第5話 外階段
もう耐えられない! 私は立ちあがって後ろを振り返り、渡部くんの机を3階の教室から中庭へ放り投げよう、として翔之介に羽交い絞めにされた。突然大声を出した私を見兼ねて、佐々木くんが翔之介を呼びにいってくれたのだった。
廊下の窓ガラスを割ろうとした一件以来、一見私は平和に過ごしていた。でも実は、椅子を蹴り上げるのはやめてくれたけれど、今度は私の都合お構いなしに、渡部くんは下ネタを仕込んでやると言って、卑猥な言葉を囁くようになった。
ついに我慢の限界を超えた。
「今度はなに?」
翔之介の声を聞いた途端、力が抜けて、泣きじゃくった。そして、授業中だったことに気が付いた。
「取り合えず、保健室連れて行きます」
授業を抜け出したくない私は嫌がったが、翔之介は私の肩を抱いて腕を引っ張った。仕方なく私は従った。
保健室の先生に事情を話して少し休ませてもらうことになった。私はベットに腰を下ろした。
「事情はあいつから聞いておくから少し休んでろ。先輩にも事情話しておくから」
「翔之介、行かないで」
私は力なく小さな声でそう言った。翔之介は肩を落としてため息をついた。しゃがんで私の両手を掴んで、少しだけな、と優しい声で言った。
「野球のお話しして」
私は子供がおねだりするような口調で言った。
「おう、じゃあ、イチローがランニングホームランを阻止したときの話しをしてやろう」
翔之介がいたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。私もつられて微笑んだ。
昼休みに外階段にすわって鼻歌を歌っていると、吉田先輩がやってきた。
私は恥ずかしくなって頬が上気するのを感じた。思わず両手で口元を覆った。
「機嫌直ったみたいだね」
吉田先輩は穏やかな口調でそう言った。
吉田先輩は翔之介から事情を聞いたのだろう。私を心配して外階段まで私を探しにきてくれた。私は野球部の治安維持部隊から、”問題児”と呼ばれるようになってしまっていた。
しかし、今回のことも、皆は私の味方をしてくれた。佐々木くんも、渡部くんの卑猥な言葉を不快に思っていたと証言してくれたのだ。
私は一連のことに片が付いてほっとしていたけれど、教室に居るのが好きではなくなってしまった。休み時間の度に、外階段で過ごすのが習慣になってしまった。外階段からは野球部のグラウンドが一望できる。私のお気に入りの場所だった。
吉田先輩は私の隣に腰を下ろした。
「なんのうたなの?」
吉田先輩の声は楽し気に響く。私は一瞬躊躇したが、そのうたを歌った。
「はーしいるー、はーるかー、このほーしのはてまでー」
私たちはふたりで顔を見合わせてわらいあった。
「野球部員がね、ダイヤモンドランするでしょ」
私は可笑しいのをこらえながら言った。
「練習でね」
吉田先輩は機嫌の直った私を嬉しそうに見つめている。
「それ見てるといつもこの歌が流れてくるの」
吉田先輩は吹きだした。私は吉田先輩をわらかせて、ちょっと得意げな気持ちになった。
「この地球の果てまで走ってるのか、俺たち」
ひとしきりわらったあと、吉田先輩が言った。私は吉田先輩の隣をとても居心地よく感じ、こんな時間がずっと続けばいいのになと思った。
「吉田先輩、ちょっと、投球フォーム見せて」
私は両手を合わせてお願いしてみせた。少し照れくさそうにする吉田先輩に首をかしげた。先輩はしょーがねーなあ、と言いながらも、ちょっと照れくさそうに立ちあがった。ふっと呼吸を整えて一球ぶん本気をみせてれた。
私はその姿を見て、何故だか涙が滲んだ。このひとはいつもこうやって、学校を背負ってマウンドに立ち、一球一球、魂を込めるように投げ込んでいるんだ。
私はエースピッチャーを誇りに思った。
涙腺が緩んだのを隠すようにほっぺを両手で撫でていたら、Spitzのある唄があたまに流れてきた。
吉田先輩は腰に手をあてて、もう一球みせてやろうか、と言った。
私が微笑んで頷くと、先輩は投球フォームに入る体制をとった。
思わず私はその唄が口をついた。先輩は思わず動きを止めた。
