第47話 怨嗟の波

 禿頭の式神を次々となぎ倒し、赤ん坊を抱く女型の式神に剣を向ける九十九を、紫乃は唖然として見つめていた。

 手が出せる瞬間などなかった。融合し、巨大な赤ん坊となった式神と対峙する九十九は尋常ではなかった。目で追うのがやっとのスピードで狭い空間を縦横無尽に跳びまわり、隙を突いて式神の身体に剣を突き立てていく。敏捷性もさることながら、たとえ捕まり、壁に叩きつけられても問題にしないほどの頑強さも併せ持っている。およそ人間業とは思えない。

 その九十九の異常な変化の原因は、やはりその身体に取り付く謎の物質だろうか。これまでと今の九十九の変化点と言えば、それしか思いつかない。硬質の金属の様でありながら、水飴のような液体状にも変化する物質は、九十九の右腕を中心に右上半身を覆い尽くしているように見えた。艶のある黄金色の表面に独特の紋様。時折脈動する物質が、紫乃の目にはまるで生きているかのように映って不気味さを掻き立てた。

 謎の物質と融和した九十九の姿は人間離れしているが、それと同時に、九十九自身も変わってしまったような気がしてならなかった。あの物質を纏ってから、まだ九十九の声を聞いていない。相当な運動量で動き回っているにも関わらず、息遣いすら聞こえないのだ。何より、傍から見ていると物質が九十九の身体を動かしているように映る。まるで大型犬のリードに振り回される飼い主のような印象を想起して、紫乃は怖気と不安が湧き上がるのを感じた。一体、九十九の身体に何が起きているというのか。


 巨大化した赤ん坊は、一度は九十九を捕らえ半身を口に頬張るが、口内から剣を突き上げられ喰らうことは出来ず絶叫する。泥のように赤ん坊の身体は崩れ、元の姿へと戻った式神は女型の式神と赤ん坊を庇うように九十九に襲い掛かるも、まるで相手にならない。次々と一太刀で切り伏せられた禿頭の式神は、床を這いつくばりながら九十九の足に縋りつく。九十九は、その手を雑に払いのけ、意に介さずといった様子で歩を進め、座り込む女型の式神の前に立った。

 子を胸に抱きながら、すすり泣くように肩を震わせる女型の式神。剣尖を突き付ける九十九は、さながら罪人の介錯を務める打ち首の執行人のようだった。


「ウオオオオオオオオオオオォッ!」

 剣を突きつけた体勢で暫し佇んでいた九十九が、突如上体を反らせて雄叫びを上げた。

 地の底から湧き上がるような低く、獣じみた絶叫に紫乃は目を見張った。これまで耳にした九十九の声ではない。声を張り上げても、その者の声であることは分かるものだが、その雄叫びは声帯自体が変わってしまったと思うほど九十九のものとはかけ離れていた。

 ただの音であるはずの雄叫びは、僅かな風圧を伴って紫乃の元へ伝わってきた。壁は震え、窓はガタガタと鳴っている。周囲の空気を掻き乱すような衝撃に、腕で顔を覆う。表情を歪めながら目をすがめるようにして、九十九を視界に収め続けた。

 雄叫びを上げ続ける九十九は、身体を捩らせ、形を保っている左腕で自分の大きく盛り上がった肩を抱くようにして悶えていた。左手は強く握り締めて右腕の物質にめり込んでいる。一心不乱に頭を振り回しながら叫喚する姿は、何かに憑りつかれているように病的な狂気を孕んでいるようでありながら、苦しみ藻掻いているようにも見えた。

 耳を塞ぎたくなるほど怖気が走る絶叫を聞いている内に、紫乃はあることに気付いた。絶叫の中に何かが混ざっている。荒々しい化物染みた叫びと、何かに抗うような感情が垣間見える叫び。その感情が籠る声に聞き覚えがある。

