第三章 月と狼の伝説

track.41 妹

 英国国家機関の諜報員、ノエル・スライザウェイとフェンリルに関わる一連の事件が解決し、僕らは何事もなかったかのように夏休みを過ごしていた。

 でも、このひと時の平穏は、いわば嵐の前の静けさに過ぎなかったのかもしれない。



 そう、彼女の出生にまつわるあの事件のね……。



 というわけで、夏休みも三分の一が経過し、季節は八月を迎えていた。

 僕はと言えば、地球温暖化、ヒートアイランドもどこ吹く風、エアコンのきいた快適な部屋で霧島と楽しく……。



 「霧島、ギターを教えてくれるのはありがたいけど、こう毎日一日中弾いてたら、その……」

 「いいえ、私が責任をもって教えると決めたのだから、しっかり教えさせて。私は全然大丈夫よ」

 「いや、その……もう僕の指が……」



 最初は夏休みなのに毎日霧島に会えることをちょっと嬉しく思っていた。だが、霧島は加減を知らなかった。

 ジョン・レノンみたいな丸メガネをかけた霧島 摩利香の楽しいギター教室は、指から血が出るほどの過酷なものになっていたのだ。



 「そ……そうね、朝八時からぶっ通しだし、そろそろお昼だから何か食べに行きましょう」

 「うんうん、そうしよそうしよ!」



 僕はここぞとばかりに霧島の提案に乗って、満面の笑みを浮かべていた。

 何も言わなければ、このままお昼を食べるのも忘れていただろう。彼女がもし経営者になったら、おそらくブラック企業になるのは間違いない。



 「で、何を食べに行こうか?」

 「そうね……えーと、この前行ったその……豚の……」

 「ああ、鬼豚野郎ラーメンのこと?」

 「そ……そう、あれが食べ……たい」



 霧島は少し俯いて顔を赤らめながら言った。

 鬼豚野郎ラーメンは、今はやりのニンニク・野菜・背脂がっつり系ラーメンだ。この前、たまたま彼女が興味を持ったので、入ってみたら思いのほか気に入ったらしい。まあ、中身は肉食獣だしね。



 てなわけで、僕らはうだるような暑さの中、歩いて数分のところにある鬼豚野郎ラーメンに向かった。

 休みの日の霧島は、黒いポロシャツ地のワンピースというラフなものだった。いつもよりボディーラインがはっきりしているので、彼女の華奢な体が際立っている。

 で、通り過ぎていく人たちは、霧島を見て振返る振返る。すっかり慣れてしまっていたが、やはり彼女の端正な顔立ちは目につくのだ。

 


 「どうやら、まだそんなに混んでいないようだね」



 僕は額の汗を拭いながら言った。十二時前に来たのが吉だったようだ。この暑さの中、並ばされちゃ敵わないからね。

 店内に入った僕らは、カウンター席に座りメニューを眺めた。



 「あっついから、つけ麺がいいかな……。霧島は決まった?」

 「ええ……決まったわ」

 「じゃあ、注文お願いします。特製つけ麺並盛で! 霧島は?」

 「……ニンニクラーメン、チャーシューましで」



 霧島の注文を聞いて、店員はギョッとした様子だった。こんな華奢な美少女のする注文とは思えないからね。

 あと、ここのラーメンは基本入れないでと言わなきゃニンニクがのっているから、わざわざニンニクラーメンなんて言う必要はない。きっと何かと勘違いしているのだろう。



 「好きなんだ、チャーシュー?」

 「肉、好きだもの……」

 「でしょうね……」


 

