【第2章】汝の愛すべき隣人

第18話 汝の愛すべき隣人

 7月初旬


 生き残りをかけたゲームが行われた6月を乗り越え、俺は現在、会社の月次決算真っ最中だった。

 本決算ほどではないにせよ、月次もそれなりに忙しい。

 口座の残高合わせから始まり、収益費用を確定させ、貸借対照表を固める。

 それと取引先からは請求書が大量に届くので、それを一気に処理する。


 営業部は各月の売上や支出データをもとに、今後の動き方を決める。

 そして上層部は全体的な数字をもとに、投資や経営方針を決めたりする。

 経理は、迅速かつ正確な情報提供を求められるので、責任重大なのである。

 とはいえ、営業部にも上層部にも数字に無関心な人間は一定数いる。

 そういう人たちはとにかく頑張るだけだ!と根性論を振りかざして、財務データに目もくれない。


 個人的には、そういう人はそれでも良いと思っている。

 人との繋がりで成り立っている部分もある営業は、データだけでなく気持ちが大事というのは経理の俺にも理解できた。

 しかし、結果を出している人間は、差はあれど皆数字に理解があるのも事実だ。

 最初のうちは、パッションで何とかなる事も多いかも知れないが、段々とそれだけでは通用しなくなってくる。

 相手がどういうことを求めており、何がボトルネックなのか分からなければ商談は先に進まない。

 そういうときに、金銭的な切り口は重要だ。


 相手がどれくらいの予算を持っており、自分の裁量権の中でどれくらい値を下げれば双方の利益が最大化されるか。

 金額を競合他社よりも下げれば相手は購入してくれるが、儲けは少なくなる。

 管理職であれば、部署全体でどれほど売れば良いか、何件から利益が出始めるか。

 金勘定のことで考える事は意外と多い。


 営業部の国木田課長も数字は苦手だと言っているが、課長だけあってかなり勉強している。

 原価や損益分岐点など、抑えるところは抑えつつ、パッションも凄い。

 故に上層部からの人望も厚く、俺も非常に尊敬している。


 つまり、俺の行っている業務の成果は、分かる人にはお宝となり、分からない人にとってはゴミでしかない。

 やりがいがあるんだかないんだか、非常に微妙な仕事である。

 少なくとも、クリエイティブな仕事がしたいと思っている人間には苦痛でしかないだろう。

 大学時代会計を齧って経理をやりたいと思っている人間だって、実際にやってみると合う合わないがハッキリ別れることだってあるのだ。


 ピタリとハマる人間はどこまでも楽しいが、合わない人間はとことん合わない。

 そんな仕事だと思う。

 少なくとも、「楽がしたい」と思ってこの仕事を選ぶと、少々危険かもしれない。

 それと「人から感謝されること」を仕事のやりがいと感じる人間は絶対やめておけ。

 大体どこの職場の経理も他部署からは「やって当然」「利益生まない」と思われてると聞く。

 あくまで、人から聞いた話だが…



 そうこうしているうちに、昼飯の時間だ。

 今日はサッさんと篠田と3人で一緒に食う約束をしていた。

 ちょっとした同期会だ。

 オフィスビルの入り口で待ち合わせをしていたので、俺は遅れないよう部屋の入り口にあるホワイトボードの自分の名前のところに「ランチ」と書き込むと、足早にエレベーターホールに向かった。




