六章六話

 作戦を立案した者達に史門が解散との指示を出してから、イーケン、アルン、朱真は揃って夕食を摂った。柔らかい明かりの下で見る朱真はなかなかに悲惨な状態である。胴体よりも顔の怪我がひどいが、本人は特に気にするでもなく食事を楽しんでいた。深めの酒盃を気分良さげに傾けた朱真に、イーケンは問いかける。

「朱真殿、痛くないでのすか?」

 唇の両端が切れているせいであまり口が開かないのだろう。以前のように大きく口を開いて食べることはしていない。

「まあ痛いっちゃ痛いが大したこたねえな。それにこの数年は戦しかしてねえから痛いのには慣れた。それでさ、アンタの上官が裏切った理由ってのは分かったのか? あと天竜乗りが見つけてきたテーカンとかいう女は何だったんだよ」

 香辛料の入った汁物の椀を片手に、朱真はアルンに問いかける。朱真の鳶色の目には純粋な疑問が浮かんでいた。それを聞いたアルンは首を傾げる。

「私の上官から聞いていませんか? ご報告に伺ったはずなんですが……」

 アルンの手に収まった酒盃の中身が口の中に消えた。ずいぶん強い果実酒をもうそれなりの量を飲んでいるはずだが、顔には全く変化が見られない。そんな彼女の返事に朱真は箸を片手に応じた。

「こっちに引き上げて来て治療された後に眠り薬を飲まされた。だからその間のことは知らねえ」

「何でそんなことになるんです?」

「昔色々あったんだよ」

 これ以上は聞くな、と言った朱真は手近な酒瓶から馬乳酒を注いだ。他国から「馬の聖地」と讃えられる牙月の名物である。この屋敷にはその馬乳酒が大量に用意されていたが、残念ながらイーケンは癖が強くて飲めなかった。

「もしかして治療中に脱走でもしたんですか? もし本当だとしたら子どもみたいですね」

 思わず聞き返したアルンの言い方は失礼千万極まりない。しかし朱真は怒るわけではなく、明後日の方向を見るに留めた。彼にしては珍しい反応だ。朱真の様子から察したのか、アルンは黄昏色の目を見開く。

「うるせえな……。昔の話だってのにいつまでも忘れねえ史門様が悪いんだ」

 俺ァ信用ねえんだよ、と言った朱真の台詞にイーケンは呆れてしまった。本当に信用されていない部下を異国にまで帯同させるような上官はいないだろう。さらに史門は朱真に自身の指揮下を離れての行動も許可している。加えて普通なら首が飛びかねない無礼まで許されておいてこの発言だ。呆れを通り越して、イーケンは腹が立ってきた。

「ちなみに何年前のことなんです?」

 アルンの手が酒盃を離れ、羊肉の包み焼きに伸びる。薄く削いだ羊肉で濃い味をつけた野菜を包んで蒸した、牙月では一般的な料理だ。遊牧民であった頃から馬と同様に家畜として親しまれた羊を使った料理は牙月には多くある。アルンの白い歯が外側の肉を破り、内側の柔らかい野菜がこぼれ出た。

「この話は終いだ」

 不機嫌になった朱真は重い酒瓶を乱暴に床に置いた。その様子にアルンはいたずらっぽく笑う。野菜を酒で流し込んだかと思うと突然真面目な顔になったが、片手には酒盃が残っているので何とも言えない。

「失礼致しました。それではユーギャス・ルオレが裏切った理由からお話しましょう」

 イーケンはザラつく胸の内を抑えるように、強めの酒を煽った。

そんな様子を気にせずにアルンは酒盃を置いて乾いた声で言う。

「彼は初めに、信じるべき正義が分からなくなったと言いました」

「正義?」

 イーケンと朱真は揃って盛大に顔をしかめる。アルンは二人の反応を無視して勝手に話を進めた。

「ユーギャス・ルオレは三十年以上海軍に在籍している古株の軍人です。十八になる年に海軍士官学校を卒業して、西方司令部第六艦隊に着任。その後功績を認められて本部第七艦隊に異動になって出世街道を駆け上がり、三十歳で少将に昇進したと王宮の叙任録に記録が残っています」

