第41話 見習いの師

 薄暗い箱のような空間の中で、聞こえるのは幾人の人のものとは思えぬ呻き声と少女の荒い息遣い。

 二年C組の教室で両者は向かい合っていた。尤も、呻き声を上げる六体の式神に眼球は無く、どす黒い顔を虚空に彷徨わせている。

五大明王ごだいみょうおうの大誓願、ひっしと縛れ、縛り縄。不動の童子、魔をばくせ」

 対する少女、白檀紫乃びゃくだんしのは歯を食いしばって檻に閉じ込めた式神を睨みつけ、真言を唱えている。蒼白となった顔に幾筋の汗が伝う。

 式神を拘束する檻は、先ほどとは様相が異なっている。所々が削られ、ひしゃげ、式神の抵抗の跡がありありと見て取れる。芒星陣で強度を増幅した鬼字の呪術でも、この式神を留め置く為には法力が圧倒的に足りなかった。さらに、鬼に五芒星の退魔の鬼字で修祓を試みたが、抵抗が激しくなるばかりで焼け石に水だった。それでも、手をこまねいているわけにはいかない。           

 どうにか式神の力を弱めようと繰り返し九字を切り、真言を息つく間もなく唱え続けてる。修験道系の不動金縛りの呪術。実際に行使するのは初めてで、どの程度効力が発揮するか未知数だったが、今出来る限りのことをするしかなかった。

「五大明王の大誓願、ひっしと縛れ、縛り縄。不動の童子、魔を縛せ……!」

 途切らすことなく、忙しなく九字を切る両手に汗が滲む。矢継ぎ早に真言を唱えながら、紫乃は無力さを痛感していた。忸怩じくじたる思いに表情が歪んだ。サングラスの奥の瞳が揺れている。

 式神の相手をすると大見得を切りながら、術者としての経験の浅い紫乃が出来うる修祓法は限られている。唱え続けている不動金縛りにしても、その技術レベルは稚拙と言う他なく、式神達にとっては雑音程度のものだろう。修祓などほど遠い。しかし、他に何が出来ようか。今は、このまま式神の足止めに努め、九十九が使役者の男を無力化してくれるのを待つしかない。そんな状況が歯痒く、気付けば目尻に涙が溜まっていた。

 ――先生がいてくれたら、この式神も瞬く間に修祓してくれるんだろうな――この期に及んでも、こんなことを考えてしまう自分に嫌気が差す。これが自分の悪い癖だという自覚があった。けれども、そんな自分が嫌悪している部分とは長い付き合いだ。振り払おうとしても、そう簡単に消えてくれるものじゃない。しかし、そんな思考に割り込んで、脳裏に何かがちらついた。

 彼の、九十九の顔だ。九十九の笑顔からは、不安や恐怖といった感情が見え隠れしていた。仰々しいほどの笑顔でそれら負の感情を押し込めているのが、紫乃には読み取れた。だが、九十九は諦めていない。表情に諦念や悲観は無かった。そして、九十九はこう言った。式神を頼むと。これを信頼と呼ぶのだろうか。いままで、そんな感情を受けたことがない紫乃には確信が持てない。だが、煩雑な思考を置き去りににして、身体は自然と信頼に応えようと動いていた。

 式神は、檻の隙間からその長い手足を伸ばし、逃れようと足掻いている。頭部や拳を打ち付け、破壊しようとする式神もいて、その度に教室全体がみしりと軋むように揺れた。狂乱の六体の式神から発せられる呻き声は、激しさを増している。声自体が呪詛を含んでいるようで、紫乃の肉体と精神を蝕んでいるようだった。

 檻が破壊されるのが先か、呪い殺されるのが先か。このままでは時間の問題だが修祓の手立てがなかった。こうなれば修祓は諦め、物理的に制圧するしか道はない。

 紫乃は結印を止め、呪符を取り出そうと懐に手を差し込んだ。

 しかし、紫乃の動きが止まった。式神の呻き声に混じって聞こえた破裂音。金属が弾けたようなその音に身体が硬直した。得体の知れない不安に襲われる。実際に耳にしたことはないが、今のは銃声ではないだろうか。赤髪の男が拳銃を持っていたのか。あの身なりに言動、纏う雰囲気……さらに、事前に知らされていた情報を踏まえると、あり得ないことじゃなかった。

