七章四話
数合打ち合ってすぐに、河野が足を払いに来た。僅かに身体の位置をずらされたイーケンに向かって白銀に輝く刀身が降り注ぐ。すんでのところで鞘で受け止め、重心を下げた身体を斜め前に押し出した。河野の左脇を抜けて背後を取る。河野は余分な動きも無しに振り向いて音もなく距離を詰める。イーケンの胴を逆袈裟に斬りあげようとしたのをさらに一歩下がってかわした。いい加減に攻勢に出ようとイーケンが思った瞬間、足下が大きく揺れる。想定外の事態に二人は思わず下を見た。そして生まれた一瞬の空白をイーケンは逃さない。河野の打刀の刃を弾いて、右手が大きく後ろへ行ったところで強く手首を打ち据える。跳ねた打刀は空中で旋回しそのまま海中に落下した。
手早く納刀したイーケンはそこで一気に距離を詰め、河野の眼前に肉薄する。河野の首に向かって伸ばした手を拳で打たれた。僅かに怯んだイーケンの胸部めがけて正拳が叩き込まれる。左手で防いだと思ったらその左手の指が麻痺したように動かない。イーケンの混乱を悟った河野は、立て続けに突きを入れる。この突きを食らうと、食らった部分に刺すような痛みが走った。汰羽羅の独特な体術なのか、対処の仕方が全く分からない。
突きを手でさばくとその手が使えなくなる。しかしさばかなければあの妙な攻撃を身体に直接食らってしまう。それだけは避けたいと思ったとき、視界の端にきらりと光る何かを捉えた。それが何か判断する前に、左腕の付け根に痛みが走る。経験則から自分の身体に刃物が刺されたのだと分かった。河野はイーケンに刺した短刀に向かって手を伸ばす。柄を握ってさらに刺すのかと思いきや、河野はその短刀を抜こうとした。慌てて河野の手を振り払うが、その衝撃で傷口が広がる。呻くイーケンの腹に河野の膝が叩き込まれ、ついに膝をついた。
「変わった奴だ。自分で自分の傷を広げたいとは」
河野は冷たい声で言ってから、両手両足をついているイーケンの頭を掴み、仰向けの状態で甲板に捻じ伏せる。河野の手が短刀を握り直して引き抜こうとしていることに気がつき、血の気が引いた。短刀を抜かれたら出血量が増すのも、動きと頭が鈍ることも目に見えている。咄嗟に右手で河野の左足を掴み、力一杯手前に引き寄せる。想定外のところで足下を崩された河野の上半身が大きく揺らいだ。倒れてきた身体がまた動き出す前に、河野の背中に肘をついて乗り上げる。右手を河野の首に回して渾身の力を込めたが、またひっくり返された。今度は両足で河野をはねのけてようやく立ち上がる。姿勢を整える暇も与えずに右の拳を無防備な顔の正面に叩き込み、続けて鳩尾に膝を入れた。姿勢が前方に崩れたところで下から左手で顎を殴る。河野の口からがちっと歯と歯が激突する音が鳴り、顔が上を向いた。後頭部の髪を右手でわし掴んで、さらに二回。一瞬河野と目が合ったことに気がついたイーケンは肺に潮風を吸い込み
「これで終いだ!」
と叫んだ。ほとんど感覚の無い左手で最後の一発を顔の真ん中に叩き込む。凄まじい衝撃に河野は白目をむき、背中を下にしてイーケンの足下に倒れた。河野は顔中が血まみれである。気が抜けたイーケンがその場に座り込みかけたとき、また船が揺れた。先ほどのものとは比べものにならない大きな揺れに、イーケンは異常事態が起きていることを悟る。周囲を見回してみると、近衛衆の男達は戻っているのか甲板にはあまり人影が少ない。下へ続く階段部分から何人か出て来たが、その中には朱真とアルンの姿があった。イーケンの姿を認めたアルンが
「大尉、船倉に穴を開けられました! この船は沈みます! 退避してください!」
と知らせる。
気絶している河野を引きずりつつ、イーケンは接舷したままの船に向かって走る。さすがに傷が痛むが、今はそんなことは気にしていられない。左舷側に接舷している船の水兵に河野を託し、自分も飛び移る。船の指揮を執っていた佐官が声を張った。
