track.28 悪戯好きの妖精

 あの後、僕は疲労困憊でベッドに倒れこみ、気が付けばスズメが楽しそうに朝チュンをしていた。

 目覚めの良くない僕へ、母親が追い打ちするように下から大声を上げる。



 「吾妻、いつまで寝てるの! 遅刻するわよ!」



 しまった……早く学校に行かなければ。相変わらず背中も痛いし、休んだ気がしやしない。

 いっそのこと、怪我の痛みがぶり返したことにして、休んでしまおうかとも思った。

 だが、そうも言っていられない。今日は、何としても霧島に伝えなきゃいけないことがあるんだ。



 「全くもう、なんであいつは携帯持ってないんだよ!」



 まだ確信はないが、あのイギリス人の転校生のことは、早めに霧島に言っとかなきゃならない。

 ゆっくり二度寝なんかしている暇なんてないぞ。昨日みたいに、朝一霧島に会えるだろうから、そこがチャンスだ。



 「行ってきます!!」

 「ちょっと、吾妻! 朝ごはんどうするの?」

 「ああ……急いでるから、これだけもらってく!」



 僕は食卓に並んでいたチョコの塗られたパンを口にくわえ、弁当をカバンの中に放り込むと、ずっこけそうになりながら家を飛び出した。幸いにも、今日毘奈は朝練で会うことはない。

 しかし、家から出た後、パンだと思って口にくわえたのは実はエクレアで、中にはたんまりとクリームが入っているのに気付く。

 僕はエクレアの中から溢れてくるクリームと格闘し、小走りしながら霧島と接触できるポイントを目指したんだ。



 「うぁ(あ)! ひりひま(霧島)!」



 朝から口の周りをチョコレートとクリームだらけにして、急いだ甲斐があったってもんだ。

 霧島は昨日と同じように、数十メートル先を赤石と一緒に歩いていたんだ。僕は脇目も振らず、霧島へ向かって駆け出そうとした。



 「ぶぅはぁ!!」



 そこで焦ったのがいけなかった。僕は横の道から出てきた人にぶつかって、僕も相手もひっくり返ってしまったんだ。



 「す……すみません! 大丈夫ですか!? ……て、へ?」

 「アゥ……オー・マイ・ガッド! ワット・ハプン?」



 なんてこった。僕は今この瞬間、この世界で一番会っちゃいけなかった奴とぶつかってしまったんだ。我ながら、驚異的な運の悪さだよ。

 しかも彼女の真っ白なブラウスには、僕が食べていたエクレアのチョコがべっとりと付いていた。


 

 「ごごご……ごめん、ノエル! どうしよう……クリーニング代払うから……いや、でもこれから学校だし! の……ノエル……?」



 朝からこんな大惨事に直面し、それでもノエルはへたり込んだ僕の顔を見ると、不敵な笑みを浮かべて擦り寄ってくる。



 「朝からどうしたのかなー、アズマ? そんなに慌てちゃって……」



 そう言うと、僕の引きつった顔に付いたエクレアのクリームを、ノエルは人差し指で取ってぺろりと舐めて見せた。

 その仕草が、あまりに妖艶であったもんだから、僕の心臓は彼女にも聴こえているんじゃないかってくらい、激しく高鳴っていた。



 「うふふ……隠し事をしている嘘つきの味がするわ」

 「……へ……ええ!?」

 「ジョークよ……何か思い当たる節でもあった……?」


 

 やばい、やっぱりこの子、僕のことをまだ疑ってるんだ。

 しかしどうする? 早くしないと霧島には追い付けなくなってしまう。だけど、このままノエルをおいてくわけにも……。

 僕の焦りを感じとったのか、ノエルはわざとらしく声を上げた。


 

 「あ~あ、朝からこんなにアズマに汚されちゃった。どう責任とってもらおうかしら?」

 「ちょ! ノエル、言い方!!」



 道行く人たちは、僕とノエルのやり取りを聞いて、皆んなヒソヒソ話をしながら過ぎ去っていく。

 勘弁してくれ、これじゃまた僕に関する根も葉もない噂が広まってしまう。僕は慌てて立ち上がり、その場を取り繕う。



 「あー! ごめん、僕がぶつかったばっかりに! 先生には言っとくからさ、早く帰って着替えて来た方がいいよ! 後でクリーニング代払うからさ!」



 もう今はこれしかない。早くノエルと別れて霧島を追わないと、今日はもう話せなくなるぞ。

 僕の渾身のひらめきであったが、まるでノエルは僕の企みを見抜いているかのように、僕を彼女に釘付けにさせてくる。



 「ダーメ、許してあげない。今からちゃんと責任をとってもらうわ……」

 「せ……責任って、一体何を?」 



 ノエルは埃を払いながらゆっくりと立ち上がると、したり顔をして徐に右手を差し出したんだ。



 「今日一日、私のバトラー……執事になってくださる? こっちにはいなくて不便だったの」

 「は……はい?」



 意味が分からなかった。そりゃ、僕だって執事がどんなものかなんて漠然と想像はできる。お茶や食事を運んできたり、身の回りの世話をしたり、要はちょっと格式高い召使いみたいなもんだろ?

 問題は彼女がこの僕を執事なんかにして、一体何をさせようとしてるかってことだ。いずれにしろ、そんなものになってしまったら、霧島に会いに行くどころではない。



 「あの……ノエル、申し訳ないけど……そういうのはちょっと……」

 「あら、執事では不服かしら? もし執事が嫌だったら、ステディ……もしくはスレイヴでもいいわよ」

 「ステディ……スレイヴ?」

 「うふふ……恋人か奴隷ってことよ」

 「し……執事でいいよ!」



 やれやれ、エライことになってしまったぞ。僕はノエルにいいように言い包められ、今日一日彼女が僕の主人となったのだ。

 まあいい、執事でも羊でも一日くらいなら我慢してやる。今は早く霧島の後を追わなくては。



 「じゃあノエル、僕は先に学校に行って、先生に君が遅れることを伝えておくよ!」



 もう既に霧島は見えなくなっていた。僕は急ぎたいがあまり、ノエルの思惑も考えようともせずに無理矢理彼女を煙に巻こうとする。

 ところがどっこい、この妖艶で悪戯好きの妖精が、そんなことを許してくれるはずがなかった。彼女は僕の腕を掴んで言った。



 「ちょっとアズマ、主人を置去りにする執事がどこにいるの? 一緒に来なさい」

 「……へ? どこに?」

 「そんなの、私の家に決まっているでしょ?」

 「は……はあー!?」



 後ずさる僕を尻目に、ノエルは満面の笑みで僕の腕を引いた。

 冗談抜きで、本当にエライことになってしまった。僕はノエルという底なし沼に足を取られ、想像もできない深淵へと引きずり込まれようとしていたのだ。

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