大捕物

七章一話

 薄暗い独房の中には簡素な机と椅子、燭台と寝台だけがあった。薄い闇の中に燭台の明かりだけがぼうっと浮き出ている。イーケンが扉を開いて一番初めに見たのは机に向かう男の背中で、その背中は信じられないほど真っ直ぐに伸びていた。彼の右手が動いてるから何か書き物でもしているのだろうかと考える。

「まだ私に聞きたいことがあるのか、天竜乗り。これ以上話すことは無い」

 彼は短く問いかけたが返事が無いのを訝しんだのか、右手を止めて振り向いた。すると黒い両目がわずかに見開かれる。この暗さに慣れているはずだからイーケンの顔くらいは見えているだろう。

「無断で入室しましたことをお許しください。自分は……」

 謝罪をしてから名乗ろうとするとユーギャスが仕草でそれを制した。筆記用具を置いて椅子の向きを変えて足を組んだ。

「海兵隊のトランシアル大尉だろう」

 鋭い声音が独房に響く。黒曜石の目がイーケンをがっちりと捉えていた。腰に帯びている得物を剣帯から外して代わりに手に持つ。

「あまり自覚が無いようだが貴様は有名人だ。私の耳にも名前と活躍は届いていた」

「光栄です。……と、素直に思えないのが何より残念です。話は変わりますが、海軍内部では粛清の嵐が吹き荒れております。今回の件に関わった者はことごとく投獄され処罰が決まっています。そして第三艦隊の威信は地に落ちました」

「謝っても許されないことをしたと責めるつもりか? 死んで償っても足りぬと罵るか? どちらでも構わん。好きにしたまえ」

 言葉の端々には消えない威厳が残っている。腐っても、落ちるところまで落ちても、黒獅子と呼ばれて敵味方問わずに恐れられた男は健在だった。イーケンは彼の答えに対して首を横に振る。

「ではなぜここに来た」

「決して許されぬ罪を犯した、愚かな軍人の成れの果てを見るために参りました。十五の自分にとって救いとなった言葉を与えてくださった閣下に、ずっと憧れていました。まだ納得できていない気持ちに苛まされております。その気持ちに折り合いをつけるためにここにいます。全ては自分自身が道を踏み外さず、正しき道を歩み続けるためです」

 わずかな迷いも無く答えたイーケンの脳裏に初めて出会った夏のことが思い出された。一生忘れられない言葉をもらい、救われた夏だった。そしてあれから既に十年以上が過ぎ、何もかもをイーケンが自分の手で変えてしまった。すっと小さく息を吸って目を伏せたイーケンは言葉を繋ぐ。

「閣下のお噂は常々伺っておりました。まさに国の盾たる海軍に相応しい清廉潔白な方だと。……とても残念です。閣下ほどの軍人が終わったなどと未だに信じたくありません」

「私を追い込んだのは貴様だろう。今さら何を……」

「自分の正義に従った結果にすぎません。我々海軍は国の盾です。この国の安寧を守り、繁栄を支えるのが海軍の務めだと自分は信じております」

 それを聞いて、ユーギャスは乾いた声を発した。

「正義、正義か。あっさりと崩れる砂の城のような脆弱なものを信じていられるとは幸せだな」

 あらゆるものを嘲るような声音だった。目が慣れてもあまりユーギャスの表情はつかめないが決して明るいものでないことは想像がつく。乾いた声がさらに言葉を紡いだ。

「周辺諸国との協定など言葉だけだ。ギッシュからは技術と若者を、コージュラからは交易の利益と人々の安定した生活を奪っている。他国の悲しみや嘆きをこの国は武力で押し込んでいるにすぎない。そして我々海軍もその武力の一つだ。それを知ってもなお、貴様は己の正義とやらを信じるか?」

 予想のついていた言い分にイーケンは毅然とした態度で応じる。

「現時点の情勢では武力無くして安寧はあり得ません。全く争いの存在しない世などただの夢物語。閣下もお分かりでしょう」

「自らの安寧のためなら他者を虐げて搾取しても良いと? もっと違うやり方もあったはずだろう。フラッゼには力があり、優れた統治者もいる。この大陸では強者として君臨している。強者の特権は選択肢を持っていることだ。なぜ選択しなかった? どうして搾取し武力で押し込むことしかできない?」