「先輩……!」

 喘いでやっと絞りだした声は震えていた。その声も、式神の呻き声にすぐに掻き消された。

 紫乃は混乱していた。感情に任せれば、今すぐにでも九十九の元へ駆けつけたい。しかし、この式神を放置し、拳銃を持つ男と対峙して倒すことが出来るだろうか。式神が檻を破ってしまえば、男と式神とで挟み撃ちにあってしまうだろう。そうなれば万事休すだ。九十九を攫われ、自身も死ぬことになる。やはりここは、この式神を優先するしかない。

 九十九は撃たれたのか。気にかかるが、まさか命までは奪われていないはず。マロンも傍にいるのだ。きっと無事に違いない。そう自分に言い聞かせ、式神に目を向けた。敵意を滲ませた眼差しで睨み付け、呪符をかざす。


 紫乃……


「はっ」

 聞き馴染みのある声が聞こえた。紫乃は、呪符を持つ手を下げて真横に顔を向けた。

「ミカン……いや、先生……」

 そこには、大きな猫が鎮座していた。橙色の縞模様。後ろ足を畳んで座っているにも関わらず、天井に頭が付くほどの巨体。首を少し曲げて、窮屈そうに縮こまっている。紫乃の識神しきじんの一体だった。靄に襲われた際に使役した猫だ。橙色と白色の縞模様だが橙色の比率が大きく、丸まると大きな蜜柑のようで、紫乃はこの猫をミカンと呼んでいた。

 識神ミカンの表情は虚ろで、ぼうとただそこに佇んでいる。紫乃が呼び出したわけではない。強制的に現世うつしよに使役されたのだ。紫乃の師である陰陽師によって。

「紫乃。無事かな?」

 ミカンの口がパクパクと動いた。やはり、識神を介して声を伝えているようだった。ふわりと柔らかな声に心が静まっていく。


「オン・ウン・ビシ・シバリ・ソワカ」


 ミカンの口から発せられたのは、不動金縛りの真言。師が扱える簡略化された真言である。その真言と共に、檻の内側から幾つもの縄が怒涛の如く式神に伸びていく。複数の異なる色の糸で寄り合わせて造られた極彩色の縄は、式神の身体を縛り上げ口を塞いだ。簡略化されたとはいえその効力は絶大で、式神は藻掻くことも出来ずに固定され沈黙した。修祓までに至らないのは、幻界の呪詛に阻害された為か。だが、たった一言で紫乃が向かい合った六体の式神をあっさりと拘束してしまった。紫乃は、その光景を瞠目して見つめ、ミカンに向き直った。

「流石に距離があり過ぎるな。だが、不動明王の羂索けんさくだ。容易には抜け出せない。これで少しは静かになった」

「先生……すみません」

 消え入りそうな声で紫乃は言った。

「どうして謝るんだい?」

「私、何も出来ずに」

「そんなことはない。突然の災難に十分な対処をしたね。無事で良かったよ」

「でもっ、先輩が……さっき、音がしたんです。恐らくあれは銃声で――」

「彼は生きているよ」

 紫乃が言い終わるのを待たず、師は断言した。

「先輩の魂が見えますか?」

「うん。見える。ちょっと特殊だ……彼は、紫乃がいる場所よりも高い位置……上階にいるようだね。マロンもいるのか。彼の他にもう一人……いや、二人か」

「え、二人ですか?幻界の術者でしょうか」

「……」

 紫乃が聞くと、師は暫し押し黙った。

「……すまない。一人だ」

「……多分、件の組織の人です。組織の名前を出した時、態度が変わったんです。それに狙いは九十九先輩……」

「そうか。余ほど重要なもののようだ。だが、そのもう一人の人間の魂に翳りが見える。大分弱っているのかな。彼とマロンは良いコンビのようだよ」

 そう言って、声は曖昧に含み笑う。

「先生……私は、どうしたら」

 目を伏せる紫乃に、ミカンは僅かに身体を動かし、首を捻って紫乃に視線を向けた。

「僕もそちらに向かいたいが、学校の敷地に張り巡らされた結界が少々厄介だ。外部からの進入を阻んでいる。どうやら二重に仕掛けられていてね。外側のものに比べて、内側の結界が随分と複雑だ。昨日、今日のものではない。これも奴らの仕業だろうかね」

