フロント嬢の憂鬱

「・・・・・・お疲れ様です」

「はい。お疲れさん」



 そんな一言わすだけで、今日の業務ももう終わり。裏に下がり、廊下の先にあるロッカールームで私服に着替え、少し大きめのかばんに今晩洗濯するブラウスとストッキングをめ込む。その鞄を背負い、普段ならそのまま従業員用扉から直帰する足を左に向け、裏通路のはしからロビーに出て階段へ。気分が落ち込んだ時ほど、この階段下に足が向く気がする・・・・・・。


 一つ階を降りると、夕食の時間だからか誰一人いない浴場前に辿たどり着く。暖簾のれんをくぐり中に入ると、案の定かご一つ使われていない、ただ広いだけの脱衣場が広がっていた。



(なんか今日は一段と疲れたな・・・・・・何でいつも私なんだろう・・・・・・)



 ため息一つ吐きながら、奥のすみに荷物を下ろす。ここなら、誰が来ても直ぐには邪魔にならないだろう。お客様に顔を見られる仕事だから、出来るならこんな暗い顔が見られたくないというのは自分の唯一と言っていいほどの小さなプロ魂。だから、大体この奥まったところで着替えるんだが・・・・・・一番は、嫌な先輩あいつの顔を直ぐ発見できる位置でなんて着替えたくなかったからだったりもする。終業後にまで嫌な顔――見たいやつなんて居ないんじゃないかな。


 想像しかけた嫌な顔を消そうと頭を降り、服を脱ぐ。制服のままここに来れたら楽なのに・・・・・・。一応お客様に見られないようにとの配慮はいりょだそうだが――結局使用許可があるのだから、意味なんてあるのかな?顔覚えている人だっているだろうし・・・・・・と思うこともあるが、サービス業ならではと諦めるしかない。


 まとめていた髪をほどき、タオルと愛用のシャンプー達を鞄から出す。よし、準備ができた。やっと会える・・・・・・。


 愛しの癒しおふろに会うために、引き戸に手をかけた。




***


「はぁ・・・・・・気持ちいい」



 あせらず先に体や髪を洗い終え、長い髪をゴムでめてから肩まで浸かる。やっと会えた癒しに、心の底からのため息がれる。終業後のこの至福しふくの時間がなければ、とうに辞めていた。本当に心の安寧あんねいを保つのに、この癒しには感謝してる。


 折角せっかく新天地で就職したにも関わらず、合わない人の方が多いこの会社。一人一人能力があっても、集まるとマイナスにしかならないとか・・・・・・本当に驚いた。地元のバイト時代はプラスになることがあっても、マイナスになんてならなかった。これが会社勤めか・・・・・・と思ったが、どうやらこの会社だけのよう。周りの宿屋は違うらしい、と別宿の日帰り入浴仲間じゅうぎょういんに聞いた。正直、選ぶ会社を間違えたと思った。


 でも、この癒しは他のところと少し違ってる。この温泉地で、源泉の真上に立つ宿屋はここだけ。おかげで天気に左右されやすい天然温泉の温度は、例え雨の日だろうと高温を保った湯船が多い。寒い日だろうと芯まで温まる。それだけは選んだ自分を少しだけ褒めたところだった。まあ、対お客様だから嫌な先輩やつと対する時間も少ないのは、サービス業ならではかもしれない。



(ほんと、あの先輩ひとの考えてる事・・・・・・わかるけど、わかりたくないわ・・・・・・)



 自分の好きな子だけ優遇する人。私見では、どこの会社に行ってもいるだろう人。そんな人にゴマをってまで出世したいかといえば、出世がしたいわけではないので全力で遠慮する。


 自分はただ、幼い時に接してくれた優しいフロントおねえさんのようになりたかっただけ。だから、陰口を叩かれようが理不尽に叱られても、お客様の前では笑顔で頑張ってたけど・・・・・・最近は特にひどい。ほんとモラハラで訴えてもいいと思う・・・・・・面倒だけど。


 ただ単に、私の結婚が気に食わないってだけって言うのが笑えるところ。人の幸せを祝わずにけなすから、自分に幸せが来ないんだと思わないのかなぁ。まあ、そんな人と会うのもあと少しだけの我慢だし。


 心の安寧は癒しのおかげで保たれているけど、体調面に不調をきたす様になってしまった。まさかのドクターストップ。もうこの癒しとの逢引あいびきもできないなんて口惜くちおしい・・・・・・。あと数週間だけ、このをお供に頑張ろうと思う。




 今日も残り数週間で出会えるお客様のために、嫌な感情も泡と一緒に洗い流す。心の安寧を保つための逢引きに、しばしの時間いしれた。

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