 それまでの乾いた声に、悲痛な響きが乾いた砂に水滴が染み込むように入り込んだ。だがイーケンの心は揺らがなかった。ただ彼に同情するためにここに来たわけではない。

「我々はこの国の海軍将校です。ならばいかなる犠牲が出ようとも守らねばならないものは明白なはずでしょう」

「貴様には何十年と信じてきたものが間違っていたと知ったときの葛藤は分からんだろう。我々が理解し合うなど不可能だ」

 互いに何も言わない沈黙が訪れた。深いため息をついて口を開いたのはユーギャスで、彼は噛みしめるようにして言った。

「……後ろめたくはあった。軍人としての心は裏切りを許さなかった。しかし既に賽を投げてしまっていた。気がつくと、私には退路が無かった」

 ユーギャスはためらうように口を閉ざしてから両手を祈るように組んだ。膝の上に置かれた組んだ両手は石のように固まって動かない。

「私は裏切ることも裏切らないこともできなかった。立派な将校の姿はただの仮面で、その下にいたのは中途半端な男だった。貴様は私と同じ壁に当たったらどうする?」

「構わず進みます。ただひたすら迷わずに。たとえ盲目的であろうと」

 即答するとされた方は首を傾げて問い返す。

「己の信じるものが広い目で見たときに間違っていても?」

「簡単に信じたものを捨てられるほどの器用さは生憎と持ち合わせておりません」

「そうか」

 どこか満足そうな返事が来たことに驚きながらも、イーケンは最後に言おうと思っていたことを口にした。

「閣下の過ちはこの国を裏切ったことではないだろうと自分は考えております。それはあくまで罪状です。自分が考える真の過ちとは、一度信じたものを信じきれなかったことではないかと思うのです」

 ユーギャスは呆然とイーケンを見上げた。蝋燭以外に照明器具のない室内で、薄青と焦げ茶の目が黒獅子と呼ばれた男の目を捕まえて離さない。

「一度信じたものを信じ続けるのは苦しいことだ。間違っているかもしれないと悩むこともあるだろう。それでも、貴様は信じ続けると?」

「はい。いつかこの職を辞するその瞬間まで」

 迷いのない答えに、ユーギャスは僅かに口元を綻ばせた。彼の表情にイーケンが驚いたことに、どうやら彼も気がついたようだった。

「その強さが未来永劫折れないことを、私は祈ろう。きっとその強さは誰かを救う。私のように、半端な誰かを」

 与えられた言葉に、イーケンは思わず目を見開く。その瞬間に背後の扉が動いた。アルンが早口で時間が迫っていることを告げたのを受けて、イーケンは深く一礼する。

「これ以上は時間が足りません。手前勝手ではありますが、これで失礼いたします」

 手に持っていた得物を剣帯に通しながら外に出た瞬間にアルンが扉を閉める。鎖と錠前を元に戻している間にイーケンは周囲を見回した。第三者の足音どころかアルンが錠前をいじる以外の物音一つ聞こえない。錠前を閉め直したアルンは立ち上がってイーケンについて来るよう仕草で示した。

 アルンの先導に従って王宮から出ると、彼女はそれまで呼吸を忘れていたかのように息を吐き出した。ただでさえ悪い立場がさらに悪化する危険と向き合っての決断は、彼女の心臓に良くなかっただろう。

「こんなのこれきりですよ」

「ああ、分かっている」

 白亜の城を背景にイーケンは短く応じる。王宮を出ると途端に熱気が二人の全身を包み、安堵と気の緩みで一気に汗が吹き出した。鬱陶しげに銀髪を掻き上げたアルンは近くの石壁に寄りかかって腕を組んだ。

「最後以外は随分平行線な会話をしていたようですね」

「平行線で当然だ。むしろ俺はそれを望んでいた」

「妙な話ですね。時間の無駄じゃありません?」

「俺がここに来た目的は憧れを断ち切り、この先正しい道を選び続け、正しいことだけをするためだ。たとえ盲目的だろうが頑迷だろうが信条を曲げない人間でありたい。だから迷いも躊躇いも無い。俺は正道を歩む側で、道を誤った彼と同じことを考えていてはならない。それを確かめるためだった」

 やり口は多少荒っぽかったがな、と付け足したイーケンは夜空を見上げる。空に散らばる金剛石の光は、アルンの髪色によく似ていた。黙っているアルンにイーケンは短く問いかける。

「彼の今後はどうなる?」

「死刑は避けられないでしょう。彼は軍律にも法にも背きました。今やこの国にとっては裁かれるべき存在です」

 アルンの言葉にイーケンは躊躇わずに頷いた。かつて憧れ、尊敬していた相手であろうと最早同情などする余地はどこにも無く、同時に僅かでもあってはならない。イーケンは歩くために一歩踏み出した。

「当然だな。これで処罰がなければ示しがつかない。秩序が保たれねば外敵を排除しても国は壊れていく。たとえ誰であっても、法に触れれば裁かれねばならない」

 きっぱりとした口調のイーケンにアルンは穏やかな声で言った。

「……大尉、もう戻りましょう。明日は明日でやることがあります」


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