舟木さんの後に僕が続く形で歩く。


「舟木さんは、よくこういうことやってるんですか」


「こういうことって?」


「平日の昼間に高校生を外に連れ出す行為です」


「いつもやってるよーって言ったら、マコトくんは誰かに嫉妬してくれる?」


「……いや、特には」


 この人は男慣れしているのかしていないのかわからないところがある。から回っているだけとも、僕を子供扱いしているだけともとれる。


「男子高校生とデートをするのは、高校卒業してからだと今日が初めてだね」


「じゃあ今日は運が良かったですね」


「それはマコトくんもでしょー?」


 舟木さんの軽く笑う声が聞こえてくるが、その表情は窺い知れない。


「マコトくん、女の子とデートしたことないでしょ」


「……そんな風に見えますか?」


「んー……実はそんな風には見えない」


 この短時間で僕は舟木さんからモテる男認定をもらっていたらしい。少し照れる。こんなことで照れているようではモテないんだろうけど。


「マコトくんみたいな生き方に憧れる人はたくさんいるんだろうなぁーって思う。見た目もカッコいいし」


 背の高い陰気そうな男とすれ違った。


「でも、マコトくんがあの高校に通っているうちは絶対彼女できないんだろうなーとも思うな」


「どういう意味ですかそれ」


「ん? 気になる? あの高校に通っている女の子は少し特殊だということだよ。だからマコトくんを好きになる女の子も現れないだろうなと」


 結局よくわからないままだった。だから僕はそれ以上訊くのをやめた。


 しばらく歩いた後で、やがて進行方向をくいっと九十度曲げて舟木さんが入店したのは回転寿司店だった。


 うぇ、と少し怯んで立ち止まるも、舟木さんはお構いなくどんどん店内の奥へ進んでいくので早歩きで追いつく。


 舟木さんが手でピースサインを作って「二人でーす」と言うと店員は笑顔で案内してくれた。ブレザー制服の男子高校生と成人女性という組み合わせに違和感を持たないのだろうか。持っていたとしても顔には出さないか。


 平日でしかもお昼時でもない時間帯なので店内の人はまばらだった。カウンター席に二人いるだけで、あとは全部空席だった。


 テーブル席の舟木さんの向かい側に座り、鞄を脇に置く。


「なんで回転寿司なんですか」


「お寿司が食べたい気分だから!」


 と言って舟木さんはテーブルのそばに設置されてあるタッチパネルを操作して醤油ラーメンを注文した。


 舟木さんの発言をいちいち真正面からとりあう必要はないのかもしれない。


「マコトくんもどんどん注文したほうがいいよ。客少ないから待っててもあんまり流れてこないだろうから」


 そう言われたので適当にいくつか注文しておいて、流れてきたサーモンをひとつ手にとった。


「サーモン好きなの? かわいいね」


 いちいちうるさいなこの人。


「早くラーメン来ないかな〜」と言いながら躊躇なく大トロの皿をとる舟木さん。


 僕にとっては久しぶりのまともに味のある食事だった。脂の旨さというものを思い出した。しかし思い出したところで、僕の中に食を楽しもうとする意識が芽生えたりはしない。食べられるのなら寿司でもコーンフレークでも僕にとってはあまり変わりなかった。


「私お寿司を素手で食べる人苦手なんだよね」


 舟木さんの心底どうでもいい話を聞き流しながら黙々と腹が膨れるまで食べる。舟木さんも僕の空気を察したのかそれ以降話しかけてくることはなかった。


 僕のクラスメイトたちは英語の授業を受けている頃だろうが、僕は時折店員同士の雑談の声が聞こえてくるようなのどかな回転寿司店で、ラーメンを啜る成人女性を正面に据えて寿司を食べていた。英語の授業と回転寿司での食事、どちらのほうが有意義なのかは意外と判然としない。