「退避せよ!」
河野を預けたイーケンはその場に崩れ落ちる。左腕の付け根に刺さった短刀を見て思わずうめいた。戦っている間は痛みを感じなかったが、もう誤魔化しはきかない。じわじわと服に血の染みが広がっていく。押し殺した息を吐いたところに、ひらりと銀髪が現れた。
「大尉、見せてください」
聞き慣れた声にどっと力が抜ける。十歳年下の天竜乗りが頼りになることはこれまででよく分かっていた。
「結構深く刺さっていますか?」
隣にかがみ込んだアルンの問いに首を横に振る。
「大して深くはないと思う」
「じゃあ抜いちゃいましょうか」
「ここでか?」
「浅い傷なら、抜いても圧迫すれば血は止まります」
アルンはそう言ってどこかに行ったかと思うと、清潔そうな布と包帯を持って帰って来た。刺さっている短刀の柄を握り、声をかける。
「抜きますよ、三、二、一!」
イーケンに用意をさせる前に一気に引き抜いて、上半身の服を全て脱がせた。傷口に布を当てがい、力いっぱい押さえられる。唇を噛み締めて耐えるイーケンの身体は、薄暗い中で見える部分だけでもかなり傷がついていた。
「大尉、頑張ってください。軍病院に最速で行けるように手配しますので」
「貴様には、何から何まで世話になっているな」
「これも仕事のうちです。お気になさらず」
アルンはそう言って、血で濡れきった布を取り替える。想像よりも出血が多く、内心舌打ちをした。
港に戻った後、アルンの言葉通り、イーケンは最速で軍病院に担ぎ込まれた。
肩の傷はさして深くなく、傷口がきれいなので縫う必要が無いと軍医は言った。河野からの一撃を防いだ左手は中指、薬指、小指が折れていたらしく、軍医が包帯でその三本を固定した。左側に怪我が集中しているせいで、しばらくは右側しか使えない。生活が不便になるかもしれないとイーケンは思った。
軍病院が使われるのは主に戦時下である。そうではない期間は閑古鳥が鳴くのが常であり、イーケンはだだっ広い部屋に一人で寝かされていた。王都セレースティナの北部にある軍病院からは、王族の住む白亜の城が見える。
寝台から起き上がって開け放たれた窓に近寄ると、眼下に街の明かりがあった。家の、宿の、店の、花街の、港の明かりがそこに灯っている。窓枠を掴む右手に力が篭る。怒濤の数日間はあっという間に幕を下ろした。これからはいつもと変わらない生活が待っているだろう。
「……俺は、間違っていない」
「その通りです」
背後の声に振り向けば、闇に紛れて銀髪がいた。彼女はイーケンの隣に歩み寄り、窓から外に視線を向ける。
「大尉、あなたはこの明かりを守ったんです。あなたの正義の名の下に」
冷えた夜風が吹き込み、イーケンの黒髪を撫でた。隣にいるアルンに、彼は言う。
「天竜乗り、俺は出世する」
「いきなりどうしたんですか?」
「俺は自分の正義に迷い、道を誤る人間をこれ以上見たくない。そのために、俺が羅針盤になる。神王国海軍軍人はこうあれと、正義の形を示したい。それがきっと、俺の生きる道だ」
傷と手がずきずきと痛む。この痛みを忘れることはきっと無いだろうと心の中で確信し、薄青と焦げ茶の目を伏せた。隣に佇む天竜乗りの穏やかな声がイーケンの鼓膜を撫でる。
「それが大尉にとって正しい道、行い、生き方であるのなら、ぜひそうしてください。人は自分自身の心に嘘をついて歩むことはできません」
「ああ。……天竜乗り、貴様はどう生きる?」
その問いかけに答えは無かった。目を開くと、つい先ほどまでそこにいたはずの天竜乗りの姿は跡形もなく消えていた。
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