第191話:財布が無い!

 それは肌寒くなってきたある日の出来事です。

 我が家のリビングでは、兄のアレクサンドルがテレビのラーメン店の特集番組を熱心に観ていました。


「いいなぁ~。なぁ、ジェル。ラーメン食いに行こうぜ!」


「えぇ? めんどくさいですよ。外は寒いですし」


「お兄ちゃんが奢ってやるからさぁ。寒い日に食うラーメンは美味いぞ~?」


 アレクが奢ってくれるなら、まぁ行ってあげないこともないかなぁなんて思ったのですが。

 隣に座っていたテディベアのキリトがワタクシを茶化したのです。


「ジェル氏は奢られてばっかりでありますね。お金無いんでありますか?」


「失敬な、ワタクシは別に施しを受ける必要なんてありませんよ。そうですね……たまにはワタクシが支払いをして差し上げてもいいですけど」


「やったー! じゃあラーメン食いに行こうぜ!」


 なんだかまんまと乗せられてしまったように思いますが、仕方ありません。

 ここはワタクシの度量の広さを知らしめる良い機会でしょう。


 キリトはぬいぐるみなので飲食ができませんから、アレクと二人で出かけることになりました。

 現在、午後七時半。ひんやりとした風が吹く中、ワタクシ達はラーメン屋へと向かったのでした。


 アレクが行きたがったのは、徒歩圏内にある小さなラーメン屋です。

 ちょうど夕食時なこともあり、店の前には行列ができています。


「面倒ですねぇ。店ごと買い取ったら並ばずに済みますかねぇ?」


「どんだけ並びたくないんだよ。ラーメン屋始めた友達が初期投資だけで1千万かかったって言ってたぞ」


「まぁ飲食店ならそんなもんでしょうねぇ……しょうがない、並びますか」


 渋りつつも列の最後尾に並び、二十分ほど待ったところで店内に入ることができました。


「思ったよりも回転が早くてラッキーだったな」


「そうですね。さぁ、今日はワタクシが特別におごりますから、遠慮なく好きな物を注文するといいですよ!」


 テーブルに座るとアレクは目をキラキラと輝かせながらメニューを眺め、大盛りのチャーシュー麺と餃子を注文しました。

 ワタクシもせっかくなので普通のラーメンに味玉を追加しましょうか。

 普段ラーメン屋に来る機会なんて、まずありませんからね。

 五分と待たずに注文した品がテーブルに並び、あたたかな湯気を立てました。

 食欲を誘う鳥がらスープの香りに、口の中に唾がたまるのを感じます。


「じゃあ、食べますか」


「おう! いっただきまぁ~す!」


 ラーメンはなかなかに美味しく、ワタクシの方が量が少ないので先に食べ終わりました。

 そして口を拭こうとポケットの中のハンカチを探していて、大変なことに気付いたのです。


 ――財布が無い。


 そういえば昨日、自室の机の上に置いたままにしていたのを思い出しました。

 奢ると言ったのに財布が無いなんて、なんという失態でしょう。

 いや、でもこの事はまだアレクに知られていません。今ならごまかしがきくということです。


「あの、アレク……えぇっとまぁ、ワタクシいろいろ考えたんですが。いえ、別に支払いたくないとか、そういうのではないんですけども、ここは特別にアレクに支払わせてあげてもいいかもと思うのですが」


「なんでだよ」


「もともと今回はアレクが誘ってきたわけですから、やはり兄の顔を立ててあげるべきかと思い直しまして。だから今回はアレクに支払わせてあげます」


「えー、ゴチになる気満々で来たのに。何が支払わせてあげますだよ。本当しょうがねぇなぁ……」


 アレクは、ぶつくさ言いながらもポケットを探って、急にハッとした顔をしました。


「……わりぃ、財布、リビングのテーブルの上に忘れてきたわ。すまん、あとで返すからここはジェル払ってくれ」


「えっ、アレクもですか⁉」


「もしかしてジェルも財布ねぇの? それでよく上から目線で言えたな」


 ワタクシ達は顔を見合わせると、二人そろって「うーん」と唸りました。

 ここはなんとか協力してやり過ごさねばなりません。


「財布を召喚できねぇか?」


「物を召喚するには条件づけする為の根回しがいろいろ必要ですし、魔法陣も特殊で何も見ずに書くのは難しいですね」


「どうするよ……キリトに電話して財布もってきてもらうか?」


「テディベアが街中を歩いてたら騒ぎになるでしょうし、それはちょっと……」


「だよなぁ。じゃあ宮本さんを召喚して金貸してもらうか?」


「店内に骸骨が出現したら騒ぎになりますよ」


 アレクは「それもそうかぁ……」とつぶやきました。八方ふさがりとはこのことでしょうか。

 さらに間の悪いことに、店員さんが「空いている食器をお下げします」とやってきたせいで、テーブルの上は水が入ったコップがあるだけになってしまいました。

 これは気まずい。

 他にテーブルの上にある物はメニューとお客様アンケートの用紙の束とボールペンだけです。


「おい、ジェル、このボールペンで魔法陣を椅子に書いて転送魔術で脱出しようぜ」


「サイズ的に無理ですよ。それに食い逃げは犯罪です」


 店員さんがこちらをちらりと見て近づいてきます。

 もしや「食い逃げ」のワードに反応したのではないでしょうか。


「追加注文よろしいですか?」


「あ、えーっとビールと餃子をもらおうかなぁ……」


 とりあえずアレクが注文したことで店員さんの視線はそれたので、ワタクシ達は大きく息を吐きました。


「で、どうする?正直に言うか?」


「それで警察呼ばれるといろいろ面倒ですよ」


「俺たちもキリトみたいに小さかったら逃げ出せるのにな」


 アレクが運ばれてきたビールを片手に冗談を言います。


 ――キリトみたいに小さかったら……。


「あ、そうか。キリトなら魔法陣が小さくても通れるんですよね」


「どうしたんだ、何か良い案でもあるのか?」


「えぇ。まぁアレクは餃子を食べながら見ててください」


 ワタクシはアンケート用紙をつなげて裏の白紙にボールペンで丁寧に魔法陣を書きました。

 幸いこの席は一番奥の席なので、ばれないでしょう。

 そしてキリトに電話をして、アレクの財布を持って待っているように指示しました。


「この小さな魔法陣は、ワタクシ達は通れませんけどもキリトなら通れます」


 小声で呪文を唱えると、無事に魔法陣から財布を持ったキリトが召喚されたのです。


「え、急になんでありますか⁉」


 こうして、無事にアレクの財布で会計をすることができました。


「いや~本当にまいったぜ。次こそは奢ってくれよ?」


「えぇ。次は財布を忘れないようにしたいですねぇ」


 ラーメンは美味しく食べられたのですが、追加注文した餃子とビールの味がしなかったとアレクは後に語るのでした。

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