プロローグ(2)

 この日のスピカは休日のため朝早くから外出をしていた。

 街での買い物を済ませ、一度城に戻ってきたところ、異世界からの迷い人である佐倉杏と廊下で遭遇し、立ち話をしている。話の内容はこの国の王子であるシリウスのことだ。スピカはシリウスを激しく敬愛しており、その度合いは驚くほど。最初は国民ならばそれが当たり前なのかと思っていたが、スピカは相当だということを杏は一緒に過ごすうちに知っていったのだ。

 杏なりにシリウスが偉い人であることは分かってはいたので、上司に接するみたいに丁寧な形で話をすることを心がけていたが、杏のいた日本には身近に王子や貴族などいなかったこともあり、スピカに「不敬‼」怒られることも多々あった。


「お前は俺より年上なのに、どうしてシリウス様に対して失礼が多いんだ」


 ちなみに今スピカが怒っている理由は、今朝買った希少なシリウスの木彫りを特別に杏に見せてやり、その上幻浮影という杏の世界でいうシリウスのブロマイドまであげたのに、反応が微妙だったからだ。シリウス様のブロマイドならもっと喜べと怒るスピカの熱烈な親愛を前に、杏は少し、いやだいぶ驚いて、嬉しいには嬉しいのだが、素直に喜べなかった。


「そういえば、その花はどうしたの? たしかお城の中庭にある、騎士像の周りに咲いてる花だよね」


 杏は廊下の窓からちょうど見える中庭に視線を送る。薔薇のアーチを潜っていった先にある大きな噴水の左右に、前足を高く上げた馬と、剣を掲げた騎士の石像が置かれていた。スピカが手に持っていたのは、その周囲に咲いている白と紫の花びらが特徴的なオダマキという花だ。目を凝らしてよく見てみると、確かにそこに咲いている花はまばらになっており、誰かが摘んだのは一目瞭然だった。


「もしかしてシリウス王子にあげるとか?」

「いや、これは……」


 さすがに城の中庭に咲いている花をあげるわけないか、と杏も思ったが、スピカはそんな杏の予想に反して、歯切れの悪い言葉を口にした。


「……そうだな。シリウス様にあげるものかもしれない」


 そう言ってスピカは杏に背を向けて歩き出す。


「……どういう意味?」


 杏の声にスピカは聞こえないふりをする。

代わりに一片の花びらが、ひらり、ひらりと地に落ちていった。




 そんな二人を執務室の窓から見ている人物が一人。シリウスだ。廊下で話す二人の声こそ聞こえないが、出会った頃にくらべ仲睦まじげに話している雰囲気に小さく微笑む。しかし、青い空に残る円かな月を目にした瞬間、彼は目にもとまらぬ速さでカーテンを閉じた。


「っ、はあ……っ」

「シリウス様?」


 少し荒くなる呼吸を落ち着かせるように胸に右手を置く。心配して近づいてくる家臣に大丈夫だと伝えるため、言葉ではなくもう片方の手を軽く上げた。


「次の会食まで時間はまだあったな。私はしばらく部屋で休ませてもらう」


 家臣にそう伝えて、シリウスは指を鳴らす。すると一瞬にして、彼の体は自室へと移動する。瞬間移動の魔法を発動させたのだ。彼はふらつきながら、緻密な彫刻が施され、白いレースがついた天蓋のベッドへそのまま倒れこむように横になった。水を飲みたかったが、自力で用意する力も、魔法で用意する魔力も、今のシリウスにはなかった。

 シリウスは月が嫌いだった。

 だから彼の部屋のカーテンは、昼も夜も変わらず閉ざされており、滅多にそこから光が差し込むことはない。そのため部屋の灯りをつけていない今、小さな呼吸だけが響く薄暗い部屋はどこか不気味だった。

 部屋に漂う緑樹の香りがシリウスの気持ちを落ち着かせていく。

 胸の痛みはとうに治まっていた。

 しかし、先ほど見たあの白い月はまだ瞼の裏に残っており、シリウスの瞳からは一粒の涙が零れ落ちる。






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