「お腹いっぱいになったー?」


 僕が追加で皿を取らなくなったことを見計らってか、舟木さんが言った。


「はい、まあ」


「それは良かった」


 と舟木さんは満足そうに言った。


「マコトくんの気が抜けるような時間が作れたのなら私は満足だよ」


 確かに僕は気が抜けていた。学校をサボって初対面の女性とデートをしていたのにもかかわらず僕は気が抜けていた。


 舟木さんはゆっくりと湯呑に口をつけて、ふっと息を吐いた。


「私はね、頑張っている子供が嫌いなんだよ」


「えらく急な物言いですね……」


「だから本当はマコトくんみたいな子供は嫌いなんだ」


 僕も一度手元の冷水を飲む。気が抜けたところで満腹になって、津波のような眠気に襲われていた。


「頑張る子供っていうのはサボり方を知らない。サボり方を知らないから壊れるまで自分の頑張りが異常だってことに気付けないの。そうやって簡単に壊れちゃう子供は嫌い。子供が壊れるところは見たくないから」


 そこまで僕は日々の生活を頑張って過ごしているだろうか。そんな自覚はあまりない。


「学校の教師、特に私たちの高校の教師は、そういうサボり方を知らない子供を礼賛しようとする雰囲気があるでしょ。だいたいの大人は子供の頑張ってる姿が好きだからね。でも私は大人のそういう態度はあんまり良くないと思うんだ。無理して頑張って頑張って、途中でその子の中の何かが壊れて、結果的に本人の望む成功に辿り着くことができたとしても、その途中で壊れたものは二度と取り戻せないんだよ。だったらさ、最初から今だけを見つめて、今を幸せに生きることを考えて適度にサボったほうがいいんじゃないかなーって」


 しかし将来の幸せのために今の幸せを犠牲にしなければならないとき、今か未来のどちらを優先すべきなのかは微妙だ。何においても頑張ることは辛さや苦味を伴う。そしてその辛さや苦味を乗り越えた先に幸福があるとは限らない。


「いいんだよ。一時的に辛いことから逃げたって、その瞬間に将来の不幸が確定するわけじゃない。もちろんずっと何も頑張らずに死んだように生きるのは良くないことだと思うけど、休まずにずっと頑張り続けるのも同じくらい良くないことだと思うんだ」


 本格的に瞼が重くなってきた。ふと店内の時計を見上げると、三時間目が終わる頃だった。あの教室にいないというだけでこうも時間の流れが速く感じるものなのか。


「マコトくんがちゃんとサボり方を知っている人で良かったよ」


「僕は真面目な人間ではないので」


「そうだね。真面目で良いことなんてひとつもないよ」


 そこまで断言してしまっては真面目に生きてきた人がかわいそうだ。


「だからさ、サボりたくなったらまたいつでも私のところに来てほしい。いやサボりたくなくても来てほしい」


「僕はそんな暇な人間でもないので」


「暇さえあればきてほしいなー」


 舟木さんは眠りそうになっていた僕の頬をぐにーっと引っ張る。普通に痛かったので舟木さんの手首を掴んで離した。


「私マコトくんのこと好きだから。できれば会いに来てほしい」


 生まれて初めて女性からの愛の告白を受けた。嬉しいという感情は意外と少しも湧いてこなかった。本気じゃないと知っているからだった。


「マコトくんが死ぬところは見たくないから」


「え……」


 急に何だ?


 死ぬ、とか。


「マコトくんは強いから死なないよね?」


 舟木さんは笑顔のままで僕の手を両手で包み込むように握った。温かい体温に覆われた僕の手は動かなかった。


「今のところ死ぬ予定はありません、よ」


「それなら良いの。うん。マコトくんが死ぬわけないもんね。そうだよね」


 言いながら舟木さんは自分の手と僕の手を擦り合わせるようにした。


 舟木さんには最初から僕のことが自殺志願者に見えていたのだろうか。それほどまでに僕の瞳は濁っていたのだろうか。


 自分で死を選ぶなんて、考えたこともなかった。この機会に考えてみても、やはり理解できない。死んだら全部終わりだろう。全部終わりにして消去して真っ黒にして、それで何が解決するわけでもないのに。


 自殺なんて馬鹿のすることだろ、と。


 楽観的に、自分には関係のないことだと割り切って。


 僕は舟木さんと、まだ笑っていられるうちに笑い合っていた。



「よーサボり大魔神」


 なんだその胡乱なあだ名は。


「なんでクラス違うのに僕がサボったこと知ってんの?」


「噂が流れてきたんだよ。隣のクラスに無断欠席した奴がいるって」


 なんでたった一日無断欠席しただけで隣のクラスまで噂が波及するんだ。


「ていうか、昼休みにここに来てなかったら、学校休んだんだなってことはわかるし」


 それもそうか、と思って、僕はそこでやっと長瀬との弁当の約束のことを思い出した。昨日は暢気に回転寿司なんか食ってる場合じゃなかったんだ。なんとしても長瀬の弁当を食べにいくべきだったのに。


「そういえば弁当は……」


 また殴られるか……?


