第2話 祖父の死

 まずは、卯月家の大黒柱だった祖父についてお話します。


 祖父は十代の頃から55歳の定年――昔は定年が55歳でした――まで、地元の造船会社で働いていたそうです。


 戦時中、戦後という時代背景もあるのでしょうが、当時の造船会社と言えば、それはそれは羽振りが良かった。

 何せ、太平洋戦争で軍艦の製造も任されていたような造船所ですから。あまり詳しく言うと、特定されてしまいそうですが……(笑)


 艦艇を作る会社として有名で、今は自衛隊の自衛艦を手掛けているとか。

 戦争時代は軍港、軍事基地もありました。


 日本初ディーゼルエンジン搭載艦の建造!

 戦後日本初の鋼製輸出船を竣工!

 世界初の大型自動化船が進水!


 ――などなど、他にもあります。

 とにかく(もちろん「当時」の話であって、今はかなり寂れています)世界初、日本初のオンパレード。


 そんな会社を、日本が高度経済成長を終えた時代にサッと定年退職した祖父。


 祖父の退職金は当時の――逆算すると、恐らく1970年頃――3000万円程度。

(今の物価に換算すると、どうなんだろう。1971年に1ドル360円から308円まで下がってしまったらしいですけど)


 更に、退職したのちはペン習字の講師として教室を開き、ある日オートバイで事故を起こすまで、お金を稼ぎ続けました。


 お陰で卯月家は、ましろ出生当時、比較的裕福な部類だったのではないかと思います。




 ペン習字の教室帰りのある晩。

 祖父は信号待ちで停車中、速度を落としてやって来た後続車に、コツンと優しくカマを掘られただけで――果たして、オートバイも「カマを掘られる」という表現で合っているのか――バランスを崩して転倒。


 擦り傷で済むようなレベルの接触だったのに、運悪く頭から着地したせいで、脳に重度の障害が残りました。

 以降、寝たきりで言葉を発する事すらほとんど出来なくなったのです。


 ただ、こちらが話しかけると、何かしらの反応は見せてくれました。調子が良い日には人の顔を判別して、言葉を紡ぐことも……。


 しかし、やはり記憶や意識に重度の障害があったのか、言っていることは支離滅裂でした。


 病院へお見舞いに行ったら、何もない壁を指差して「ましろ、そこに虫取り網があるから、何か採っておいで」と、呂律ろれつの回らない舌で言われたこともあります。


 喋ってくれるのを嬉しく感じて、言ってることがメチャクチャで怖くて、子供ながらに複雑な思いを抱えていました。


 祖父の入院中は、幼稚園終わりに毎日お見舞いへ行っていた気がします。


 そうして頭の傷が完治したあとは、病院側から「このまま入院していても、意識レベルが快復する事は二度とない」と説明を受けました。

 それ以降は老人ホームを利用するようになります。


 あまりよく覚えていませんが、祖父の介護は施設のプロに任せきりだったように思います。


 母も祖母も専業主婦で、小遣い稼ぎにもならないような内職――友人の家業のお手伝いで、ほぼボランティアみたいなものでした――をしていたぐらい。つまり、ずっと在宅だったのです。


 ましろ兄弟も3人同じ家で暮らしていて、就労しているのは父1人のみ。

 それだけ人手があったのに、「在宅介護」という選択肢はひとつも考えなかったのでしょうか。


 素人が在宅介護するなんて考えられない時代だったのか、それとも――今となっては、聞ける相手が居ません。



 入院中は毎日母に手を引かれて見舞っていたのに、施設に入った途端、祖父の顔を見る機会はめっきり減りました。


 思えばこの頃から既に、母の異変は始まっていたのでしょう。


 当時5歳のましろからすれば、あれだけ毎日顔を見ていた祖父が、急にどこかへ消えてしまったような感覚です。

 老人ホームがなんなのかすら分からず、消えた祖父とはもう、気軽に会えないのだと諦めていました。実際、もう生きた祖父と会う事はありませんでした。


 でもそれが悲しかったのかと言えば、家族の誰も「爺ちゃん」と口にしなかったため、どこかで「そうか。会えなくて当然なんだ、仕方ないんだ」とも思っていたのです。

(私の精神の異常性、世界が自分の内側で完結した感覚や流されやすさについては、また別話で詳しく語ります)


