新地の出会いと別れ
夏休みに入ってすぐの日、名古屋へ家族旅行。
名古屋に着いて真っ先に出た感想はとにかく「暑い」の一言だった。
こんな所がフィギュアスケートの聖地だなんて到底信じられない。
むしろこんなにも暑いから、スケートリンクに避難してスケートに触れているのだろうか。
真偽は不明だが、とにかく名古屋の暑さに早速ギブアップしそうになっていた。
それでも楽しくないわけではない。家族全員でこうやって旅行に来ることがあまり無かったので、行きの新幹線からめいっぱい楽しんでいた。
一番最初は名古屋港水族館へ向かった。
この日本一の大きさを誇る水族館に足を踏み入れた瞬間に現れた、暗くも青く光る光景に息を飲んだ。
「リリィ、見て見て!イルカ!」
と妹の紗奈が水槽にへばりつき、目を輝かせる。
「このまま行ったらイルカショー見れるよ、行こう」
と母に促され、次々と進んでいく。
「ねえ一番前行きたい、濡れたい」
「あんた着替え持ってきてないのよ」
「カッパ買ってよぉ」
「買わない、真ん中らへん座るよ」
と一悶着を起こし始める母と妹を尻目に父に目をやる。
「私と紗菜だけなら前でいい?」
「……きみあとでスケートリンク行くんだよねぇ?」
「………ハイ」
イルカに水を掛けられる経験も興味があったが、今日の装備と予定は許してくれないようだ。
諦めて濡れやすいとされる席の真後ろに座った。少しの水しぶきくらいなら届くだろう。
周りの席が次々と埋まって行き、ついにショーが始まった。
シャチが水中から飛び上がり、プールの壁スレスレで思いっきり水に飛び込むと大量の水が観客席に飛んでくる。
リリィ達が座っているところは服に少し水滴が飛ぶ程度だったが、プールからかなり離れた位置でも水が届くほどの迫力にすっかり目を奪われていた。
明るいトレーナーの声に合わせて芸をするイルカやシャチを必死に目で追っているうちにショーはあっという間に終わりを迎えた。
この席を立つのが惜しい気もしたが、ここを出ればまたさらに他の綺麗な生き物に会えるのが分かっているので、みんなプールやステージを振り返ることなく出て行く。
その中でリリィは特に理由はなく、後ろを振り返った。
もうイルカもトレーナーもいないプールとステージだったが、その場所はまた次の客を楽しませるための、決して交わることがない人間と海の生き物を一時的に繋ぎ合わせるこの上なく尊い場所なのだと思った。
その後も深海の生き物やペンギンを見、某CGアニメ映画で有名になった熱帯魚を見て興奮し、ヒトデなどの生き物に触れられるブースで名前もわからない生き物を指一本で辛うじて触ってゾッとし...こんなふうに楽しんだ日を最後に経験したのがいつだったかも思い出せないほどスケート漬けの毎日からほんの少しだけ抜け出した空間に浸っているうちにお土産売り場に到達した。
とうとう出口が近いのだと誰にも言われなくても分かってしまう寂しさが込み上げる。
でもお土産売り場は最後の最後で気分が上がるように出来ている。
「リンクのみんなにお土産買おうかな」
「こういう個包装のお菓子とかね、いいんじゃない?選んでおいで」
と母の言葉に甘え、ゆっくり見ながら何を持って帰れば喜ばれるか考える。
最初に顔が浮かんだのはいつもリリィに根気強く教え続けてくれる安村コーチとその娘の優香、容赦の無い言葉を吐きつつも仲間として長年一緒にやってきているまち、銀河、常にみんなのお手本の柚樹、誰に対しても優しい冷生、そして悔しいが聖子の顔も浮かんだ。
「...10人にあげられそうなものでいっか...」
と個包装のお菓子を一箱、そしてコーチのために海の生き物のマスコットが入ったハーバリウム風のボールペンを選んだ。
昼前に来たが、もうそろそろ夕方と言っていい時間になっていた。
日本一大きい水族館は流石の満足感だったが、楽しみはこれだけでは無い。
これから、また別の場所に向かう。
この旅行の当初から黄昏とは違うスケートリンクへ向かうことを予定しており、予定通り今からその場所へ向かうことになっていた。
到着したのは名勝スポーツセンター。
駐車場には車が何台も停まり、それなりに人気な場所なのだと分かる。
しかし夕方になったからか、いざ氷に上がってみると思ったよりも人が少ない。
少しはいつも通りに滑ってみてもいいだろうと、スピードを上げてみる。
現地のクラブ生もいるようで、フィギュアスケートの動きをしている年の近そうな子もいた。
なるべく彼らには接触しないようにしつつ、一体どこの誰の曲なのか分からない音楽に合わせて適当に体を動かして、大勢の人が滑って荒れた氷を滑る。
「製氷入りまーす!上がってくださーい!」
とアナウンスされ、やむを得ず氷から上がることになる。
氷から上がり、もうこのまま今家族が暇つぶしにいるらしいリンクの外にあった小さめの商業施設に行ってしまおうかと考えた矢先
「ねぇ、もしかしてどこかのクラブに所属してる?」
と声を掛けられる。
怪訝な顔を隠さずに振り向くと、同い年くらいの少年が立っていた。
「うん、まあ…えっと」
といきなり話しかけられて困惑していると
「時雨、野護時雨だよ」
「しぐ...え...?」
聞いたことがある名前だ。
「はは、変な名前だよね。よく言われるよ、珍しい名前だねって」
「いや、違う...聞いたことがあるから。あの、坂木銀河って子がいるんだけど」
銀河の名前を出すと、時雨と名乗る彼は目を見開く。
「え、銀ちゃん?銀ちゃんと一緒に練習してんの?」
「うん、銀ちゃんと同じクラブ...」
「つまり高村柚樹くんとか聖子ちゃんと同じクラブって事だよね?」
その通り。でも今のリリィには
「すごい選手と練習しているのに、年の近い選手にすら知られていない底辺」
と過った。もちろん相手はそんなこと一ミリも思っちゃいないだろう。
これは自分自身の気持ちの問題だとすぐに切り替えて笑顔を見せる。
「銀ちゃんに会ったって言っとくね。私そろそろ行くから」
「もう少し滑っていけばいいのに…もうすぐ製氷終わるよ?」
「家族待たせてるんだ、いつかまた滑りに来れたらいいな」
と返し、なんとかリンクを出た。
初めて試合以外で黄昏FSCの人と会話をした。
いや、この程度の会話試合ですらしてこなかった気がする。
人見知りというわけではないのだが、特に試合となると身内とすら会話が面倒になるのだ。
会話をして緊張を紛らわせるタイプもいるが、リリィはとにかく黙っていたいタイプのためそりゃあ試合で友達などできない。
だからこの経験は特に貴重だった。彼の言う通りもう少し滑ってあそこのクラブ員をあと少し知ればよかったかもしれない。
「また来れるかなぁ…」
そう呟いているうちに店の自動ドアを潜った。
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