「昨日の分はサトルさんの夕飯に回したからいいよ、別に」


 長瀬はそう言っただけだった。


 何もしてこなかった。


「そして今日のお弁当がこちらです」


 予想外のことに呆気にとられていると、長瀬が妙に恭しく、赤い布に包まれた弁当を差し出した。目は伏せがちに、真顔で。


「あ、あぁ、ありがとう……」


「大事に食べてほしいな」


 間違えて持ってきた栄養調整食品のパンは素早くブレザーのポケットの中に突っ込んで、赤い布の結び目をするりとほどく。そしてふたを開ければ、そこには見た目だけはごく普通の手料理が敷き詰まっていた。


「おぉ……」


 見た目だけは美味しそうなんだけどな……。


「ほら、さっさと食べる食べる」


 急かされたのでとりあえず卵焼きを口に運んだ。一昨日に食べたものと味は変わらない。つまりあまり美味しくない。


「ねえ、美味しい? 美味しいでしょ? 美味しいよね」


「美味しいよ」


 次に鮭の切り身と白米を食べる。昨日の寿司のほうが五億倍美味しい。


「美味しい?」


「美味しいよ」


 次に冷凍食品っぽいハンバーグを食べる。これが一番ましだった。


「美味しい?」


「美味しいよ」


 その後も長瀬は僕が一口食べるたびにいちいち味についての確認をしてきた。そしてそのうえ弁当の味もほぼ最悪に近かったので、食べ終えるまで随分と長く時間がかかってしまった。


 腹をさすって胃の中に蟠る異物感を緩和しながら、ペットボトルの天然水を一気に喉へ流し込む。苦しそうな表情を顔に出していたら長瀬に訝られてしまう。


「また明日も作ってくるから。学校サボっちゃだめだよ?」


 長瀬は空になった弁当箱を赤い布に包みなおして立ち上がった。座ったままの僕は額の脂汗を拭いながら苦笑いを返す。


「もう当分の間はサボらないから。長瀬の弁当楽しみにしてるよ」


 長瀬は真顔のままで頷いて、心持ち軽い足取りで校舎裏から去って行った。


 ふーっと長い息を吐いて、また水を飲む。栄養調整食品よりはあの弁当のほうがいくらか健康的なのだろうけど、やはり味がアレだとどうにも気が進まない。しかし長瀬の厚意を無下にするのはもっと気が進まない。僕には長瀬を裏切ることができないのだ。