「そんなっ」

 以前から長期的に仕掛けられた結界。そんなものが存在していたなんて。この学校に通っていたというのに全く気付かなかった。

「そんな顔しない」

 師の声は優しく、どこか諭すような声色だった。

「気付かないのも無理はない。この内側の結界は、一定領域をただ区切る為のものではなさそうだ。ある種の感知器のような……金剛夜叉明王こんごうやしゃみょうおうの守護結界だな。それが外側の結界と干渉し、転変したのか。ほう……」

「せ、先生?観察している場合じゃ……」

「あぁ、すまない。そうだったね」

 紫乃の師は、こうして時々思考の沼に嵌って抜け出せなくなってしまう。これが先生の悪癖かな、と内心呆れながらも微笑ましい一面でもあった。

「紫乃。君はこの学校をどう見る?」

「……幻術が掛けられている、と思います。相当な術者のものかと……実際に見るのは初めてですけど」

「しかし、幻術にしては些か呪詛が強すぎるような気がするね。卓越した幻術というものは、こうもあからさまな怨嗟を表に現わさない」

「怨嗟……」

 そう呟いて視線を窓に向けた。相変わらず、人間の臓物を思わせる肉塊がおびただしく這い回っている。

「何とも醜悪。凄まじい呪詛が顕在化し、形を持って現れたものだよ。妖怪変化にも成れない不安定な存在。これを『かい』と呼ぶ」

 紫乃は生唾を飲み込んで、窓を睨みつけるように見るミカンを見上げていた。

「幻術はペテンだ。精神支配のすべなんだよ。あくまで対象の主観を捻じ曲げ騙す。現実に現れているとするならば、それはもう幻術じゃない」

「……外からその……傀が見えているんですか?」

「ああ。はっきりとね。結界で覆い隠されているけど」

 紫乃は、内心で得心が行った。

結界は、一定領域を隔絶し進入を阻む、或いは内に閉じ込め封する呪術だが、中には結界内を遮蔽しゃへいする結界も存在する。単純に内側を覆い隠すものから風景を偽装するものまで様々だ。偽装されているなら、通常は結界を張られているという認識すら難しい。しかし、師には結界のその内側が視える。を持っている。

「でも先生。実際にある階層から抜け出せないんですよ。これは、幻界じゃないんですか?」

「確かに、幻術の中には精神を幽世に近付け、虚構の世界を魅せるものも存在する。あくまで近付けるだけ。下手をすれば、魑魅魍魎ちみもうりょうが溢れ、百鬼夜行となるからね。紫乃。いいかい?君達は幻術に掛けられているわけじゃない」

 ミカンの縦長の瞳孔が紫乃を見据えた。

「幽世にいるんだ」

「それって……」

 紫乃の言葉はそこで途切れた。紫乃とミカンが同時に教室後方の戸に視線を向けた。

 泣き声だった。嬰児えいじの泣き声がどこからか聞こえる。その声に無性に不安が掻き立てられ、肌が粟立つ。

「な……何で赤ちゃんの声が……」

「……の……紫乃っ……聞こえ……」

「せ、先生っ!?」

「もう……し……声は……そこに……」

 嬰児の泣き声が聞こえたのと同時に師の声が途切れ始め、ノイズが混ざる。ミカンの姿も二重、三重に歪んで、やがて搔き消えた。

「何で……どうなってるの」

 そう顔を蒼白にして呟いた時、別の音を耳が捉えた。

 すぐ目の前で、バキバキと何かが砕ける音がして視線を移す。檻に拘束した式神だった。

 六体の式神は、その縋るような嬰児の泣き声に呼応するように動き出していた。師の不動金縛りの羂索も断ち切られ、紫乃の呪符による檻は無残に破壊されていた。

 どっと冷や汗が流れて背筋が凍った。六体の式神は次から次へと檻から出ると、紫乃に目もくれず戸へ殺到し出て行ってしまった。恐らく泣き声の元へと行ったのだ。

 紫乃は動けなかった。懐の呪符さえ取り出すことが出来ず、硬直してその光景をただ見つめていた。

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