 そもそも私たちが見舞っている時にも、家で祖父の話題はほとんど出なかったのです。「今日も元気だったよ」ぐらいですね。


 生きてるなら良いだろう、誰かが見てるなら良いだろう。そんなところでしょうか。

 そうして久々に家で「爺ちゃんが」と聞いたかと思えば、その後に続いた言葉は「死んだ」でした。




 祖父は、ましろが5歳の年に永眠しました。

 食事中、施設職員の方がほんの少し目を離した隙に、誤嚥ごえんで窒息死したそうです。


 祖父は働き者のお金持ちで、物静かで滅多に喋らないけれど、孫に優しかった。

 そして、字だけでなく絵まで上手な人でした。


 絵を描いてと頼めば、写実的なウサギの絵をお手本も見ずに、手癖で描いてくれたこともありました。


 今となっては、あの絵を大事に取っておかなかったことが悔やまれます。


 キャンバスは私のお絵描き帳や、チラシの裏。

 鉛筆1本で描かれたウサギは、今にも動き出しそうな躍動感とふわふわの毛並みで、黒目だって生き生きしていました。


 描き方も独特で、輪郭をとって~とか頭から描いて~とかではなく、まるでワープロやプリンターを使って、ハガキに絵を印刷するような画法でした。


 全体のバランスを見ながら線をシャッシャッと重ねれば、鼻先から尻尾まで順に、ウサギの絵が浮かび上がるのです。


 造船会社で働きながら毎日設計図を眺めていたので、空間認識能力が鍛え上げられていたのかも知れません。

 きっと、頭の中に答えがあったのでしょう。どう重ねれば完成形になるのか、どう線を置くべきなのか。



 なにぶん5歳の時に亡くなっているため、祖父の思い出と呼べるものは少ないです。


 ただ、同居しているにも関わらず、孫の顔を見る度に500円玉を1枚渡してくれた――というイメージが強く残っています。


 孫の中でも唯一の男児だった「ましろ兄」が大変お気に入りで、兄とセットで過ごすことの多かった私もまた、おこぼれに預かっていたのです(笑)


 濃い緑色の、日本酒の一升瓶。

 そのボトルネックのすぐ下まで、500円玉だけギッシリ詰まっていたのを覚えています。

 総額いくら入っていたのでしょう……斬新な500円玉貯金箱 (?)ですね。


 スーパーカブ(オートバイ)の座席の上で、祖父の片腕に抱えられながら、家の周りを連れ回してもらったこともありました。

 ――これは道路交通法違反のオンパレードですから、絶対に真似をしないでください。


 ちなみに私は、近所の神社に駐車するぞ~と言う時に、車体ごとバランスを崩して祖父と一緒に転倒。

 膝やら肘やらズル剥けの血まみれになるという、天罰をくだされています。


 それ以降すっかりオートバイに怯えてしまい、もう二度と祖父と2人乗りすることはありませんでした。


 あとは――自宅で酩酊したまま寝て夜中に目覚め、下駄箱をトイレと勘違いしていました。必死に下駄箱へ入ろうとしていた姿が、すごく印象的です。


 もちろん下駄箱の中に人が入れるはずもなく、「入れん! オイ、入れんぞ!」と夜中に喚いていたのは、少し怖かったですね。


 時たま父にもそういった面が見られて、子供ながらに「酔っ払いにだけは、なりたくない」と思ったものです。




 そんな祖父が亡くなって、卯月家には次から次へと大金が舞い込みました。


 正確な額を聞かされたことはありませんが、恐らく多額の死亡保険と――もしかすると、老人ホームを訴えるか何かして、慰謝料を受け取っている可能性もあります。


 もちろん、祖父のカマを掘った方からも、多額の慰謝料を受け取っています。

 この額についても聞かされないままに、当時の家計状況に詳しい者は、みな死んでしまいました。


 ただでさえ祖父の貯蓄、遺産が多い中、外的要因で何千万とお金が舞い込んで来たら――。


 よくキャバ嬢やホストが「こうして大金を稼ぐ方法を知ったら、普通の仕事、生活には戻れない。金銭感覚がおかしくなる」なんて言いますが、我が家の場合はもっと深刻です。

 なんの努力もせずに、ただ生きているだけで大金を手にしたら、やはり人は狂います。


 それは金銭感覚だけでなく、きっと精神面にも言えることでしょう。

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