 僕にとっての長瀬は。


「こんにちは。また会ったね、マコトくん」


 ぽす、と僕の頭に手を置いて、舟木さんは満面の笑みで僕を見下ろしていた。


「こんなところで何してるんですか」


「まずはあいさつあいさつ」


「……こんにちは」


「えっとね、私はお昼のお散歩をしていました」


「気楽で良いですね」


「マコトくんも大人になったら気楽に過ごせるよ」


 舟木さんはさっきまで長瀬が座っていた位置にしゃがみこんで、下から僕の顔を覗き込んだ。


「マコトくんはホナミちゃんと付き合ってるの?」


 ホナミちゃん……ああ長瀬保奈美か。下の名前を呼ぶ機会がないので忘れていた。


 長瀬の名前を知っているということは、二人は知り合いなのだろうか。


 カウンセリング室に行くような人かな、あいつ。


「……付き合ってません。長瀬はただの友達です」


「マコトくんはホナミちゃんのことが好きなんでしょ?」


 舟木さんは小首を傾げて言う。思考回路中学生かこの人。


「好きかどうかは置いておいて、恋愛感情は持ってません」


「そっか。それは良かった」


「なんでですか」


「私はマコトくんのことが好きだからね」


 まだ続いてたのか、その嘘。


「舟木さんに対しても恋愛感情は持ってませんよ」


「それはとても残念」


 全く残念そうには見えない笑顔で舟木さんは言った。


「でもねぇマコトくん。たとえ本当に恋愛感情がなくても、ホナミちゃんみたいな女の子とは仲良くしておいたほうがいいよ」


「…………」


「君たち二人は、お互いにうまく支え合って生きていけそうに見える。相性が良い。なんか雰囲気似てるし」


「…………そんなこと、ないですよ」


 舟木さんの笑顔が崩れて、驚いたような表情になった。僕は舟木さんが座っているほうとは反対に目線を向ける。


「僕には長瀬の考えていることなんか何一つわかりません。長瀬がどうして生き続けているのか、長瀬が何を求めているのか、僕には想像もできない。長瀬がどうして笑顔を見せないのか、長瀬の瞳がどうして黒く濁っているのか、わかりません。たぶん僕が長瀬に直接訊いてみても教えてくれないと思います。長瀬は誰にも心の立ち入りを許しませんから。長瀬は僕のことをただの暇つぶしの話し相手としか思っていないんです。そんな僕に心の内を見せてくれるはずがないんです。だから支え合うなんて」


「……えっ。…………うん」


「あまり、長瀬のことを甘く見ないほうがいいですよ」


 と言い残して、なんとなく気まずくなったので、僕はその場を後にした。


 歩きながら深呼吸をした。


 空は皮肉なほど青く澄んでいた。吹く風は日に日に冷たくなっていく。


 舟木さんに馬鹿にされたような気がしていた。長瀬に対する僕の態度を、気付いていないふりをして逃げている僕のその態度を、舟木さんに糾弾されたような気がしていた。


 舟木さんに胃を鷲掴みにされて、そのままぐにゅーっと締め上げられたような気がした。不快だった。


 このときはまだ、わからないものをいつまでもわからないままにしておくことの愚かさを、僕も舟木さんも、十分に理解していなかった。



 *


 長瀬が死んだ。自殺だった、らしい。


 高いところから飛び降りて、身体がぐちゃぐちゃに破損して切れてバラバラになって、死んだ。


「…………」


 目の前が真っ白になった。


 何も考えられなかった。


 受け入れられなかった。


 信じられなかった。


 本当は死んでなんかいないんじゃないかと思った。


 長瀬の所属するクラスの教室を見に行った。長瀬の席には一輪の花を挿した花瓶が置いてあった。


 しかし僕は長瀬の死体を見たわけじゃない。


「お前、あの長瀬ってやつと知り合いだったよな?」


 僕の前の席の彼だった。


「………………………………………あ、あぁ、うん、あ、ああぁ」


「……どうした?」


「なんでも、ないよ。大丈夫だ、僕は」


 大丈夫だ。人が一人死んだくらいのことで、僕は何を取り乱しているんだ。


 長瀬は僕の友達だった。友達でしかなかった。友達を一人失うことくらい、人生は長いのだからいくらでもある。その度に人の死とまともに向き合っていたら生きていけない。僕の精神が立ち行かなくなってしまう。


「大丈夫だ、大丈夫。僕は、これでも」


「…………まぁ、大丈夫ならいいけど」


 彼は気味悪そうに僕を見た後で前に向き直った。僕は机に突っ伏した。


 歯を食いしばって、目をきつく閉じて、呼吸することに専念した。

 

 涙は出さない。


 まさか長瀬が死ぬなんて、としらばっくれるつもりはない。いつかこうなることはわかっていた。長瀬は絶対に普通の死に方はしないだろうと、ずっと前から心のどこかで確信していた。


 やがて重力の感覚が抜けて、宇宙に投げ出されたような錯覚がして、くるりと一回転して、そして最終的に強烈な吐き気を催した。


 がたがたと派手な音をたてながら立ち上がって、走って教室を出る。腕を振り上げ足を大きく広げて、力一杯廊下を駆け抜けてトイレの個室に入った。


「う……ぇえ……………お……ぃ、え……ぅく…………かひゅ」


 どぼどぼと口から白い液状の物体を吐き出す。


「今世紀最悪の気分だなァ……」


 口を袖で拭ってから、ぎりぎりと上下の奥歯を擦り合わせながら立ち上がった。


 トイレを出ると、廊下のリノリウムはところどころ四角くオレンジ色に染まっていた。


「夕方か」


 気づけば校舎内に人の気配は無くなっていた。


 猫背になってとぼとぼ廊下を歩いて、がらんとした薄暗い教室内に入り、淡々と自分の荷物を背負う。落ち着いて一歩一歩確実に踏みしめて階段を降りて、無意識に足が向いた先はカウンセリング室だった。


