7-2


 通されたのは応接室とでもいうようなところだった。厚めのじゅうたんいてあり、背の低いテーブルを挟むように古びたグリーンのながと一人掛けソファが二脚置いてある。窓はひらかれ、風が通り抜けていった。


「普段ここは使わないの」


 母親は威圧的な声を出した。目を向けてはいたものの、見られてる感じはしなかった。きっと僕を見てるのではないのだろう。を見ているのだ。


「あなただけ特別ってわけ。理由はカミラから聴いてるんでしょう?」


「ええ、聴いてます。でも、今日はそのことで来たんじゃないんです」


「では、なんのために来たの?」


「理解したいんです。そのために来ました」


 ほほはゆるんでいった。ただ、目つきは変わらない。


「いいこたえね。そうあってしかるべきだわ。では、私が理解をあたえましょう。あなたの前には幾つかの道がある。ただし、あなたはそれを認識していない。選ばなくてはならないのはわかってるわね? だけど、なんに立たされてるかもわかってないの」


「それを教えて下さるってわけですか?」


「違うわ。私はどういう状況にいるか教えられるだけ。選ぶのはもちろんあなたよ。ま、カミラのことがあるから、こちらにも希望はあるわ。でも、押しつけられても納得できないでしょ? あなたにはそういうところがある。状況に流されやすいところもあるけど、きちんとしんを持った人のようだわ。理解しないと前へ進めないといった方がいいかしら?」


「今のは僕からなにか読みとったってことですか?」


「そうじゃないわ。私はまだなにもしていない。――そうね、これも普段は言わないことだけど特別に教えてあげる。私みたいな人間の前に座るとたいていの人は緊張するものよ。いろんな表情を浮かべるし、様々な動作をするの。自分で気づいていないだけでね。それを観察してるの。それだけでもわかることはけっこうあるわ」


 目を細め、母親は手を組みあわせた。口許だけがぐっとゆがんでいく。


「あなたは怖れた。それでここまでやってきた。やむを得ずにね。だけど、あなたはしゅくしていない。それは表情がまったく変わらないのや手の位置だけでもわかるわ。緊張はしてるけどどうようはしていないってことね。それに、理解したいって言ったのはあなたでしょ。私はそれを違う言い方に変えただけ」


 僕は肩をすくめた。それで「わかりましたよ」と言ったつもりだ。


「まだあるわ。カミラからそれはもう事細かく聴かされてたのよ。だから、お目にかかったとき、さっと見てみたの。一瞬だけでもその気になれば見えることはあるわ。あなたは悪い女にだまされた。お金も大切なものも持っていかれた。一緒に暮らしたのだって状況に流されたからでしょ? そして、カミラが真実を伝えようとしても理解できないと言っていた。いい? こうやって事前の情報と観察だけでも、これくらいのことはわかるの。でも、私の言ったことはすべて当たってたでしょう?」


 父親は「悪い女に騙された」というところで身体をすった。ぶつぶつ言ってるのも聞こえてくる。


「まあ、そういう部分はあるんでしょう。理解しがたいことであっても、なんとか理解しようとするところが。初めて聴かされたときはまったく信じられませんでしたしね。ただ、だんだん信じられるようになってきたんです。そうなるくらい様々なことがありましたからね。だけど、納得はいかない。僕はとにかく理解したいんです。自分の置かれた状況をきちんと理解したい。それから先のことは後で考えます」


「わかったわ。では、はじめましょう」


 そう言うと母親は目を見ひらいた。口はわずかに動いてる。じゅもんでもとなえているのだろう。


「――うむ、そうだったのね。――いえ、あなたじゃないわ。嘘はおよしなさい。私にはわかってるのよ。――そう、わかるわ。――ん? いや、そういうことなの?」


 けんにはしわが寄っていった。これは当然の反応といえるだろう。彼女は一人でしゃべってるのだ。


「――ああ、あなたね。――で、なにが言いたいの? なにをしようとしてるの? ――駄目よ。話しなさい。その方があなたのためにもなるのよ。――いいえ、違うわ。そうじゃない。でも、これは必要なことなの。ほら、言って。――ふむ。なるほど。――で? ――そう。そうだったの。――いえ、わかるわ。あなたもわかってはいるんでしょう? でも、止められなくなってるのね?」


 どれくらいそうしていたかわからない。母親は力を抜き、てんじょうを見あげた。首を戻したときには表情が浮かんでいなかった。


「わかったわ。だいたいのことはわかった。あなたにいてるのは怖ろしく強い念を持った、いわゆるりょうよ。それが呼び寄せたのも幾つか憑いてるわ。ま、そっちはさほど強い力を持ってないけど、それでも良いことではないわ。ただ、あなたのしゅれいさまはかなり強い存在よ。そのおかげで最悪の事態に至らなかったの。そう、今もちゃんと身につけてるわね。そのネクタイピンがキーよ。それには守護霊様の念がもってるの。ずっと離さないようにしなさい。逆にいうと、それくらい生き霊の力は強いってことよ。あなたを独り占めしようとしてるの。そのためだったら死をもいとわないつもりらしいわ」