 九十九だ。微かにだが彼の声が混じっている。紫乃は、大きく目を見開いた。絶叫の中に含まれる人間性を確かに聞き取った。

 いる。変わってしまったのではない。恐らくは自身の最奥に感情が押し込まれているのだろう。戦っているのだ。自分の身体を奪おうとする侵略者と。

 尤も、これは紫乃の恣意的な推測に過ぎない。紫乃自身の感情が多分に含まれている。それに、これだけの大きな叫び声だ。錯聴である可能性の方が遥かに高い。だが、それでも構わない。そうであって欲しいという希望を、無意識に紫乃は見出していた。そうでなければ、会って間もない九十九を寄る辺としなければ、紫乃にこの状況は耐えられない。


 周囲の空気を波立たせるような、まるでサイレンにも似た叫び声を、絶えず九十九は上げ続けている。そんな中、次第に右腕を取り巻く物質に変化が起こった。

 鈍い光沢を放つ黄金色の表面に浮かび上がる、二重螺旋の紋様。その紋様の不気味な光が、瞬く間に力強く増してゆく。血のように暗かった赤色の光は、より鮮やかな紅に変わった。黄金色の物質の表面は、まばゆく発光する紅に覆い隠されている。マグマを纏っているかのような鮮烈な紅が、紫乃の眼に焼きついた。

 背を向ける九十九は、右腕を制御しようとしているのか、左手で引き寄せて右腕を抱え込んだ。しかし、それから逃れようとでもしているかのように、右腕の物質は形を変え始めた。まるで意思を持っているかのように、内側から誰かが突いてでもいるかのように蠢き、騒めいていた。

 やがて、抑えの利かなくなった右腕は、左手を振り払い大きく外へと逃れた。勢い良く弾けるように振られた右腕。その先端から突き出た剣が、嘗めるように廊下の床、壁、窓と斜めに斬り上げた。

「き、斬った?……」

 紫乃は、瞠目しながらその光景に愕然として呟く。

 昼下がりにも関わらず、暗室かのように薄暗い廊下。窓からの採光を阻害しているのは、校舎全体を覆う臓物の如き無数の異形だ。紫乃は、異形そのものが幻術なのではないかと思ったが、師が云うにはこれは幻術ではない。校舎を覆う異形は、呪詛が顕在化した不安定な存在、『かい』であるという。霊的な存在である傀によって、九十九と紫乃は現実から切り離され、幽世かくりよに迷い込んだ。そして、学校の敷地全体を囲むように仕掛けられた結界。これは、外界からの進入を阻むことが主目的ではない。傀という実体を持つ存在を覆い隠す遮蔽の結界だ。

 幽世という空間がどのような性質を持つのか、紫乃には解らない。しかし、九十九の剣によって開かれた裂け目から、薄暗闇の廊下に一筋の光が差し込んでいる。その光が外界の、現実の陽光であることが直感で分かった。生まれてから散々浴びたその光の清々しいほどの眩しさは、太陽のもので間違いないだろう。実際には、それほど時間は経っていないのだろうが、紫乃自身の感覚だと恐ろしく長いこと、この暗闇に身を置いていた気がする。一筋の現実との繋がりに、無意識に暗闇から逃れようと、僅かに差し込む陽光に手を伸ばしたい衝動に駆られて、その欲求を手を握りしめて堪えた。

 同時に、裂かれた窓の外側の騒がしさに意識を向ける。窓一面びっしりとこびりついている異形の動きが激しくなった。九十九の腕の光に照らされた傀は、互いを擦り合わせながら絶え間なく動き続けている。それは音と窓に伝わる振動にも現れ、まるで戸惑ってでもいるかのように右往左往し、蟻の群れかのようにごった返していた。未だ続く九十九の雄叫びに反応しているのだろうか。傀の動きは激しさを増していき、不意に再び空間が薄暗闇に包まれる。

 恐らくは、無数の傀がその身体で裂け目を封じた。それだけなら良い。しかし、傀と呼ばれる霊的存在は実体・・を持っている。その軟体が通れるほどの隙間さえ空いていれば、こちら側に入り込んで来ることは難しくないだろう。

「はぁ……はぁ……くッ――」

 陽光が差し込んでいたはずの場所を凝視しながら、紫乃は障壁の呪術を展開しようと鬼字きじの呪符を取り出し呪言を口にするが、その言葉は遮られた。呪言を言い終わらぬ内に、九十九の叫び声に混じってパンッ、と瞬間的に破裂音が耳をつんざく。硝子の割れる音だった。紫乃は、その音に血の気が引いて、開いた口も塞げないまま愕然とし、身体は硬直して立ち上がることさえ出来ない。