 この期に及んでも僕は他人を求めていた。


 扉に手をかけて、鍵はかかっていなかったのでそのまま開ける。


 部屋中に窓から差し込む金色の光が充満していた。そして、その幻想的ですらある光を煌びやかに反射する銀色のアルミ缶が一つ。いや五つ。


「学校で酒飲んでるんすか……」


「おうおうおう、マコトくんじゃあ〜ん! 元気ィ〜?」


 机に伏せった舟木さんが大きく手を振ると、こちらまでむせ返るような酒気が立ち込めてきたような気がした。


 少し顔を顰めつつ、僕は舟木さんの向かい側のパイプ椅子に座った。


 机の上の三つある鶴のうち赤い鶴だけがくしゃくしゃに潰れていた。


「今日は、相談があって来たんですけど」


「なになに〜? 相談を受けるのが私の仕事だよ〜?」


「友達が、死んでしまって」


「はっははそりゃあ大変だぁ〜! 骨になるまで丸焼きにしてやらねェとなァ〜! アッハハハハハハ」


 その不安定な声色と支離滅裂な言葉を聞いていると、なぜか今になって急激に目の奥から熱いものがこみ上げてきた。


「僕は、……ぼっ、僕は、何も悪くないですよね?」


「ああそうさ! マコトくんは何も悪くない! 絶対に死ぬ奴が悪い! 自分勝手に独断でこの世界を放棄することを選ぶ奴がいつだって悪いに決まってんだ!」


 ダンと力強くアルミ缶を机に打ちつけて舟木さんは言った。


「マコトくんはなーんにも悪くない。なんにも気に病む必要はないんだよ。だから安心して。マコトくんは明日からも平気な顔して、何事もなかったかのように平然と平常通り、普通の人生を普通に送ればいいの。ね? わかった?」


「……僕は」


「だからホナミちゃんのことなんか忘れちゃってさァ!」


 舟木さんはすっくと立ち上がって、机を回り込んで僕のそばまで来て、僕の両肩に両手を置いた。


「ずるいよね、私よりも先に死ぬなんて。本当にずるい。ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい。ずるい!」


 酒の臭いをより強く感じる。


「私だって、わた、私だって本当は、生きていたく、ないのに!」


 舟木さんの瞳は赤く充血して爛々と輝いていて、頬は赤く染まり引き攣っていて口角は不気味につり上がっている。大人としての表情が土砂崩れを起こしているような顔だった。大人っぽさと子供っぽさが不確かに混在している。


「愛してるよ、マコトくん」


 不意に舟木さんが僕の両肩を押し倒した。パイプ椅子が倒れる音と僕が床に背中を打つ音が室内に木霊する。


「ッぐ……!」


 舟木さんに顔面を掴まれて、口の中に舌を入れ込まれた。


 ファーストキスはアルコールと麦芽の味がした。


 息ができなくなった。


 それから数分の間、僕の舌と舟木さんの舌は複雑に絡み合い続けていた。お互いの体液を混ぜあっていた。


 舟木さんが僕の口から舌を引っ込める頃には、僕の視界はその八割が暗黒に支配されていた。


「くぁ、ハァッ、は、はあっ、ハあッ……あ、う」


 喉をおさえて、何かを吐き出すように呼吸する。


「キスは最良のストレス解消法だからね」


 苦しそうな笑顔で言う舟木さんの目元がきらりと光った。


「う、うううぅぅ、…………うう、あああああああぁぁぁあ」


 舟木さんが僕の胸に顔をうずめて泣き始めた。みっともなく大人気なく声をあげて、心の叫びそのままを外に出して。


 その間僕は何をすることもできず、仰向けのままで天井を見つめていた。ワイシャツを通過して、舟木さんの涙の熱さが直接胸に伝わってきた。


「ああぅ……うぇ……っぐ、ぜ……、ずぇ、ぜんぶ、全部、私のせいだぁ〜……」


 僕は舟木さんの頭に手を置いて、優しく撫でつけた。獰猛な動物をあやすように、できるだけ安心感を与えるように。


 酒臭さとゲロ臭さと金色の光が充満する室内で、僕と舟木さんは抱き合っていた。


 何の力も持たない一人のちっぽけな人間がこの冷酷な現実を変える方法が、ひとつだけあることを僕は学んだ。


 自ら死を選べば、現実は変わるらしい。

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