第16話 尚書令トーランの計画

 レンリは皇女リーファと郷兵たちを連れて、駐屯地の庁舎へと戻った。

 翼人の襲撃という事態はあったが、皇女の身に傷一つ負わせることなく守ることができた。


 ともかく、そのことにレンリは安堵していた。

 あとは皇女を歓迎する宴を開き、翌日に里の様子を見てから、皇女はこの地を旅立つ予定だという。


 そうすれば肩の荷が下りるというものだ。

 皇女はなかなか興味深い人物だったが、万一皇女の身になにかあったらと思うと、細かなことを気にしないレンリもさすがに気が気でなかった。


 しかし、一つ問題が生じた。

 庁舎に戻るなり、禁軍の兵がレンリに詰め寄ったのだ。


「レンリ殿。皇女殿下が翼人に襲われ、危ういところだったとか。貴殿がついていながらこのような事態を招いたことに、どう責任をとるつもりだ?」


 相手は鎧の黒髪の大男で、皇女の護衛の禁軍の兵のまとめ役のようだった。

 レンリは問い返した。


「あなたの名前を聞いていなかったな」


「私は八品官の禁軍内親王府旅帥のブランだ」


「ブラン殿。我々は殿下の身を難なくお守りした。あなたに責められるようなことは身に覚えがない」


「そもそも殿下の身に危険が及ぶ可能性が生じたことを問題視しているのだ!」


 ブランは声を荒げた。

 ブランの言うことは一理あったが、そもそも激戦の北辺の地を視察する時点で、そういう危険が生じるのはやむを得ない。

 もともと視察自体はリーファの希望であり、レンリはこれを実現させたにすぎない。


「これだから郷兵は……」


 ブランが舌打ちし、さらに悪態を吐こうとした。

 しかし、一人の少女が、鈴を鳴らすようなきれいな声でそれを止めた。


「私を守ってくださった方たちを侮辱するのは、あなたでも許しませんよ。ブラン?」


 リーファが黒い澄んだ瞳でブランを見つめて言った。

 その声には有無を言わさぬ強さがあった。


 皇女の言葉とあれば、ブランも従わざるをえない。

 レンリはすかさず言う。


「ブラン殿、私はあなたと口論したいわけではないんだ。ともに帝国に仕える身として、酒宴に臨もうじゃないか」


「……わかった」


 ブランがしぶしぶうなずくのを確認した。

 レンリはアイカたちに指示を出して宴の用意は始めさせ、しばらくして会場へと皇女と禁軍の兵たちを案内する。


 といっても、北辺の地のなかでもさらに最果てのこの駐屯地では大した料理は出せない。

 酒も葡萄酒とラクダの馬乳酒のみだった。


 それでもリーファは楽しそうにしていた。

 禁軍の兵もブランのように渋い顔をするものばかりでなく、酒が入ると普通に愉快そうに郷兵たちと談笑しているものもいた。


(結局、帝都であっても辺境であっても、人間性はまちまちということだな……)


 レンリは思った。

 盃を手にとっていると、リーファがレンリの横にやってきて、腰を下ろす。


 リーファは白く細い手で、手の中の盃を差し出した。

 それは翡翠で出来たもので、いわゆる「夜光杯」と呼ばれる高級品だった。

 

 緑色の杯には幾筋もの美しい模様が天然で入っている。


 そして、リーファはにっこりと微笑んだ。


「注いでくださいますか?」


「もちろんです」


 レンリは袋に入った葡萄酒を、リーファの夜光杯へと注いだ。

 

「ありがとうございます。少し外に出て風に当たりましょう」


 そう言うと、リーファはぴょんと跳ねるように立ち上がり、障子を開けて庁舎の建物の外へ出た。

 ついてこい、ということだとレンリは理解して、慌てて立ち上がった。


 外に出ると、もう日は沈んでいた。

 リーファが杯をかかげ、月の光にそれをかざす。

 

 そうすると、月明かりが葡萄酒を透かし、半透明の杯が光を帯びる。

 翡翠の盃が夜光杯と呼ばれている理由はここにあった。


「きれいなものでしょう?」


 レンリが問いかけると、リーファは静かにうなずき、そして歌うように詩を口にした。


「葡萄の美酒、夜光の杯。飲まんと欲して琵琶、馬上に催す」


 リーファが詠んだのは、数十年前の詩人オワンの詩の半分だった。

 そこでリーファが言葉を切る。


 レンリはリーファの意図を察し、続きを読み上げた。


「酔うて沙場に臥すが、きみ笑うなかれ。古来征戦 幾人か帰る」


「いい詩ですよね」

 

 リーファがしみじみと言う。


 辺境の地に駐屯した軍人が、名物の葡萄酒を飲み、明日戦場で死ぬかもしれないのだから、酔っ払うことを許してくれよ、と歌ったのがこの詩だった。


 これは詩人オワン自身が左遷されて、北辺大都督府の武官になったという体験を反映している。

 偉大な詩人ハクリが無数の素晴らしい詩を遺したのと比べて、オワンの詩で世間に知られているのはこれだけだった。


「レンリさん。尚書令トーランたちは北夏への遠征を計画しています。それも遠くない時期に」


「北夏へ、ですか?」


 リーファはうなずいた。

 北夏といえば、現王朝が樹立されたとき以来、帝国に従属する部族だった。

 

 帝国北西にある北夏はかなり帝国の文化・文明を取り入れていて、独立国の体裁をなしていた。

 前王朝時代は帝国の直轄地であった北雲十六州を占拠さえしている。


 それだけでなく、現王朝の初代皇帝は内地統一を優先して北夏の協力を仰いだ。

 そのため慰撫という名目のもと、北夏に毎年莫大な額の財貨の納入を行い、それが今も続いている。


「トーランたちは失われた領土を取り戻し、毎年の財貨の支払いをやめるつもりです」


「大戦争になりますね」


「はい。そして、北辺大都督府にも動員がかかるでしょう」


 尚書令トーランは貴族派の筆頭大臣だ。

 その彼が北夏への遠征を計画しているという。


 しかし、衰退した帝国の国力では、北夏を征服するなど不可能のはずだ。

 トーランは欲の強い人物だが、同時に現実的な政治家でもあると聞いている。


 なら、トーランにはなにか北夏に勝つ秘策があるのかもしれない。

 レンリはリーファに尋ねたが、リーファも、その師のセレカもその点はわからないようだった。


「セレカからの伝言です。『死なないで』と」


 レンリはうなずいた。

 そっとリーファはレンリの手を握った。


「レンリさん。きっとあなたは私の力になってくれます。私は英雄になりたいのですが、その前にならないといけないものがあります」


 レンリはリーファの言おうとしていることに感づいたが、あえて言葉にはしなかった。

 まっすぐにリーファはレンリを見つめ、静かに言った。


「私は皇帝になるつもりなんです」

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