 一点に集中した傀の重圧に、窓硝子は耐えきれずに割れ、校舎の外壁にへばりついていた傀が濁流の如く室内に流れ込んできた。硝子は粉々に砕け散り、さらに床に落ちた破片が連鎖的に鳴り響く。鉄砲水のように押し寄せる傀は、窓枠周辺のコンクリートをも巻き込んで校舎内に傾れ込む。開いた穴の前に立っていた九十九は、土砂にも似た傀の濁流に一瞬にして飲み込まれ、雄叫びもプツリと消えた。

「あ……あぁッ!先輩ッ!――」

 打ち付ける荒波のような轟音が場を支配していて、紫乃の言葉は掻き消され、自分の耳にも聞こえない。殺到する傀は、九十九のみならず子を抱く女型の式神、床に力無く横たわる禿頭の式神、そこにいた悉くを一飲みにしてしまった。

 留まるところを知らない傀の大群は、決壊したダムの放水のような勢いで廊下に流れ込む。その赤黒い波が、渦を巻きながら紫乃の元へと迫っていた。

 もはや刹那の猶予もない。鬼字の呪言を唱える時間も、識神しきじんを使役する時間すら在りはしなかった。使役したところで非常に大型な識神のミカンでも、津波のような傀の大群を受け止められやしないだろう。それに、ミカンをこの怨嗟で形成されたような異形の只中に晒したくはなかった。

 これで良い。識神を巻き込むこともない。本音を言えば、紫乃は識神が傷付くところは見たくないのだ。戦わせたくない。血など以ての外だった。一般的な主従関係とは少し違った、歪な関係かもしれないが、彼らが無事ならそれで良い。紫乃は、目を閉じ顔を伏せた。

 あの臓物にも似た傀に飲み込まれれば命は無いだろう。怨嗟が凝縮した呪そのものの存在だ。少なくとも正気でいられるとも思えなかった。恐らく、もう九十九は――。その気がかりを残して、紫乃は傀に包まれるのを待った。


呪そのものに侵されるというのは、どんな感覚なのだろう。己の自我はどうなるのか。無数の傀に食い散らされ、消えて無くなるのか。若しくは取り込まれて同化し、自我は上書きされて怨嗟の一部になるのかもしれない。どちらにせよ、一六年の歳月で構築された個としての自分など、数多の人間の膨大な憎悪の前では些末な存在に過ぎず、精神はすぐさま傀の色に染まってしまうことだろう。

それは少し惜しい、などと紫乃は思っていた。やはりと言うべきか、見習いとは言え白檀びゃくだん紫乃という少女も呪術者なのだ。せり上がる恐怖と同居して、好奇心が顔を覗かせていた。これでは、師のことを言えたものではない。しかし、この身に呪を宿せば、その深奥というものに少しは触れられるかもしれない。それは呪を扱う者が目指すべき到達点。その断片でも垣間見ることができたなら――。

  

 瞬刻の間にそんなことを考えていると、怒号のような傀の波音が鼓膜を揺らした。来た。迸りながら流れる傀の群れに身体が攫われ、魂の一片も残らず食い荒らされる……そんな想像をしていたが、傀が身体に触れることはなかった。何故か波音は、すれ違うように紫乃を通り過ぎ、次々と後方へ流れていく。まるで目の前に壁でもあるかのように、傀の波は割れているようだ。一体何が起きているのだろう。紫乃は、ゆっくりと強く引き結んだ瞼を持ち上げた。

 そこには人がいた。目に映ったのは、ぼさぼさの長い黒髪の長身の男だった。男は、紫乃を背にして立ち、傀の波を一身に受け止めているようだった。その背を見上げながら、紫乃は茫然と呟いた。

「先生」

「やあ」

 何とも落ち着いていて、場違いなほど穏和な声で男は応えた。

「紫乃。生を諦めてはいけないよ」

 黒髪の男、勘解由小路矩明かでのこうじかねあきは首を少し曲げて、横目で紫乃を見た。長い前髪が、灰がかった瞳の前で揺れいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る