♪ ときを
とめて
君の笑顔が 胸の砂地に 浸み込んでゆくよ
正しいものが これじゃなくても 忘れたくない
闇の途中で やっと気づいた
すぐに消えそうで、悲しいほど ささやかな 光
今度は滲んだ涙が堪えられなくなって零れ落ちた。
吉田先輩は私の隣に再び腰を下ろすと、私が落ち着くまであたまをぽん、として撫でた。私は両手で顔を覆った。
しばらくすると、呼吸を意識できるほどに落ち着いてきた。
「もう大丈夫です」
私は頬の涙をぬぐって先輩に笑顔を向けた。吉田先輩は私の肩にそっと手を置いて、私にキスをした。
私は思考が停止した。しばらくふたりで見つめ合ったあと、照れて目線を逸らす吉田先輩を、私は見つめた。
「やべえ、あー、どうしよう。翔之介になんて言おう」
吉田先輩は両手で頭を抱えて恥ずかしそうに言った。
『内緒にしておけば?やべえ、思わず喋っちった』
電話の斎藤宏介さんの声がした。
「やべえ、二重でやべえ。斎藤も弥生のこと心配しててさ。電話繋げてたの忘れてた。まあいいか、斎藤のことは。ていうか俺もう、喋れねえ」
吉田先輩は私を見て弱く微笑んだあと、誰もいないグラウンドに視線を移した。
『じゃあ俺が立法政府を立てて、おまえの所業を審議してしんぜよう、なんてね』
「おまえが成敗されろ」
『はいはい、そのうちね』
「弥生」
吉田先輩が急に真剣な表情で私を呼んだ。私はしっかり頷いて、吉田先輩の目を見つめた。
「今度の試合、必ず見に来てくれ」
吉田先輩は左手で私の右手にそっと触れた。
引退が掛かった試合、吉田先輩は、1試合目、完投完封試合を成し遂げた。私は奇跡を目の当たりにして、立ちあがることもできず、ただマウンドに立つ彼の姿を見つめた。チームメイトと嬉しそうに抱きあって喜ぶ姿に涙が滲んだ。
2試合目、私は自分の試合と日程が重なり、見に行くことができなかった。先輩は2失点に抑えたけれど、得点が得られず、結局それが引退試合となった。
引退試合のあとしばらくして、外階段でグラウンドを眺める私の元に、吉田先輩がやってきた。ふたりきりになるのはひさしぶりだった。
吉田先輩はため息をつきながら私の隣にすわった。少し元気のない先輩を励まそうと、私は先輩のすわる段の少し下にすわり直した。
「先輩、かっこよかったです。試合、見に行けなくてごめんね」
私は先輩の右手に自分の左手を添えてそう言った。
先輩は2試合目が引退試合になるなんて思っていなかったそうだ。問題児の私のために、もう一度マウンドに立ちたかった、そう言って、肩を落とした。
「甲子園とまではいかないけれど、せめてマリンスタジアムに連れて行ってやりたかったなあ。賭けは俺の負けだなあ」
そう言うと先輩は私の左手をぎゅっと握った。
「賭けって?」
私はなるべく声が明るく響くように気を付けながら訊き返した。
「翔之介に託すわ。翔之介っていうか高木」
吉田先輩は私の顔を覗き込んでそう言った。
「あー俺もっとマウンドに立っていたかったわ」
吉田先輩は体を伸ばしながら大きな声を出した。ほんとに野球が好きなんだなあ。白いユニフォームが誰よりも似合う人。マウンドに立っている時以外でも、我が校のエースピッチャーの誇りを体現していたひと。荒れてしまいがちな校風の中で、その立ち居振る舞いが尊いものだった。
「引退しないで」
思わず私は言った。吉田先輩はわらいながら、私のあたまをぽんとして撫でた。
私は吉田先輩の卒業式の日、先輩にネクタイを貰いに行った。我が校の男子の制服は、エンブレムのついた紺のブレザーに斜めストライプのネクタイ。ブレザーは野球部員で取り合いになっていて、ネクタイは吉田先輩が快く私に譲ってくれた。私はその場ですぐ、自分のリボンを外し、ネクタイを締めて、吉田先輩に見せた。吉田先輩は嬉しそうに笑っていた。
女子バスケットボール部では、制服を着崩して着用することは御法度とされていたので、私はネクタイを毎日大切に持ち歩いた。
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