高専アイアンレース 中四国大会編

的矢幹弘

第1話 始まり

春眠暁を覚えずとは言うけれど、春に限らず、季節の変わり目はいつだって眠たい。電車の中で熟睡してしまったのに、降車駅の車座駅で目を覚ますことができたのは、ささやかな奇跡といえる。


天雲てんくもミユは、数泊分の荷物を詰めたキャリーケースの取っ手を掴んで、小走りで電車を降りた。

すでに桜は散り始めていたけれど、春の陽気が心地よい。


新生活への不安よりも、知らない駅で降りた高揚感の方が勝っている。うどんをすするシャチのマスコットキャラのポスターを横目に、改札の駅員に切符を渡す。学生証を手に入れたら、ICカードを買おうと思う。


平日の昼間のせいか、車座駅で降りた客は、ミユの他には若い女性が一人だけだった。二十歳くらいだろうか。その女性は大荷物を抱えた人間が珍しいのか、ミユの顔と荷物を遠慮なく交互に見てくる。


その視線に気づかない振りをしながら、ミユはスマホで地図を表示して、バス停に向かって歩き始める。目的地は、讃岐高等専門学校東讃キャンパスだ。入試の時は遅刻しないように、父親が車で送ってくれたので、今日のように電車二本とバスを乗り継いで学校に行くのは初めてのことだった。今日は学生寮の入寮手続きが夕方にあるのでそれまでに到着すればいい。時間はまだ、たっぷりとある。


讃岐高等専門学校、略して讃岐高専は、高校と違い五年制の高等教育機関で、入学すれば生徒とは呼ばれず、学生と呼ばれる。学生の年齢層も十五歳から二十歳までと幅広く、高校の勉強に加えて大学の講義内容も学ぶことになる。東京と京都にある呪術系の高専が有名だけれど、彼女が通うのは工業系の高専だ。


讃岐高専の東讃キャンパスは、もともと工業高専だったので、学生は、圧倒的に女子の方が多い。オープンキャンパスで先輩(もちろん女性)に男女比を尋ねたところ、情報学科だと男子はほぼゼロで、建築関係なら男三対女七くらいらしいけれど、平均すると一対九とのこと。なので、昔は女子寮しかなく、男子学生は不便を強いられていた。けれど、最近は男子寮棟も建てられて、男子でも希望者は寮生活を送ることができる。


ミユも家が遠いので寮生活をすることにし、今日、入寮のために寮を訪れることになった。


ひらでん車座駅の駅前バス停まで歩き、バスの時刻表を確認すると、すでにバスは出てしまったようで、次のバスまで二時間近く待つことになるらしい。タクシーに乗るには財布が心許ない。マップで確認すると、東讃キャンパスまで歩いて四十五分なので、バスを待つくらいなら歩いた方が早いけれど、大きな荷物を持ったまま歩くのは避けたいところだった。とはいえ、二時間もここで待つのも馬鹿らしい。やはり歩こうかと思案していたら、先ほど電車を一緒に降りた女性に、ふいに話しかけられた。

「もしかして高専の新入生?」


声を掛けられたミユはびっくりして、「はい。そうです」と慌てて答えた。

「やっぱりそうだと思った。私も高専に通ってるからなんとなくわかるんだよね」

その女性は髪型も服装も大人びていて、ミユの抱いている高専生のイメージとはずいぶん違っていた。高専生はかなり年上の学生も多いから、想像よりも大人っぽく見えるのは当然かもしれない。


「あなたは、学生寮にバスで行こうとしている。でもバスがないから途方に暮れていた。違う?」と女性が続けて言う。

「そうです。どうしてわかったんですか?」

「先輩だからね。わからいでか」

「はあ。それで、先輩はこれからどうするんですか?」

「私も高専に行くつもり。そろそろ迎えが来るから、一緒に連れていってあげようか?」

「え、いいんですか?」

「もちろん」


先輩を自称する女性がそう言って、親指を立てると、それと同時に、白いスポーツカーが目の前に停まった。大きなリアスポイラが目立つ。助手席のウインドウが開いて、ドライバーが、こちらをうかがう。


めい先輩、こっちにいたんですか。駅前に迎えに来いって言ったんなら、ちゃんと駅前にいてくださいよ」と不満げにドライバーが言う。

「ごめんごめん。なんだかおもしろいものを見つけちゃったから」

「あれ? その子、どうしたんですか? 誘拐ですか?」と、ドライバーの女性はミユを一瞥する。

「誘拐と言うよりも、ナンパかな?」と、鳴先輩と呼ばれた女性はおどけたように答える。確かに見ず知らずの女性に声をかけられ、初対面でホイホイ付いて行くとなると誘拐かナンパしかない。普段なら警戒するところだけど、悪い人たちではなさそうだ。渡りに船なのでミユは大きな荷物と一緒に後部座席に座った。


「名前は?」

 ドライバーの女性とバックミラー越しに目が合った。

「天雲ミユです」

「テンクモってどういう漢字?」

「天気の天に、空に浮かぶ方の雲です」

「変わってるね。中学の時はなんて呼ばれてたの?」

「天雲さんか、仲の良い友達はミユちゃんって」

「普通だね。テンテンの方がいいかな。私は、真鍋まなべさくら。桜先輩って呼んでいいよ」

「テン、テン……?」そんな呼ばれ方をされるのは初めてだった。

「そう。天雲のテンで、テンテン」

「テンテンっておもしろい響きだね」と、助手席に座った鳴がミユに振り返る。

「私は西尾にしお鳴。これからよろしくね」

「え? テンテンで決まりなんですか?」


桜はそれには答えず、「テンテンは何科?」と、さらに質問する。

「機械工です」

「やっぱりね。なんかそんな気がしたんだよ」と鳴。なにがやっぱりなんだろう。

そういう他愛もない自己紹介をしているうちに、十分ほどで学生寮の駐車場に着いた。


本当に親切な人たちだけれど、同じ学校とはいえ学年も違っていて、次に合うのはいつになるかわからないので、車を降りた後、丁寧にお礼を述べた。桜は、「気にしなくて良いよ、またね」と言って、車を降りてそのままどこかへ歩いて行ってしまった。


「さあ、中に入って」と、鳴が学生寮に入るよう促した。その所作で、ミユはふと気がついた。

「もしかして、鳴先輩も寮生なんですか?」と尋ねると、鳴はにこりと笑った。

「そうだよ。びっくりした?」

「いや、そうですね。実を言うと、最初に声をかけられたときが一番びっくりしたんですが、どうして私に声をかけてくれたのか、今ようやく分かりました」


西尾鳴は学生寮の寮生であり、今日が入寮手続きの日ということを知っていたので、最寄り駅で荷物を抱えた中学生くらいの女子に声をかけたというワケだ。分かってしまえばどうということはなかった。


「さあ、今日の流れとか、部屋割りとか必要なことは受付に掲示してあるから確認して。わからないことは、同じ部屋の先輩に聞くといいよ。別に誰に聞いてもいいんだけど」

「はい。ありがとうございます」と、キャリーバッグを片手に玄関に入った。

中はコンクリート造りのせいか、外よりもひんやりとし、少しカビ臭いような独特の臭いがした。

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