第3話 となりにいさせて

 それからも、綾さんは足が悪いにも関わらず、何度か僕に会いに来てくれた。

 見知らぬ街に放り出された僕にとって、綾さんと過ごす時間はなによりの救いだった。


 会えば会うほど、綾さんへの想いはいっそう募っていく。


 そして、イチョウの葉が明るい黄色に染まりはじめた十月。ついに、僕は綾さんに告白した。綾さんが教えてくれた、おしゃれなカフェでの出来事だった。


「綾さん。今日は大事な話があります」


 綾さんが不思議そうに首をかしげる。


「なんでしょう?」

「僕と……付き合ってくれませんか?」


 人生ではじめての告白だった。


「綾さん、以前言ってましたよね。大学に行って、青春を取り戻すんだって。その青春の一ページに、僕も入れてくれませんか?」


 上手な告白だとは思わない。けれども、精一杯の、真剣な気持ちは伝えたつもりだ。

 少しの間があって、綾さんが口を開く。


「私のことが好きなの?」

「はい」

「どんなところが好きなの?」

「優しいところとか、親切なところとか。見た目の可愛らしさも含めて、全部」


 答えながら、顔がカアァッと熱くなる。

 綾さんの猫のような丸い目が、僕の本気度を見定めようと、さらに鋭く光を増す。


「ほんとうに私でいいの? 私、きっとたくさん迷惑かけるよ?」


 きっと身体のことを言っているのだろう。

 僕ははっきりとした声を返した。


「大丈夫です。むしろ支えてあげたいです」

「あまり歩けないし、行動範囲も狭いよ」

「かまいません。綾さんがそばにいてくれたら、それだけで」

「ちなみに私、オタクだよ?」

「それも大丈夫……えっ?」


 きょとんとする僕を見て、綾さんが吹き出した。


「あはは。考えてもみてよ、ずっと外に出られなかったんだよ? 本を読むか、ゲームするくらいしかないじゃない」

「ゲームなら、僕もやります」

「そうなんだ。じゃあ、今度律くんのおうちにお邪魔してもいい? 一緒にゲームしようよ」

「それって……」

「こちらこそ、よろしくお願いします。律くん」


 綾さんがうやうやしくおじぎをし、ふたたび顔を上げ、目を細める。

 嬉しそうな、温かい笑顔だった。

 それから、綾さんはスマートフォンを取り出した。


「ねえ、律くん。写真撮ってもいいかな?」

「いいですけど、なんでです?」

「私たちが付き合いはじめた記念に、ね」

「そういうことなら」


 ぱしゃり。

 綾さんがピースする自撮り写真に、僕も写りこむ。


 こうして、僕たちの交際がはじまった。






 実際に付き合ってみると、綾さんの生活は、僕が思っていた以上に大変そうだった。

 綾さんは、両足があまり開かないだけでなく、膝もあまり曲がらなかった。


 たとえば、椅子に座ることはできても、机などに手をついて身体を支えながらでないと、立ち上がることができなかったり。

 床に落ちたものを拾う時も、壁に手をついて身体を支えないと拾えなかったり。

 荷物が多い時には、キャスターのついたショッピングカートを引いてきたりもした。重い物を持つのが辛いのだ。


 靴をはくのでさえ一苦労で、


「ねえ、律くん。柄の長い靴ベラってないかな? もしあったら借りたいんだけど」


 僕は慌てて買いに行ったりもした。


 それから、僕が甘く見ていたものが、もう一つ。

 綾さんのゲーム愛、もとい推しへの愛は、予想をはるかに越えていた。


 彼女は男性アイドルキャラの育成ゲームにはまっていて、中の人(声優さん)たちのオンラインライブも必ずチェックする熱の入れようだった。


「この間のライブも、控えめに言って最高だったわ! 分かる? 声優さんがステージに立っているんじゃないの、そこに雪斗がいるの! 王子様みたいな衣装を着て、もう、そこでウィンクしちゃいますか~って感じで!」


 瞳をキラキラと輝かせ、興奮ぎみに早口でまくしたて、「ありがたやー」と手を合わせてなにかに拝みはじめる綾さん。


「あの、綾さん……雪斗ってどなたでしょう?」


 綾さんが無自覚に僕の嫉妬心をあおってくるので、雪斗について夜中に調べてしまった。

 彼氏として、綾さんの好みを知っておくことは、けっして悪いことじゃないよね。






 今日もバス停まで綾さんを送っていく。

 バス停までは、僕の足ならほんの二、三分で行けてしまう。でも、綾さんでは七、八分はかかるだろう。


 ゆっくりと歩を重ねる僕たちの横を、素知らぬ顔をした人たちが忙しそうに通り過ぎていく。

 母親に手を引かれたよちよち歩きの幼い子でさえ、僕たちを不思議そうに見上げ、追い抜いていく。


「足のこと、お医者様はなんて言っているんですか?」


 ふと、疑問をぶつけてみた。

 僕は、綾さんが抱える障害について、まだ詳しくは聞かされていなかった。


 綾さんのことだから、聞けば教えてくれたかもしれない。けれども、綾さんがどんな気持ちになるのか想像ができなくて、踏みこんだ質問をするのはどうしてもためらわれた。


 とはいえ、まるで鉛でも引きずるかのような綾さんの足取りを目の当たりにすると、さすがに心配になる。


「これ以上悪くなるようなら手術だけど、今のところは大丈夫だって」

「十分悪そうに見えますけど」

「でも、ほら、自分の足でちゃんと歩けてるじゃん。だから大丈夫だよ」


 そういうものなのか。

 もしかしたら、病状がさらに悪化して、車椅子に頼らざるを得ないような生活が待っている可能性もあるのかもしれない。

 その時は、僕が力にならなくちゃ。


「いいよ、律くん、先に行っても」

「それじゃ送る意味がないじゃないですか。となりにいさせてください」


 僕は腕を伸ばすと綾さんの手に触れ、ぎゅっと握った。

 彼氏になれたとはいえ、僕にはとても勇気がいる行為で、心臓がドキドキと高鳴って胸が痛いくらいだ。


「そんなに私のとなりにいたいの? しょうがないなあ」


 綾さんは僕を拒否するどころか、柔らかい手でそっと握り返してくれた。


 たちまち、僕の心にポッと明るい火が灯る。

 僕は、こうして綾さんと一緒に歩けることが嬉しかった。


 もし、綾さんとゆるやかな歩みを共にしていなければ、僕は大切なものをたくさん見落としていただろう。

 街の景色はもっとせわしなく過ぎ去っていただろうし、道のわずかな凹凸にも、冷たい風のそよぎにも気づけなかったかもしれない。


 そして、人の気持ちにも。


 綾さんと出会わなければ、僕はきっと人の表面にばかりに目を向けて真実を知ろうともせず、綾さんのような辛い体験をした人たちの気持ちも分からずに、自分中心の狭い世界を生きていたにちがいない。


 だから、僕に多くを気づかせてくれた綾さんには、感謝してもしきれない。


 綾さんが僕を見上げる。頬がほのかに赤く色づいていた。


「律くんの手、温かいね」

「綾さんもです」


 バス停までの道を、綾さんと並んで歩く。

 ただそれだけで、僕の心は満たされていく。

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