第035話 寛大なる山の主(第三者視点)
岩に囲まれた開けた場所に巨大な獣、獣の王である山の主が横たわっていた。
とてもきれいな毛並みのフサフサの茶色と白の毛が縞々模様を描き、頭には三角形の耳が二つついていて、その顔は百獣の王と呼ばれる生物に似ている。
しかし、その表情は苦痛に歪んでいた。
ここは獣の山と呼ばれる数多の種類の獣が暮らす山の頂上。
「ガオゥ……」
引っ越しのあいさつにも来ない無礼者を脅かしてやった日から約一週間、ようやくほぼ治ってきた自分の前足をぺろぺろと舐める。
あれだけ小屋を殴って音を立ててやったのだから、無礼者もさぞ怯えていることだろう。
山の主はそんな風に心の中で痛みを堪えながら強がっていた。
実際には小屋の内部には全く音も振動も伝わっておらず、ソフィが少し気配を感じて一瞬目を覚ましただけだという悲しい現実を山の主が知る由もない。
山の主には肉体の高い再生能力が備わっているため、破壊不能の壁を殴ったことで指がべこべこにひしゃげてしまっても、正常な状態まで回復する。
それでも治るまで一週間もかかるほどにはぐちゃぐちゃになってしまったのだが、山の主は気にしていなかった。
いや、それは嘘だ。
実は気にしていないふりをしていた。本当はものすごく痛いし、音や振動で怖がらせることはできたと思うものの、自分の攻撃で一切破壊できないあの小屋が恨めしく、無礼者達がどのような表情だったのかを確認出来なかったのは不満だった。
山の主が痛みを誤魔化すために手を舐めながら思い出すのは、無礼者のことばかり。手も治ってきたので、次こそは小屋の外に出てきたところを狙って驚かせてやろうと思案する。
しかし、正面から向かうのは自身と近しい力を持つ高位古代竜がいるのでは分が悪い。
「ガオガオッ」
仕方あるまい。高位古代竜が離れるまでは手を出さないでやるとするか。
そんな風に山の主はつぶやいた。
完全に臆病風に吹かれただけであった。山の主が聞いてあきれるが、それを指摘するような存在はここにはいない。
「ウォーンッ」
養生しながら物思いにふける山の主の元に、一匹の銀色の毛並みの狼が大急ぎでやってくる。親分とでも叫んでいるような鳴き声だ。
この銀狼はこの山に住む一つの獣の種族の族長であり、山のパトロール隊の隊長でもあり、山の主との連絡役でもあった。
銀狼が来るなり、痛む前足を舐めるの止めて佇まいを正し、威厳のある姿勢をとる。山の主は配下に弱った姿を見られたくないのだ。
「ガオッ」
山の主は急いでやってきた銀狼に対して、短く「どうした」と尋ねた。
「ウォウォンッ。ワフワフッ。ウォンッ」
その銀色の狼はここにやってきた理由を説明する。
狼によれば、かなり久しぶりにこの山に侵入してきた存在がいるという。興味を持った山の主が感覚を研ぎ澄ませると、狼の言う通りにこの獣の山に入ってきた気配を感じた。
そしてそれは一度感じたことのある気配であった。
「グオンッ」
その気配に獣の王は口端を釣り上げて笑うように小さく鳴く。
感じられる気配はたった一つ。それは高位古代竜とは別の小さな存在。いわゆる人間という種族のもの。つまり、無の大地に引っ越してきたアイギスのものだということを把握したのだ。
高位古代竜が彼のそばには居らず、無の大地にいるのを確認し、今ここには完全にその人間しかいないことが分かったので笑ったのであった。
今こそ無礼者に世間の厳しさを教えてやる千載一遇のチャンス。
しかし、その人間がここに来たということは、殊勝にも自分に挨拶しにきたということ。
引っ越してきてから随分と経ったわけだが、何もないところに住み始めたばかりで色々あったのだろうし、今自分がいる場所まで供物をもってあいさつに来るのであれば、その心掛けに免じて、寛大なる山の主である自分は、少しだけ手加減してやってもいい。
山の主はアイギスに直接対峙するまでは、そんなことを考えていた。
「ウォン?」
銀狼はなかなか指示を出さない山の主に「どうしますか?」と判断を仰ぐ。
いつもであれば、食い殺してしまうところだが、アイギスのただならぬ気配を感じ取っていた銀狼は、念のために山の主に確認することにしにきたのである。
銀狼の族長は、山の主ほど突き抜けた強さを持ち合わせていないため、山の主と違い、慎重であった。
「ガオーンッ」
山の主はアイギスの動向を探るため、「しばらく泳がせろ」と指示を出した。山の主としては体力を奪うという意味合いもある。
驚かすのであれば、相手が弱っていることに越したことはない。最大の効率を狙うのだ。
「ウォーンッ」
「わかりました」と返事をした銀狼は、山の主の指示を群れに伝えるためにその場を辞した。
銀狼が去って再び一人になった獣の王。山の主はすぐにだらけ切った体勢に寝ころんだ。
「ガオン……」
再びまだ完治しきっておらず、痛みを発している指を「痛い……」と言わんばかりにぺろぺろと舐める。
そこには王という言葉が全く似合わない獣の姿があった。
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