第16話 バトル

アクセルペダルをゆっくり踏み込み、カートを発進させる。

涼が手を振りながら「行ってらっしゃい。私たちもすぐ行くからね」と言って見送ってくれた。

繭のカートの後を付いてガレージを出る。


サーキットまで自走し、そのままコースをゆっくりと周回する。コース自体は、ほぼ長円形で、後半にゆるいS字クランクが一つあるだけの単純なもののようだ。路面には、微妙な凹凸が多くあり、お世辞にもコンディションが良いとはいえない。


そのままのスピードで二周すると、三周目に繭はアクセルを踏み込む。あっという間に加速していく。ミユは離されまいと、同じようにアクセルを踏み込み、繭の軌跡をトレースしていく。


繭の運転は、S字コーナーの第1コーナーに進入する際のブレーキタイミングやステアリング、第2コーナーを抜ける時のアクセル操作など、どれも教本通りの操作で、最適なコース取りをしているようだった。

けれども、どこか微妙な点で、そのコース取りにゆとりや遊びのような甘さがあるように感じた。


わざと甘くやっているような演技ではなく、例えば、コーナリングのステアのあて方にどこかぎこちないところがある。慎重に感触を確かめているような雰囲気だ。


昔、映像で見た小学生ながら中学生相手に一歩も引かない繭のコーナリングは、妥協を許さない厳しいものだったと記憶している。だからこそ、そこに言いようのない憧れを抱いた。それは、今も執着のようなものとなって、心の片隅にあると思う。


神童が大人になって凡人になってしまうなんて話も聞いたことがある。ミユが憧れた人はもういないのかもしれない。幻滅といっていいかもしれないが、考えようによっては、カートに対する未練は全くなくなるので、新しいことに前向きになれそうだ。


それはそれで悪くないと思えた。同室の舞先輩とロボコンに取り組むのも面白そうだし、彗ちゃんと自転車に乗るのも良いかもしれない。栞ちゃんと、全然新しいことに挑戦するのもアリか。


そう考えているうちに、繭のカートが減速して、スタート用のグリッドの前で止まれと合図が出た。指示に従い、繭と並ぶ形でカートを止める。 


「天雲さん、速いね」

「ブランクはありますが、経験者ですから、これくらいは。それに走りやすいコースですし」

「本当? 不整地のラリーよりはマシっていうレベルじゃない?」

「それは、思いました」

二人して、おかしくなって笑った。


「それじゃあ、せっかくだし少しゲームをしない?」

「ゲーム?」

「そう。今から五周して、途中一度でも私を追い抜くか、最終ラップで私よりも速ければ天雲さんの勝ち。私が先頭をキープして、最終ラップで天雲さんより速ければ、私の勝ち。負けた方は勝った方の言うことを何でも一つ聞く、というのはどう?」


ミユに有利な条件だ。初めてでも易しいコースだし、さきほどの走りを見る限りでは、繭は本気でなかったかもしれないが手の内は知れている。頭の中でシミュレーションしても、最終ラップで追い抜くことは、易しくないが、難しくもなさそうだ。


「何でも?」

「そう、何でも」

「いいですね。私からも一つ条件を出して良いですか?」

「条件って、どんな?」

「先輩は」一呼吸置いて言った。「本気で走ってください」


ミユは、繭を試すような失礼な言い方に気づいて慌てたが、しかし、それがミユの本心だった。目の前にいる人物が、神童の成長した姿なのか、それともただの凡人なのか、それを見極めずにはいられなかった。

そんなミユの心の内を知らない繭は、後輩なりの挑発か冗談と捉えたようで、笑った。


「なにそれ? 言うことを聞かせたいなら、勝ってから言わないとね」

「この条件なら、私、負けません。多分ですけど」

「すごい自信だね。そこまで言うなら、私が勝ったら天雲さんにはカート部に入部してもらおうかな」

「いいですよ。でも私が勝ったら、カート部には……入部しません」

「オーケー。面白いね。ゲーム成立ということで、始めようか。スタンディングスタートだから、天雲さんはあっちね」


そう言って繭は斜め後ろのグリッドを指したので、ミユは自分のカートを定められた位置に移動させた。

カートのスタートは横並びではなく、市松模様のように交互に斜めに並んだ状態でスタートする。


準備ができると同時に、カウントボードが点灯し、カウントダウンが始まる。

ガレージでおしゃべりをしていたカート部員たちがいつのまにかサーキットに集まっていた。こうなることを予想してシグナルの操作をしていたようだ。

スタートシグナルが点灯した。この瞬間が一番緊張する。シグナルが消灯し、同時にスタートを切る。


スタートは同時だけれど、繭のスタート位置の方がミユのスタート位置よりも前なので、その分だけ繭がリードしている。しかし、差はそれだけではなく、スタート自体も繭の方が早いようで、僅かではあるがその差が広がった。


