第83話 そこにただ一つの慈悲も無く。


 (地面に……伏せろ…………?)


 殆ど回らない思考の最中に、エイガの言葉が復唱された。そんな真似をしたならば、シヅキ達は完全に縛られることとなる。縛られる……つまり、存在を含めた全てを目の前のこいつに委ねることとなるのだ。


 エイガは小さく嗤った後に、話を続ける。

 

「したらこの女解放するっすよ。いやぁ、マジっすから。従ってくだせーよ」


 (いや……ダメだ。それは悪手にもほどがある)


 シヅキはそう思った。エイガの言葉が本当である保証なんてどこにも無い。彼の言葉に従うことはあまりにもリスキーが過ぎる。


 だからシヅキは、大鎌を握るその手に力を込めた。身体の震えが大鎌にまで伝わっている。刃先がブレて仕方なかった。緊張感のせいで、時折自分が何を握っているのか分からなくなる。


「…………シヅキ」


 そんな状態だったから、酷く近い距離から声をかけられたことに、身体は大きく跳ねた。


「何やってんだよお前…………はやく…………はやくソレを仕舞えよ」

「……え」

 

 極度の緊張でブレる視界を声の方向へと動かした。そこにはアサギの姿が。驚いたことに、彼の手にはもう何も無かった。ただその大きな背中をひたすらに小さく、小さく縮こまらせてこちらのことを見ていたのだ。


「アサギ……お前……」


 アサギはその震える声で言葉を重ねる。


「サユキが……このままだと……ころされちまう……武器を捨てねぇと……サユキが……サユキが……!」

「ま、待てアサギ…………れ、冷静に――」

「シヅキ!!!!!」


 先ほどエイガに放ったものと同じ怒号が、今度はシヅキへと飛んだ。


 アサギの様子は尋常ではなかった。ついさっきまで怒りに染まっていた表情が嘘のように、今度はすっかりと青ざめていた。変色した唇がぶるぶると震えている。眼球がこぼれ落ちてしまいそうな程に見開かれていた。肩が大きく隆起している。呼吸が荒い。汗がダラダラとこぼれ落ちている。手足の痙攣が酷い……今に倒れたっておかしくはない。


 メトロノームのように、前後へフラフラと振れるアサギ。彼はゆっくりとその顔を上げると、しゃがれきった声でこう吐いたのだ。


「頼むよシヅキ。おれは……おれの前では……誰も……だれ……も……」


 心からの、心の奥からの嘆願である……シヅキはそのように感じてしまった。ソレはもう、“アサギ”とは異なるモノに取り憑かれてしまったかのようで。そんな様子で。 ……コレはなんと形容するのだろうか? シヅキの頭の先端に一つの単語が滲みよどんだ。


 (呪い……)


 

……………………。


 

 次に気がついた時には、シヅキの手から大鎌が無くなっていた。外的な要因ではない。確かにそれはシヅキのだった。間も無くして、彼の身体は呆気もなく崩れ落ちてしまった。うつ伏せとなり、震える手を背中で噛み合わせた。 ……もうシヅキは、考えることを放棄していたのだ。


 間もなくして頭上から軽蔑の混ざった嗤い声が降ってくる。


「あァ、いー子ちゃんすね。そう。それでいーんすよ。本当に、本当にいー子ちゃんっす」


 ズザザと土を蹴る音が聞こえる。シヅキはその顔を恐る恐る上げた。 ……エイガと眼が合う。冷め切った彼の眼が簡単に貫いた。


「あァ……本当に」


 エイガは口元を歪ませるようにして嗤った。


 

「本当に…………………愚かだ」



 ズシュ




 ………………。


 ………………。


 

「……………………え」


 何が起こったのか、何が起こってしまったのか。脳が拒む。理解を拒む。現実がシヅキを置いていく。 ……そのままで居られたなら幾分もマシだったろう。


 その声がシヅキを引き戻した。


「サユキいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!」


 決してソレはホロウが出せるようなモノではなかった。さながら怪物のようなその声は、ひたすらに彼女の名を呼んだ。


「サユキ……サユキが……………!! サ、サユキがぁぁぁあ゛あ゛…………!!!」


 アサギの、慟哭。慟哭が響く。何度も、何度も彼女の名前を呼ぶ。そんなアサギに、エイガはゆっくりと近づき、彼に肉薄した。


 そして、呟いた。

 

 

、壊れちまったっすね。今ラクにしてやるよ」

「サユキ…………サユ……………………………………………………キ」


 

 アサギの声が止んだ。もう声は出せなくなっていた。だって、その首を、鋭利な刃物が貫いていた。そこにただ一つの慈悲も無かったのだ。


 

「……………………………………………………ぇ?」


 

 エイガが喋った。取り残されたシヅキに向かって喋った。



「懐いっすね。“絶望”から救助した時みたいじゃねーっすか? シヅっちさぁ」



 ニッと笑う彼の後ろでは、アサギとサユキの亡骸まそが、空気に融けつつあった。 ……ゴミみたいな光景だった。



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