第26話 水曲




 少年——と呼ぶにはまだ幼い、どちらかと言えば幼児と呼ぶ方が似合いの年頃の男の子が、屋根を突き破るような勢いの豪雨の中を歩いている。

 俯いた顔は雨でびしょ濡れだが、誰かが顔を覗き込んだなら、その大人びた表情にハッと息を飲んだことだろう。そんな男児が、たった一人で豪雨の中をさまよっている。


 異様な光景なのだが、それを見ている者は誰もいない。昨夜から降り続いている雨が道路に浅く水を張っている。マンホールからがぼがぼと水が溢れている。まるで、自分の再来を歓迎しているようだと、男児はわずかに口の端を歪めた。


 ずっと小さい頃から、その身に宿ってきた記憶がある。


 その意味がはっきりと理解できたのはいつだったろうか。一年前、二年前か。


 そして、己のやるべきことを明確に思い出したのは昨夜だ。

 強い雨の音が、彼の記憶の壁を叩いた。雨の音。水の音。そう、水だ。


 再び、水と共に歩む運命が始まった。——いや、気づいていなかっただけで、水は常に自分の中に流れていたのだ。


 男児は足を止めて、道路の向こうに流れる川を見た。普段は穏やかに流れている川が、土色の濁流となってうねっている。

 男児は迷うことなく土手を下って、川の淵に立った。水飛沫がかかり、男児の頰や手を泥で汚した。


 自分を誘っている。そう思った。


 試しを受けろ。己の運命を証せ。


 濁流がそう要求してくる。


 それに応えるために、男児は小さな足を氾濫する川に突っ込んだ。強い力で引っ張られ、幼い体はあっという間に大量の水の中に引き込まれた。


 男児を飲み込んだ川は、何事もなかったかのように荒々しく流れ続ける。空から降りしきる雨粒も、川に落ちて濁流の仲間となる。

 川の高さはやがて土手を超えて道路へ流れ出しそうだ。雨の勢いも川の勢いも、衰える気配はない。


 だが、荒れ狂う川の真ん中で、太い流れが不意に不自然に横に逸れた。

 新しく押し寄せてくる水流も、ある一点で急に曲がって流れを変える。何も遮るものはないはずなのに、その一点を避けて水が流れる。

 蛇行する流れはどんどん大きくなっていき、その部分にだけ空間が生まれていく。

 最後に大きく水が跳ね上がって、そこに立つ者の姿を現した。


 川が割れ、地面が現れたその場所に、しっかりと足をつけて少年は立っていた。

 まだ幼い、幼児とも呼べる年齢の男の子が、自分の背よりも高い水の壁に囲まれて佇んでいた。


 少年が一歩足を踏み出すと、水の流れはその動きに合わせて曲がり、うねり、少年の体を避けて流れ続けた。


 少年が土手に上がると、途端に水の壁は崩れ、流れは自然に戻る。再びまっすぐに流れ出した濁流に向き直り、少年は拳を握り締めた。


「……証したぞ」


 己の記憶の正しさを。

 己に宿る力を。

 己の運命の確かさを。


 少年は、証した。


「俺は、ここにいる!」


 少年は両の拳を空に向かって突き上げて、喉を振り絞って叫んだ。


「皆の者! 俺はここだ! 源頼朝はここにいるぞ!」


 己の名を名乗った瞬間、少年の頭上で雷鳴が轟き、雨が一層強くなった。


「俺は蘇った! 八百年前の約束を果たすために!」


 少年には確信があった。この声は、仲間達に届いているだろうと。

 聞こえてはおらずとも、水の御霊が使われた気配に気づくはずだ。その身に御霊を宿す者であれば、必ず。


「源氏の強者どもよ! 再び我が下に集え!!」


 それは即ち、源頼朝が蘇ったことを、平氏の連中にも知らせることになる。今、この瞬間、平清盛は最大の敵が再び現れたことを知ったはずだ。


 だが、それでいい。この瞬間から、源氏と平氏の戦いは再開されるのだ。


 頼朝の脳裏に、生まれてからこれまでの短い思い出が過ぎる。源頼朝としてではなく、普通の子供として生きた日々。


 もうあの日々は戻らない。六年間毎日呼ばれていた名前は、濁流に身を沈めた瞬間に捨て去った。もうあの家に戻ることもない。

 これまで六年間生きてきた自分は、雨の夜に外に出て行方不明、という扱いで葬られるだろう。それでいい。自分は六歳の男の子ではない。源氏の頭領、源頼朝なのだ。


「源頼朝はここにいるぞぉぉぉっ!!」


 強い雨が降っていた。


 現世に生まれ変わった源頼朝が、本当の意味で蘇った夜のことだった。


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