マシンパワーがほぼ同じと仮定すると、スタートの直線で差が広がるのは、ドライバーとカートの合計重量に差があるからだ。重い物体の方が慣性力が大きいので、加速が遅くなる。


ドライバー重量は、背の高い繭の方が重いはずなので、それを上回るだけミユのカート重量が大きいとミユは理解した。

そういった重量差も含めて、まずはカートの性能を走りながら調べていくしかない。幸いにもミユは後追いなので、繭の様子を仔細に観察することができる。


一周目が終わるころ、二人の距離は、スタート時の差をほぼ維持していた。ミユ自身はブランクのある並の選手で、それを自覚していたからこそ、そんな自分とほぼ互角の繭の技量は、もはや劣化したというよりも初めから別人だったのではないかと思わせるものだ。とはいえ、勝負は勝負なので、ここから勝つ算段をする必要がある。


練習のときにも気づいたのだけれど、繭のコーナリングはアンダーステア気味だ。走行軌跡が遠心力でタイヤ一つ分は外側に膨らんでいる。このコースは繭のホームだし、最適なラインを走っていると思っていたが、試しにタイヤ一つ分、内側のラインを走ると繭との差が少し縮まった。


ボードに表示された二周目のラップタイムを確認して、それは確信に変わった。繭は、最適な走行ラインを取れていない。


三周目でも、依然として繭の様子にそれまでと変わったところはなく、その間、ミユはラップタイムを縮めていた。事実、コンマ二秒、繭よりも速い。


ミユが繭に勝つ条件は、途中一度でも繭より前に出るか、最終ラップで繭に勝つかのどちらかを満たすことだ。繭を追い越すためには、繭のカート外側から追い抜く必要があり、それは繭よりも速い速度で、かつ繭よりも長い距離を走らなければならないので、今のミユにはかなり難易度が高い。なので、勝利するためには、最終ラップで繭よりも速いタイムを出すことが必須になる。三周目までのラップタイムから判断すると、それは十分可能だ。このままのペースで最終ラップに入れば、ミユが勝利するのは明かだった。


しかし、一周目から四周目は捨てラップなので、向こうはそれまではこちらを油断させて、五周目の最終ラップを本気で走るという意地の悪い作戦を立てている可能性もある。昔の繭ならそんな策を弄さずとも圧倒的な実力で相手をねじ伏せていただろう。


もし、そういう策にはまりつつあるのなら勝負は最終ラップではなく、相手が本気を出す前の、この四周目だろうと思う。追い抜かれることは実際ないだろうと相手が高をくくっている今だからこそ、最終ラップで勝負するまでもなく、ここで追い抜いて勝利を掴む賭けに出るのもアリだと思う。


S字クランクの第1コーナーでインを攻めてさらに差を縮めることができれば、続く第2コーナーでインとアウトが地形的に入れ替わるから、コーナー出口でカートが並んだ瞬間に追い抜く。仕掛けるならそれしかない。


そう決心し、四周目のS字クランク第1コーナーに入った。第2コーナーに備えてブレーキをコントロールし、インに寄る。そのまま第2コーナーでアウト側に入ろうとしたとき、予想に反して、前を走る繭が、それまでのコースよりも少しアウト側にずれた。アンダーステアと言うよりは、スリップに近い派手な横すべりになる。そのため、第2コーナーのイン側のスペースが大きく開き、ミユの狙っていたアウト側のラインがなくなった。

思い描いていたラインを、はからずも妨害されて、面食らったミユは減速したため、追い抜くどころではなくなってしまった。


もし、ミユが外側から抜こうと考えず、そのまま単純に後追いしていれば、がら空きになったイン側の隙間から鼻先をねじ込んで、繭のカートに並ぶことができたわけだが、作戦が裏目に出てしまった。あれこれ考えて勝負せずに、ただ後を走っていれば勝ちを拾えたのだ。しかし、皮肉なことに差が広がってしまった。


慌てて体勢を立て直すものの、四周目のラップタイムは繭がリードし、コンマ六秒差に広がった。この状態では、追い越すことはもう不可能だろう。

しかし、四周目までは捨てラップなので、焦ることは何もない。ある意味、これが既定路線だ。


落ち着いて攻めれば勝てるだろう。

五周目で何か仕掛けてくるかもと警戒していたけれど、そういった気配もなく繭との差はわずかに縮んでいく。


そして最終コーナーが目前に迫り、コーナリングのとき、イン側を走っていた繭が、再び大きくアンダーステアし、外側へ滑っていく。四周目では策に走ったため虚を突かれたが、今回はもうただ単純にイン側を速く走るだけだった。


その瞬間、繭は顔を僅かに横にそらしたようで、ミユはバイザ越しに一瞬だけ、繭と視線が交わった。

ミユは、その視線に覚えがあった。


追い越すことはできなかったけれど、最終ラップのタイムは、繭よりも僅かに早かった。

繭のアンダーステアというなんともあっけない結末で、決着は付いた。

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