四章 激動
四章一話
その頃、白苑の屋敷では。
「史門様、朱真が戻りません。何かあったのでは?」
汎要が厳しい顔つきで史門にそう伝えた。史門はぼんやりと日の落ち始めた空を見つめる。
「そう子どものように決まった刻限に帰ってくることなどある訳が無かろう」
史門は敷物の上で足を組み、透明なガラスの器を傾けた。中で揺れるのは香辛料を使った茶だ。牙月人は料理に使う香辛料を飲み物にも入れる。
「しかしこの屋敷の門限は伝えたはずです。昨日まではその通りに行動していたではないですか!」
「赤狼と呼ばれるあれが並大抵の相手にやられるものか。今は天竜乗りですら同行している」
「天竜乗り、ですか。伝説の一族で、建国神話に登場する謎の存在だと市井では言われているようですが?」
棘のある声に史門は片眉を跳ね上げた。腹心の不満そうな声を受けても平然とした顔で茶器を手に取って茶を注ぎ、それを手渡す。汎要は唇を湿らせてから渋い表情もそのままに続けた。
「そんなものを簡単に信頼してよろしいので?」
「フラッゼ神王国が国として成立して以来、この国を何人もの王が統治した」
「それが何か?」
「歴代の王は皆、天寿を全うしたと歴史書にはある。信じられるか? 五百年の波乱に満ちた歴史を歩んだ国の国主が、全員天寿を全うしたのだぞ?」
「そのようなもの嘘に決まっておりましょう。自国の王を歴史家が悪く書けた例など聞いた試しがございません。それに歴史など後にいくらでも書き換えられます」
汎要のつれない尖った返答が史門に突き刺さる。だが史門は不敵に笑って続けた。
「まあ聞け。この史門にはその記述が本当だと信じる理由がある。それが天竜乗りだ。お前も気がついているだろうがあの銀髪、かなり強いぞ」
ギラつく史門の目は面白いものを見つけた子どものようで、その目が昔と変わらないことに汎要はため息をつく。
「牙月の近衛衆に近いのだと白苑殿下が教えてくださった。何でも暁遼殿下からお聞きになったという話でな、王家の影なのだと。一度で良いからフラッゼの王を守るために鍛えられたあの銀髪と刃を交えてみたい」
「朱真のような戦闘狂ぶりもいい加減になさってください。それどころではないのですぞ」
呆れたように言い放った汎要だったが、ふと近くの筒を見る。それを手に取り、静かに蓋を開いた。中には珊瑛が訳した文書が収められている。清書と写しがそれぞれ二枚。他に清書がもう三枚あったが、その三枚は全て別々の者に渡し、本国へ送るよう汎要が手配した。
「こちらに残した薬の受け渡しは一週間後の新月の夜。場所は商船用の港。受け渡す相手は牙月を経由して汰羽羅に向かう船。この情報を一刻でも早く伝えるべきだというのに、相手がおらぬのでは話になりませぬぞ」
「どちらにせよ、いずれ戻って来よう。こちらはこちらで支度を整える。本国へ連絡は出したな?」
史門は悠然と問いながら、手近な青い陶器の皿から取った乾酪を口に放り込んだ。
「は、手配はぬかりありませぬ」
「明後日になっても朱真達三人が戻って来なければ足取りを辿れ。白苑殿下にもこの旨をお伝えせよ」
汎要は一礼してからその場を立ち去る。それを見送った史門は、新たな乾酪を口に入れた。
その日の夜中、屋敷にて。
「河野様、あの朱真とやらは何も吐きませぬ。どれだけ痛めつけても弱るどころか笑うばかりございます。あれは化け物です」
「であろうな。痛めつけるだけ時間の無駄ぞ。それと、海軍の協力者に文を。あの男の身元を割り出す。あれは恐らく軍人だ」
イーケンを気絶させた男はそう言って筆を下ろした。彼の名は河野利昌。桐生真奏の腹心にして、汰羽羅諸島随一の騎兵戦の達人である。今彼のいる部屋の中には仄かな明かりが灯り、柔らかい光が満ちている。河野は椅子の背もたれに寄りかかったかが、すぐに身体を起こした。
「しかしこの手の椅子には慣れぬ。やはり畳が恋しい」
「ところで何をお書きになっておられたので?」
「我が君への書状だ。蜂谷公康の訃報と、遺体が持ち去られたことをお伝えせねばならぬ。全てを手早く終わらせねば。もう時間がない」
そう答えてから、河野は照明器具のすぐ近くに立ってガラスの内側で揺れるろうそくの炎を見つめる。細かい装飾の施されたガラスと壁に取り付けるための金属部分を目線で撫でた。金属部分にも装飾がなされ、中で燃えているろうそくは長く太い。
「どう? 美しいでしょう?」
その声に河野はハッとして顔を上げた。部屋の入口に恐ろしく肌の白い女が立っている。
「シーラ様」
「気にしないで楽にしてちょうだい」
慌てて居住まいを正した河野にシーラは鷹揚にうなずく。彼女は部屋に入って来ると河野が見ていた照明器具の下に立った。
「ガラスの装飾はコージュラの専売。でも金属の装飾ならば、我がギッシュの得意分野よ」
彼女のまとった濃紺の薄い生地が、その優美な仕草につられてふわりと動く。揺れ動く様が、昔故郷の海で見た魚の尾のようで思わず目で追ってしまった。
「して、河野。手筈はどうなったの?」
「次の新月の夜に商船用の港で、牙月の船の積荷に同胞の手で紛れ込ませる予定でございます」
「牙月の商船ならば海軍も手荒なことはできないわね」