 フラッゼでは陸海軍の将官が昇進すると王の名の下に叙任式が執り行われる。国家に貢献したことを褒め称え、その後の一層の活躍を願う儀式だ。毎年の末に執り行われるため王宮では年中行事の扱いとなっている。王は年内に昇進した将官全員に、将官のみ所持を許される特別な儀仗を下賜する。剣の形はしているものの装飾に重きを置くため、全く実用向きではない。最終的には将官達の執務室や自宅に飾られ、彼らの身分と功績を誇示するための道具となる。

 イーケンは仕草で続きを促す。アルンは足を組み直してまた声を紡いだ。

「彼は模範的な軍人でした。国家と王に忠節を誓い、戦争で活躍し、優秀な部下も大勢育てた。実際に彼の下にいた将校はいずれも優秀です。そして彼は、この国の王のやることは全て正しいと信じていた。それゆえにコージュラやギッシュの現状は彼をひどく傷つけたようです」

「現状? 協定の締結相手だろうが。他に何があるってんだ?」

 朱真のもっともな問いにイーケンも頷く。苦く笑ったアルンの瞳が燭台の灯りを弾いた。

「書類でもそうですし、実際の扱いもそうなっています。ですが全てが丸く収まっているわけがないでしょう。何かにつけて見えない問題が起きているのが人の世の常です」

「ギッシュもコージュラもフラッゼの保護が欲しくて自分から話を持ちかけてきたはずだ。征服したわけではあるまい」

 そう言ったイーケンの表情には傲慢さと苛立ちが混ざり、青と焦げ茶の瞳には轟々と荒れ狂う荒波が見て取れる。はっきりとした物言いをされないとこの軍人は苛立ちを隠しもしない。驚くほど単純で直情的な様を見ると、アルンは余計にそうしてやりたくなった。

「ええ、そうですとも。ギッシュにもコージュラにも謀反の意志はありませんし、征服された地域でもありません。ですが河野の根城で言ったでしょう。ギッシュもコージュラも、内部で分裂が起きかけていると。そしてその原因はこの国です。ギッシュからは技術と若者、コージュラからは交易の莫大な利益の一部と平穏を奪っています。少なくとも彼らはそう感じています」

「もっと具体的に説明しろ」

 びっくりするほど予想通りの反応である。アルンは酒盃を置いてイーケンに自分の目線をぶつけた。

「コージュラとの交易が盛んになったことでフラッゼの商人が直接職人や工房と取引を行うようになりました。それまでコージュラは交易で得た利益を分配する形を取っていましたが、フラッゼの商人の参入によって制度自体が崩壊寸前まで追い込まれています。同時に貧富の差が拡大することで内部情勢が不安定になりました」

「それで……、ユーギャス・ルオレの件と何が関係しているんだ」

 かつての上官の名前を発する瞬間だけ、イーケンはわずかに躊躇う。それが違和感か他の感情かは本人にも分からない。

「これまでコージュラとギッシュが表立ってそれらのことについて文句を言えなかったのは、フラッゼが軍事力で威圧しているからに他なりません。しかし実際に睨みを効かせているのは陸軍で脅しをかけているのは軍務卿。いかに海軍上層部と言えど、ここまでは知らなかったのでしょうね」