 なんやかんやで、がっつり系のラーメンをたらふく食べた僕らは、再び炎天下の外へと出た。

 僕は食べ過ぎた感が否めなかったが、霧島はお肉をいっぱい食べられてご満悦の様子だった。



 「早く帰らないと、暑さで溶けちゃいそうだ……」



 僕らはできる限り日陰を通り、少し遠回りしてコンビニにでも寄っていこうと思っていた。それが良くなかった。このときばかりは、まっすぐ帰っておくべきだったんだ。



 「あ、吾妻、マリリン?」



 しまった、出くわしてしまったか。この鬱陶しくて胸焼けしてしまいそうな程快活な声の主なんて、もう奴しかいない。



 「毘奈と、い……伊吹!?」

 「お、お兄ちゃんと……え!?」



 それだけならまだ良かった。問題なのは、毘奈が自分の分身体ともいえる、僕の妹の伊吹を連れていたことだ。

 毘奈と伊吹は、似たような夏物のキャミソールを着て、さながら姉妹気取りって感じだった。二人で買い物にでも行っていたのだろう。

 しかし、どうしよう。妹は霧島に会うのは初めてだし、このシチュエーションをなんて説明したら良いものか……。



 「那木君の妹の伊吹さんかしら? 霧島 摩利香です。お兄さんにはいつもお世話になっているわ。よろしくね」



 なんてことだろう。僕が右往左往していたら、あの霧島が実に模範的で好感のもてるような挨拶をして手を差し出した。……いや、良かったのか?

 しかし、それを聞いた伊吹は雷にうたれたような衝撃を受け、毘奈の後ろに隠れてしまったんだ。



 「ちょっと、どうしたの伊吹ちゃん?」

 


 伊吹は最大限笑顔を作っている霧島を、まるで猛獣を警戒する小動物のような目で見ていた。

 それがショックだったのか、霧島は手を差し出したまま凍りついてしまっている。何とかしてくれ、コミュ力モンスター。



 「あはは……伊吹ちゃん、マリリンは怖くないよ! だからね、ちゃんとご挨拶しよ!」

 「う……うん、毘奈姉がそう言うなら……」



 伊吹は毘奈の後ろに隠れたまま、ゆっくりと手を前に伸ばしだした。

 それを見た霧島は少し息を吹き返し、再び微笑しながら伊吹と握手をしようとしたのだが……。



 「い……伊吹!?」



 霧島と伊吹の手が触れそうになった瞬間、伊吹は再び自分の手を引っ込め、毘奈の後ろに隠れてしまった。



 「……」



 無言の霧島から“ガーン!”という心の声が聞こえてくるようだった。妹の反応に、さすがの毘奈もたじたじだった。

 


 「あ……ああ! マリリン! 心配しないで、伊吹ちゃんはその……そうそう、人見知りだから!! ね、ねえ、吾妻?」

 「ん……ああ、そうそう! 伊吹も緊張してるみたいだから、また今度ゆっくり挨拶しよう!」



 と、僕と毘奈は適当に話を合わせ、二人を離すようにその場を後にした。

 もちろん、妹の伊吹は人見知りなんかじゃない。おそらくだが、霧島を伊吹の進める壮大なプロジェクトの最大の障害と判断し、敵認定してしまったのだろう。

 毘奈と伊吹と離れた後、霧島は泣きそうな顔をして僕に詰め寄ってくる。



 「わ……私、何か嫌われるようなこと言ったかしら? も……もしかして、さっき食べたラーメンのニンニクの臭いが!?」

 「い……いや、多分違うから、霧島はあまり気にしなくていいよ……」



 僕のフォローもむなしく、霧島は半ば放心状態でとぼとぼと歩いて行く。僕ももうなんて声を掛けたらいいものか分からなかったよ。

 と、寂しそうな背中をして無言のまま歩いていた霧島は、しばらくすると不意に立ち止まって言った。



 「那木君……ちょっと聞いていいかしら?」

 「なんだよ霧島、急に改まっちゃって?」

 「あの人も……佐伯先輩も、妹のことをとても大事に思っていたわ。妹って……どんなものなのかしら……?」

 「……え? 急に言われてもな……」



 霧島の真顔の質問に、僕は頭を抱えてしまった。妹がどんなものかって言われても、出てくるのは“腹黒くてドライ”……だとか、“兄のことを虫けらくらいにしか思っていない”……とか、そんな言葉ばかりだ。

 さすがに、これ以上伊吹のことについてネガティヴなことは言えないので、僕は無理矢理前向きな言葉を絞り出したのだ。



 「ま……まあ、家族なんだから、水とか空気みたいなもんなんじゃないかな? 普段はありがたみがわからないけど、いなくなったら困る大切な存在というか……」

 「そう……」



 何故だか霧島は、とても寂しげな顔をしていた。まるで遠い昔、何か大切なものをどこかに置き忘れてきてしまったかのように、彼女は儚げに微笑して呟いたんだ。



 「何だか、あなたたちが羨ましいわ……」

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