シーラの色素の薄い目が薄っすらと細められる。細く優美な身体を覆う衣服は全て絹を使った高価な布地で仕立てられたものだ。汰羽羅の絹織物の優れた技術があって初めて成立する服装である。それを纏うシーラは、フラッゼ神王国の北方に住まうギッシュ族の首長の娘だ。父の名代としてフラッゼに半年前にやって来てから河野の協力者として動いている。
「しかしあなたの主君もなかなかじゃないの。真奏殿と言ったかしら?」
シーラは紫水晶の瞳を軽く伏せ、近くの椅子に腰を下ろした。
「我が主君が何か?」
「外部から受けた侵略を使って既存の権力を倒し、武力と恐怖で国中をねじ伏せたのでしょう? 並の人間じゃないわ。それに従ったあなたもなかなか度胸があると思うのだけれど」
シーラの声は透き通るように美しい。だが、同時に降り積もった雪のような冷たさも備えている。
「我が君は聡明で機を見るに敏なお方でございます。我が君がお決めになられた以上、私はその決定に唯々諾々と従うのみ。他に道などありませぬ。冥土の旅にもお供すると以前お約束申し上げました」
「では、今やっていることもその理屈なのかしら」
「左様」
「それにしても怖いもの知らずね。牙月に牙をむくなんて」
河野は曖昧に笑ってそれを受け流した。
現在の汰羽羅には統治権があり政治は自分達の手で行っているが、そこにはどうしても牙月の意向が関わってくる。そして毎年牙月の新年祭には挨拶に行かねばならないが、これが最も厄介であった。その際には牙月では得られない豊かな海産物や、それらの乾物、貴重な真珠や高価な螺鈿細工、蒔絵、漆器などの献上を求められる。さらに毎年一定の額の金の支払いも要求される。これらは確実に財政を蝕んでいると勘定方から報告が上がっていた。これを受けて減額の交渉をしたものの、相手にはされなかった。経済も引っ掻き回されて国内情勢は悪化の一途を辿っている。これまでには無かったありとあらゆる病気や物資が持ち込まれ、混乱を極めていた。
「相手は大国牙月。騎馬民族の建てた広大な国土を持つ国よ。一時は陰りが見えたとは言え国力は計り知れない。まともに戦えばどうなることやら。さらにフラッゼにまでも敵に回した。最早汰羽羅の退路は無いわ」
シーラはゆっくりと足を組んだ。その仕草すら優雅で気品をにじませている。
「ギッシュ族とて同様でございましょう。フラッゼの支配を受ける姿勢に甘んじてかろうじて生き延びているのですから、これが知られれば無傷では済みますまい」
鋭く冷たい言葉にシーラの表情は固まる。化粧の施された優美な顔は微妙に歪んだまま動かない。
シーラの一族であるギッシュ族は北の寒冷な大地に住まう。しかしその地に住まうのはギッシュ族だけではない。複数の敵対勢力との数十年にもわたる争いに終止符を打つため、十五年近く前に彼女の父はフラッゼを頼った。フラッゼと定期的な使節のやり取り、留学生の派遣などに関する協定を結び、金属加工技術を提供する見返りとして強力な保護を約束されたのだ。この保護を失えば、たちまち周辺勢力に押し潰されてしまう。
フラッゼに向かう留学生のほとんどは金属加工職人の次男や三男だ。彼らはフラッゼの学寮で医学や薬学、建築、算術の勉学の隙間に幼い頃から覚えた技術を職人達に教える。そして温暖で豊かな暮らしを知った彼らは、寒冷で貧しい北の地に戻ろうとしない。ギッシュ族は、安寧を得た代わりに若い男と技術を奪われている。
「あなたこそ失敗すれば一族を滅ぼした大罪人とされるのではありませんか?」
河野の一言にシーラは引きつった笑いを見せた。
「あなたの舌が、今ここで凍りついてしまえば良いのに」
「面白いことを仰せになりますな」
彼は軽く言ってからふと硬い表情を覗かせた。
「恐らくあの三人は地下道に残ったシーラ様の耳飾りを追ってここを嗅ぎつけたと思われます。牙月の赤狼と地下道にいた海軍の軍人もいる。牙月とフラッゼの中枢が動き出したと考えて構わないでしょう。こうなれば事は一刻を争うのです」
「三人と言うならもう一人は何者なの?」
その問いに河野は首を横に振る。同時に眉間に峡谷が刻まれた。
「銀髪の娘です。全身を検分しましたが、身分を割り出せるものを何一つ身につけていませんでした。ただし相当な手練であることは間違いありません。捕らえるのに手こずった挙げ句、五人が殺されました」
「一人で五人……。強いわね」
「負傷者を含めれば十人ほどやられたと報告がありました。狭い路地の壁や空き家を上手く使って立ち回り、的確に急所を貫いたと報告が上がっています。踊るように戦ったとも言っていました。恐ろしく身軽で、動きに無駄が無い。我々の使う刀では捉えきれなかったと」
聞いたことも見たこともない、と河野はうなる。しかしそもそも銀髪というものを初めて目にした。牙月のあたりにはそのような髪色もあると聞いたが、珍しいのだとも聞いた。そんな髪色の人間がいるのだから、初めて見聞きする武術の使い手がいてもおかしくない。ともかく、と顔を上げてシーラを見た。
「何とか身元を吐かせてみます。分かりましたらお知らせしましょう」
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