「ではなぜ河野がそんなことを知っていた?」

「多分だけど、河野は自分でそこまで行ったんだろうよ」

 間髪入れないイーケンの問いに朱真が言葉を返す。イーケンとアルンがそちらに目をやると朱真は自分の膝に肘をついて二人を見ていた。

「汰羽羅からコージュラはともかくギッシュまで……?!」

 思わずイーケンの声が裏返った。フラッゼ、ギッシュ、コージュラのある大陸と汰羽羅は広大な海原を挟んでいる。汰羽羅はフラッゼから見てほぼ真南に位置しているが、補給のための寄港地がほとんど存在しないため汰羽羅から真っ直ぐ北上するのは不可能だ。フラッゼからの南下も同じ理由で難しい。南北を行き来するには補給のために大陸西側の牙月を始めとした国に立ち寄る必要がある。これらの地理的条件により、汰羽羅とフラッゼの直接の交流はこれまでなされたことがない。女王のソウリィと王配の暁遼の結婚は、フラッゼが南側諸国との貿易を円滑に進めるためであった。

「時間がかかる長旅だがあの男は主の命令なら何でもする」

「朱真殿、真奏とやらがそう動くように命じたと考えてよろしいのでしょうか?」

 今度は裏返ってない声で問うたイーケンに朱真は頷いて見せた。

「それで正解だと思うぜ。河野は基本的には真奏からの命令がねえと動かねえ。それこそ一歩もな」

「河野がフラッゼに入ったという情報は全くありませんでしたから、恐らく彼はフラッゼを介さずにギッシュやコージュラへ向かったはずです。用心深い主従ですね」

 アルンの冷めた一言に、男二人はあぜんと口を開ける。だがすぐに朱真は両手を打ち合わせた。

「うちの東側の山を越えるなら、確かにフラッゼには入らなくて済むな」

 牙月帝国の広大な平原の東側には険峻な山脈がそびえ立っている。その向こうにはまた違う国があるが、この山脈があることによって外敵の侵入を防いでいた。この山を越えようと数代前の皇帝が挑戦したものの山に詳しくなかった牙月の武人達は自然に敗北した。それ以降この山に挑む者はいなくなった。そんな山脈を北上するとフラッゼから見て東側にある少数民族や原住民族の支配域に入り、西へと方向転換することでフラッゼの国境を介することなくギッシュ族の住む北方地域に突入する。さらに西へ行けば地図上ではコージュラの人間に接触できるはずだ。

「書物によればフラッゼの北方国境の山脈と違って雪の降らない山だそうです。獣と賊、毒のある草木に気をつければ越えることはできるでしょう」

 イーケンの意見は案外冷静だった。彼は汰羽羅に侵攻した際に高温多湿な地域の山中を経験している。結果として彼の隊は山中に潜んだ伏兵、罠、獣や虫に悩まされながらも活路を開いた。それなりの犠牲は払ったが、これは陸戦も行う海兵隊ならではの経験である。

「とりあえずこれだけで河野がとんでもねえ男だってことは分かってもらえたと思うんだが、どうだ?」

 朱真の問いにイーケンは深く頷く。それから口元を覆って静かに声を溢した。

「自分で足を運んで全てを確かめ舌先三寸で丸め込み、そして海軍上層部に接近し、この騒ぎを計画したということでしょう」

 この計画にかかっている時間と労力は生半可なものではない。死を覚悟するどころか計画自体が頓挫する可能性の方が高い。加えて計画が露呈すれば大国に襲われてすり潰されることは必定。遠大で無茶苦茶で、そして素早さが全ての大博打だ。これを考えついた真奏も、実行している河野も並大抵の人間ではないだろう。

「大尉、よろしいですか?」

 アルンに声をかけられてイーケンは慌てて頷く。彼は全てを聞かねばならなかった。この話はまだ終わっていない。

「周辺勢力の実情を知った彼は苦しんだそうです。彼が間違いないと信じていたこの国の正義は彼の知らないところで弱い者を虐げていた。知ってしまった以上無視はできなかった。ゆえに加担してしまったのだと」

