第二話 山野家の日常 二
──今日はヒマリが五歳になる誕生日。
アイカはパート勤務をいつもより三十分早く終わらせた。勤務先である複合スーパーの文具コーナーに立ち寄り、ヒマリの誕生日プレゼントであるクレヨンセットを購入して幼稚園に迎えに行く。
「こんにちはーっ。ヒマリの母です」
「ヒマリちゃんのお母さん、こんにちはー」
「サキ先生、こんにちは。ヒマリー!」
「はーい! ママー!」
アイカはヒマリの手を取りヒマリの制服、リュックサック型のカバン、少しずれた帽子を整え幼稚園をあとにする。
「サキ先生、さようならーっ!」
「はーい。ヒマリちゃん、さようなら。また明日ね」
アイカは今日も帰り道でヒマリとの会話を楽しむ。
「ヒマリ、今日は幼稚園で何をしたの?」
「えっとね……英語のお勉強して、お絵かきして遊んで、その後、皆で遊んだの!」
「そうなんだ? どんな英語をお勉強したの?」
「色んな英語を覚えたんだよ。犬さんはドッグ、猫さんはキャット、お母さんはマザー!」
「わぁ、沢山覚えられてヒマリは偉いわね! お絵かきの後は皆と何をして遊んだの?」
「んとねっ! 『マザーズアタックごっこ』!」
(……なっ!? 何その危険な香りがする名前の遊びはっ!?)
ヒマリの発言でアイカの表情が曇る。
「えっと、ヒマリ? 『アタック』ってどういう意味か知ってるの?」
「うん! 友達のユウト君がお塾で英語の勉強してて教えてくれたの。『攻撃』って意味だよ」
(塾で英語習ってる子も居るのね……ヒマリにもそういうの、考えた方が良いのかしら?)
諸々、疑問に思いつつアイカは質問を続ける。
「で、ヒマリ? その『マザーズアタックごっこ』だっけ? ……どんな遊びなの?」
「んとね、『マザーズアタックごっこ』はね、順番に皆のお家のママが怒ってる時の言葉を言って……それでね、他のお家で聞かない言葉だったら勝ちなの!」
(……なっ!? なんて危険な遊びなのかしらっ!? 何かとっても嫌な予感がするんだけど!?)
アイカの頭に一抹の不安がよぎる中、恐る恐るヒマリに訊ねる。
「えっと、ヒマリ? その……ヒマリの順番の時は何て言ったの?」
「うん、ママ。最初はね。『ウチはお金がないんだから!』って言ったけど、これは皆のお家でも言われてたから勝てなかったの」
(……ちょっ!? なんて辛辣な遊びなの!? 明日からサキ先生に会うのが気まずいんだけどっ!)
「そ、そう……皆のお家でもそれは言われてるんだ? へえ……で、他にヒマリは何て言ったの?」
「二回目はね! 『へーじつは発泡酒一本!』これはヒマリが勝ったんだよ! ママ? ヒマリ、凄いでしょーっ!?」
「……」
(な、何それ!? ……何かっ、凄い恥ずかしいんだけどっ!?)
アイカは俯きながら手で顔を覆う。そして重たい口を開く。
「ヒマリ? その……『マザーズアタックごっこ』は……あんまりしない方が良いと思うな。うん、ママはそう思う」
「ええっ? すごく面白いんだよー?」
「うーん、お友達のママ達もきっと同じ事言うと思うなぁ。今度、お友達に聞いてみてよ」
「うん、わかったー。皆のママがダメって言ったらやめるね」
「分かってくれた? ヒマリはいい子ねっ」
(ふぅー……子供の遊びは残酷ね。知らない所に危険がいっぱいだわ)
そうして歩いていると、いつも通り過ぎる細い路地の前でヒマリが足を止めた。
「ヒマリ? どうかしたの?」
「ママ、これ見て?」
「うん? 何?」
ヒマリは小さな手で路地の壁を指差した。そこには昨日までなかった奇妙な落書きが描かれていた。特に何かを描いている訳ではない、抽象的な模様の落書きだ。
「もう、困った事をする人が居るのね。ヒマリは壁に落書きなんてしたらダメよ。お絵かきはお絵かきノートにねっ」
「うん、分かってるよー! でもこの絵、なんだか不思議な感じだね」
「そう? さあヒマリ、帰るわよ」
アイカは立ち止まって壁の落書きを眺めようとするヒマリの手を引き帰宅する。そして、ヒマリの誕生日ケーキを購入しながら帰宅したコウスケと共にヒマリの誕生日を祝う。
「今日はヒマリの好きなクリームシチューよ」
「わーい! ありがとう、ママーッ。甘ーい人参いっぱい入ってる?」
「ええ。ヒマリは地元特産の甘い人参が大好きだもんね。しっかり入ってるわよ」
「ヒマリは人参が好きなんて偉いなぁ。パパは子供の頃は人参苦手だったのに」
「そーなの? ヒマリは甘ーい人参、大好きだよ!」
「そうね。人参いっぱい食べて、大きくなると良いわねっ」
ヒマリが好きなクリームシチューの中に入っている甘い人参は、この地方で栽培されている特産品だ。街の名前が付けられた人参で、街をあげてブランド野菜として栽培している。ヒマリは大好物のシチューにケーキ、新しいクレヨンセットをとても喜び、夜はクレヨンセットを抱いて眠りについた。嬉しそうに眠るヒマリの姿をアイカとコウスケが満足げに見つめる。
「ヒマリったら、よっぽど嬉しかったのね。明日はクレヨンセットを幼稚園に持っていくんだって」
「そんなに喜んで貰えたらこっちも嬉しいな。それにしても、本当に幸せそうに眠ってるね……」
コウスケは少し照れつつ、アイカを後ろから抱きしめて感謝を伝えようとする。
「ママ、いつもヒマリの事、しっかり見てくれてありがとう」
「ちょっ! どさくさに紛れて何してんのよ! そんな事しても何も出ないんだからね!」
「べ、別に下心があってやってる訳じゃないよっ。こういう機会だし、いつもの感謝の気持ちを伝えようとしただけだって」
「ふんっ!」
言葉の上では抗いながらも……アイカはコウスケの両腕を受け入れた。ちょっと照れ臭いこんな夫婦の光景も山野家の日常だ。ヒマリ、五歳の誕生日。山野家の夜は皆が幸せな気持ちに包まれた。
……しかし翌日、家族を揺るがず事件が起きてしまう。
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