 しゃべるのをやめ、母親はあごを反らした。


「まだ信じられないといった顔をしてるわね」


「まあ、そうですね。それはすべてあなたが言ったことだ。僕の言葉じゃない。一方的に伝えられたって信じられるわけもない」


「面白い人ね。気にいったわ」


 首を曲げ、母親は娘を見つめた。それだって理解できない行動だ。


「街灯が突然消えたでしょ? 夜中に私がたたき起こされたときもそうだったじゃない。あのときだけじゃなく何度か同じことがあったはずよ。それに、あなたは犬によく見つめられるでしょう? そのことに気づいたのはある人からてきされたからよね?」


 僕はうなずいた。正直なところ驚いていた。それだって誰にも言ってなかったのだ。


「だけど、その頃はそうでもなかったはずよ」


「は? どういうことですか?」


「あなたは素直に信じていただけなの。その頃には生き霊は憑いてなかったのよ。犬に見つめられたとしてもたまたまのこと。でも、後になってそれ以外の人からも同じように言われたわね? そのときには確かにあなたを――いえ、あなたに憑いてるものを見てたの。より正確に言えば、犬はあなたを見つめるよう仕向けられてたってことよ」


「意味がわかりません。もっとわかるように言ってくれませんか?」


 背中を押しあて、母親は目を細めた。窓の外では百合ゆりが揺れている。


「犬が見つめてくるのは、あなたに思い出して欲しいと生き霊が念じてるからよ。そして、あなたは思い出した。誰にそう指摘されたのが初めてだったかを。――五年前? それくらいにあなたは恋人と別れてるわね? その恋人の生き霊が憑いてるの。ずっとあなたと共にいるわ。思い出して欲しくて犬たちに見つめさせてるの。ほら、思い出して、私のことを思い出して。そう言ってるわ。今も言ってるのよ。左肩の上にいるわ。顔をみっちゃくさせるようにしてあなたを見つめてる。ずっとささやいてもいるわ。思い出して。私のことを思い出すのってね」


 僕はそっと左肩を見た。曲げきることはできなかった。彼女の顔は浮かんでいた。忘れるわけもない。しかし、待てよ――と思った。


「信じられない。だって、向こうから言ってきたんですよ。僕は別れたくなかったんだ。突然一方的に切り出されたんです。それなのに、――いや、そんなわけがない」


 ソファのきしむ音がした。なぜかわからないけど父親は腹をたててるようだ。


「たとえそうだとしても念はとどまってるわ。そして、あなたを他の女にとられたくないと思いつづけてるの」


「信じられません。説明としては一応筋が通ってるんでしょう。だけど、信じられない」


「いいわ。今の時点ではそう思うのも当然かもしれないしね。でも、まだあるのよ。信じられるかどうかは全部聴いてから判断すればいいんじゃない?」


 そう言うと母親は頬をゆるめた。ただ、目は細められたままだ。


「これも言っとくけど私はおはらいができるわけじゃないの。あんなのは全部インチキなのよ。私みたいな人間にできるのはただ見るってこと。後はその人たちの問題なの。この場合はあなたがなにを選び取るかってことよ。でもね、より正しい方向を選びさえすればそれで解決するの。そういうものなのよ。あなたには強い力が必要だわ。あなたを守ることができる強い力が。――いえ、これじゃゆうどうすることになるわね。ありのままを見て、判断しなさい。納得してから動くの。そのためにもすべて聴いた方がいいと思わない? あなたは理解したいんでしょ?」


 僕は目だけ動かした。テーブルに置かれたままのコーヒーとケーキ、深い色をした木製のドア、いかめしいキャビネット。それから目を移し、うなずいてみせた。


「そう、それでいいわ。まずは知ることよ。あなたは判断材料を求めてる。そうなんでしょ? それをあたえられるのは私だけだわ。信じるか信じないかは後で考えなさい。あなた自身がそう言ったようにね。――じゃ、つづきを話すわよ。さっきも言ったけど、あなたはすこし前に女に騙されたわね? それについては面白い、いえ、そう思えるかは別にしてだけど、まあ、面白いことがあったのよ。さぎさわもえ。そういう名前の女だったわね? ま、そんな明らかにめいってわかる女に騙されるってのは問題があるけど、」


 そこまで言うと母親は顔をしかめた。ひときわ大きく軋む音が聞こえてきたのだ。

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