 黄昏色の瞳を軽く伏せたアルンは足を組み直す。揺れた銀髪のきらめきは一瞬だけ光って消えた。

「彼は強い者が全てを差配し君臨したときに起こる理不尽を受け入れられなかった。そこに漬け込んだ河野の手腕は敵ながら見事ですね」

 イーケンの口の中に苦いものが広がっていく。奥歯を噛み締めて口元を右手で覆い隠し、空いた左手は膝を掴んだ。あえて自分から聞くことはしなかった。国の盾たる海軍士官として生きてきた彼が理由無く反旗を翻すわけはないと初めから分かっていたのだ。だからこそ今、納得がいかない。耐えかねるあまりに思わず俯いてしまった。そんな彼をよそに朱真は半ば呆れた顔で言う。

「褒めるたァ良〜い度胸してんな、天竜乗り」

「敵対勢力を懐柔するための訓練も受けていますから私には分かるのですよ、河野の技術の高さがね」

 すぐ近くで交わされている会話を聞く気にもなれない。居ても立っても居られないが、どうすればいいのか分からなかった。

「それで、テーカンって女は何者だったんだよ」

「テーカンはコージュラの族長の末の娘です。フラッゼに対して反感を抱いている若者を率いて河野に協力していたようですね」

 どうやってこの胸の靄を晴らしてくれようかと考えている間に二人の話が淡々と進んでいく。

「ところでさ、あの女は生きてんのか?」

 朱真の問いにアルンは眉一つ動かさずに応じた。

「どうしてそんなことを聞くんです?」

「牙月で捕まえた薬を売りさばいてた奴のこと、殴りすぎたか蹴りすぎたかでうっかり殺したろ? あんときは隠そうとしてたみたいだが手も服も靴も血塗れで丸分かりだったぜ」

 その言葉に部屋の空気が冷え込む。アルンは果実酒の瓶が空になったのを見ながら平然と答えた。

「私が牙月にいたとき朱真殿は積極的に関わろうとされてませんでしたので、あまり余計なことは言わぬほうが良いと思っていました」

「まあ、あんときは地方の反乱鎮圧で忙しかったしな。それで結局どうやって片付けた? フラッゼの人間が風に帰すとは思えねえし、死体の様子的に無理そうだったし……」

「蝋で固めて鳥の嫌う臭いをつけた首だけ晒しました。汎要殿が仲間の目につくところに転がしておけと仰せになられましたので」

 何やら物騒な会話なうえに、蝋で首を固める意味が理解できない。恐らく牙月の文化的な理由があるのだろうが、イーケンは今そこまで頭が回っていなかった。ゆっくりと立ち上がったイーケンを見て、二人は首を傾げる。

「天竜乗り、ユーギャス・ルオレはどこに拘束されている?」

「王宮の深部、天竜乗りの住処の独房に」

「連れて行け。納得がいかん。このままでは寝られない」

 唐突な要求にアルンは渋い表情を見せた。

「今からでは難しいと思います。あそこに王宮外部の者を入れるには申請が必要です。夜警の担当によっては申請を許可してもらえる可能性もありますが、望みは薄いですよ」

「なぜだ」

 あからさまに機嫌の悪いイーケンに、アルンはため息をつく。銀髪を鬱陶しげに掻き上げてイーケンを睨んだ。機嫌が悪いうえに居丈高な物言いが気に食わない。人にものを頼むならそれなりの態度を取れと言いたい気分である。

「何度も言いますが私は禁忌を犯した一族最悪の面汚しの娘で、本来ならば死んで当然の忌み子。混血の珍しくないこの国で唯一混ざり合うことを認めない、歪で閉鎖的な集団の中では常に見下されている存在です」

「関係ない。連れて行け」

「飲みすぎたんじゃないですか? もう寝てください」

「いいから連れて行け」

「……じゃあ支度して正面玄関に」

「分かった。感謝する」

 それだけ言ってイーケンは深々と頭を下げた。初めの居丈高な態度はどこに行ったのだろうかとアルンは呆れたのであった。


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