変わり者の天使

beginning

 二十世紀初頭の欧州。民間用の飛行機がまだ飛ばない時代、南半球から北半球の果てにある英国までの旅路は、長い、長い道のりだった。

 国境を越え、海の向こうの地……まして赤道を越える手段は、港から船に乗り、何日もかけて進むしかない。

 蜂蜜色のウェーブヘアを強風で乱した少女が、身震いしながら甲板に出てきた。まとわりつくような冷たい外気を感じ、思わず顔をしかめる。周りは霧が立ち込めていて、目を凝らさないと足元も見えない。

 しっとりと濡れた、甲板の手すりに掴まり、少女は目前に広がる海を見た。南半球の海の色とはまるで違う……くすんだグレイッシュブルー。同じ星の海とは思えない位だ。

 見上げる広い空も、どこか曇って見えるのは、漂って来ている煤煙ばいえんのせいだろうか。寒さの度合いも全然違う気がする。


 ――こっちは、これから秋なのね


 少女は思った。周囲の客も英国が近いと話している。着ていた薄いガウンを羽織り直し、見慣れない風合いの景色を眺めた。比例するかのように、心細さが増幅していく。


 ――まだ着いてもいないのに


 そんな自分に苦笑する。わからない事ばかりだけど……怖がってばかりはいられない。挫けそうな気持ちを奮い立たせ、前を見据えた。


 ――これは……冒険。何が起こるか怖いけど、昔読んだ、物語の主人公みたいに、素敵な事だって起こるかもしれない

 ――何より、との約束を守る為……


 で出逢った一つの誓いが、今の少女の、唯一の支えだった。



 ――十三年前の九月。南半球にある大海の島国、オーストラリアでは、ようやく訪れた春の香りで満ち溢れていた。

 首都、シドニーの郊外にある、ニューキャッスルという田舎町の外れに、古びた小さな教会があった。そこでは、一人の修道女が孤児院を営んでいる。

 終わって間もない先の戦争や、数年前から続く世界的な大恐慌の影響か、玄関前にはよく赤ん坊が捨てられる。前の大戦や貧困で親を失い、身寄りを無くした子供の引き取りも跡を立たなかったが、時には他の理由もあった。

 とある夕刻。息巻いた数人の男が、一人の幼女を連れて、孤児院の玄関前に押しかけた。


「そうは言ってもですね。もう、子供は一杯なんですよ」

「そこを何とか頼みますよ。あんた、叔母でしょ? 両親が借金踏み倒して、一人置いていかれたんですわ」

「兄とは、もう何年も疎遠です。数多くいる兄弟の一人ですし、姪の存在すら知りませんでした。私とは無関係、他人です」


 苛立つ気持ちを抑え、修道女は事務的で冷淡な口調で、すっぱりと切り返す。そんな彼女に少し圧倒されながらも、自分の背後で睨みをきかせている、強面の男達に、ちらり、と視線を送り、男は続けた。


「働かせるにも年端いかないから力にならないし、ずいぶん育児放棄されてたようで、体つきも悪いし痩せぎす。器量も人並みだしで、身売りさせるにも二束三文なんですわ」

「……で、ウチに押しつけるんですか?」

「ここで、小間使いでも下働きでもいいんで、使ってくれんでしょうかね?」


 あからさまに迷惑そうにしている修道女は、男の後ろに隠れながら、無表情でこちらの様子を伺っている、戸籍上の姪に冷めた眼差しを向けた。

 荒れて伸び放題ではあるが、強いウェーブのかかった髪は蜜蝋色みつろういろ、痩せこけた顔を造る肌は、薄汚れてはいるがマシュマロのように白い。そして、暗い陰を落としたは、孤児院のすぐ側にある海と同じ、マリンブルーだ。

 慈善事業の延長である、個人経営の養護施設だった。経営は苦しい。金はいくらあっても足りなかった。暫く小間使いとして使って、成長したら何かしらの形で高く手放せるかもしれない……と修道女である、院長は考えた。


「……名は?」


 まだ、まともに口のきけない幼女の胸元にある名札には、『アンジェリーク』とあった。



 ――十年の月日が流れた。『天使のような』という意味を持つ名のせいか、アンジェリークこと、『アンジュ』は、音楽……歌う事が好きな少女に成長した。

 今日も孤児院の台所で、ポニーテールに纏めた、蜜蝋色の長いウェーブヘアを揺らし、洗ったばかりの皿を拭きながら、お気に入りの歌を何度も繰り返しハミングしている。

 すると間もなく、甲高いヒステリックな声が飛び込んできた。


「アンジュ!! 遊んでないで早くしなさい!! それが済んだらケイトにミルクやって、おしめも替えるのよ!? その後は、いつもの裏庭の掃除!! わかった!?」


 炊事場を覗き込んだ中年の修道女が、目をキツネのように吊り上げながら、すかさず釘を刺し、次々に仕事を言い渡す。

 十年前、アンジュを引き取った叔母であり、孤児院の院長は、彼女に来た養子縁組の話を全て断り、今でも小間使い、メイド代わりにして使っていた。良い頃合いのが来るまで、ここに置いておくつもりなのだ。

 アンジュと同じ年頃の子供は、他にも何人かいた。しかし、院長は彼女にだけ、沢山の仕事を言い付ける。それは、十年前から変わらず繰り返されている、ここの日常だった。


「はぁーい。院長先生……」


 聞こえるように返事をした後、アンジュは肩を落とし、ふぅっ……と、小さくため息をついた。が、すぐに次の仕事に取り掛かる。休んでいる余裕はなかった。

 外からは、楽しそうに遊んでいる同じ孤児院の仲間達のきゃらきゃら、という笑い声が聞こえてくる。

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