「おつかれー、待ったか?」

「俺は今来たとこだよ。篠田は10分前には来てたみたいだけど」

「余計な事言うな佐々木!違うわよっ、私は別に…」

「いいから行こうぜ。数字の見過ぎで腹減ったわ」

「なんだそりゃ…」

「もうっ!」


 こんないつものやりとりが心地よかった。

 日常に戻ってきたんだなということが実感できるからだ。

 眼力を使わず、今まで通り仕事して仲間たちとバカやっていれば、ここは普通の世界だ。



 だが、そんな日常の俺を、異世界が放っておいてはくれない。

 6月のあの日、復活を遂げると同時に強制的に異世界の住人となってしまった俺を"同じ異世界の住人"が放っておくワケがなかった。







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【汝の愛すべき隣人】編








 金曜日

 月次決算業務も折り返しを過ぎ、残すところあと2営業日で締める段階に差し掛かった。

 このまま終わりに向かってスパートをかけていくところではあるが、今月はカレンダー上土日を挟むこととなっていたので、一旦小休止だ。

 気持ちが途切れてしまうのと、土日の分の通常業務が溜まってしまうというデメリットはあるものの、肉体的には土日を挟んだほうが楽だった。


 俺は適当なところで業務を切り上げると、上司に進捗を報告して、帰り支度をした。

 時計を見ると、もうすぐ20時になろうとしているところだった。

 総務部オフィスには俺と経理課長と総務部長しか残っておらず、パーティションを挟んでお隣の営業事務室には誰もいないのか、照明が消えていた。

 4階には人はほとんどいないかもしれない。


 隣の営業事務室を見ていた視線を下に移すと、西田のデスクが目に入る。

 正確には"元"西田のデスクだ。

 デスクの上はパソコンと電話機以外のものは片づけられ、綺麗になっていた。

 俺が月曜日に出社した時にはすでにそうなっていたのだ。

 6月の上旬に事故にあって亡くなった"てい"なのだから、当然と言えば当然だ。


 今は新しく総務課職員を採用するために、人事部が動いているとかなんとか。

 それまで俺は、分かる内容であれば極力西田のやっていた業務のフォローをしようと思っている。

 これは別に罪悪感だとか後ろめたさから来る行為などではなく、純粋に手伝いたかったからだ。

 決算期間が始まる直前に、上長にはちゃんと許可を貰って総務の手伝いをしている。

 多少残業時間が伸びてしまうが、それでもかまわなかった。



 自分の荷物をまとめると、鞄を手に他の二人に挨拶をして、部屋を出た。

 普段なら喫煙所でタバコを吸ってから帰るところだが、最近吸うのを止めていたのでまっすぐオフィスビルを出た。

 禁煙の理由は、まあ健康とか体力の為とかそのあたりだ。

 マラソンで鍛えていたので体力には自信があったが、いざというとき呼吸が苦しいのではどうしようもないから、徐々に体からヤニを抜いていくことにした。


 自分で言っていて、いざって何だよ…と思ってしまった。

 また誰かと戦うことになると思っているのか…?

 自分でも分からない。

 分からないから、できるだけ準備しておこうと思っただけだ。


 そういえばケガのせいでしばらくマラソンに行けてないな。

 今度、皇居の周りを走ろうかな。

 暑いから、熱中症に気をつけながら、ゆっくりと…


 そんなことを考えながら駅に向かった。





「あの、すみません」


 駅までの道すがら、俺は突然声をかけられた。

 振り向くと、そこには大学生くらいの女の子がこちらを見て立っていた。

 夏らしく涼しげな白のカットソーシャツと白のプリーツスカートを身に纏い、

 栗毛色のロングヘアーで、如何にも育ちのよさそうな印象が感じられる。

 ギャルゲーだったら真っ先に攻略してしまいそうな、ほんわかお嬢様美少女がそこにいた。


 だがそんなカワイ子ちゃんがこの俺に何の用だ?

 大学時代ならいざ知らず、この歳になると美人局、今風に言うならハニートラップをどうしても警戒してしまい、声をかけられた事を手放しには喜べない。

 もしくは今流行りのパパ活の誘いか?

 でも、それほど歳の離れていない俺に声をかけても仕方ないよな…

 金持ちには見えないだろうし。


 相手の意図が分からず出方を伺っていると、女の子は続けてこう言った。


「アナタは今、迷っていますね」



 あー…

 アッチ系ね…なるほどなるほど、そうきますか…どうしようかな。

 の対処法はあまり心得ていないぞ。


 さっきとは別の意味で困っている俺に向けて、女の子は続けた。


「アナタのようなで困っている人を、私たちNeighborネイバーは歓迎します!」




 異世界の足音が聞こえた。

 目を閉じていても、確実に俺に近づいてきているのが分かった。



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