ヨハンはもういない。結局、鬼はダミーなんて関係なく、ヨハンを見つけて食べてしまった。


 もちろんヨハンは、自分が鬼に食べられる可能性が極めて高い事をわかっていた。私はママの話を隠さずに伝えたもの。ママへの揺るぎない信頼があったからこそ、死の覚悟を決めて隠れていた。


 ヨハンは必死に声を押し殺していたわ。近くに私がいたんだもの。聞こえないように、奥歯を噛み締めて堪えていた。


 それでもヨハンが最期に上げた、小さな呻き声は、この先一生忘れられないと思う。


 そして私はヨハンを食べた鬼が出て行ってから、図工室を後にした。おぼつかない足取りだったけど、何とかここまで移動した。


 ここは最初に全員が揃っていた部屋の真下に位置する更衣室。ある場所で息を殺して隠れている。


 思っていた通りの時間がきて、ビチャビチャとどこからともなく湿った音がした。腐乱死体のように水ぶくれた、青紫色の鬼が来たんだと覚悟する。


 正直、鬼の姿と異臭を思い出すだけで体が竦むし、吐き気をもよおしそうになる。


――ガタッ……ガタッ……ガタタ…………キィ。


 ここから少し離れた場所にあった用具入れを開ける音。


「いーなーいー」


 くぐもった、ダミ声が暗闇に響いた。


 またビチャビチャと音が近づく。


――ガタンッ……ガタンッ…………シャッ。


 長椅子を二つ倒して、最後に一つ設置されていたシャワーカーテンを勢い良くめくった音。


「いーなーいー」


 再びダミ声が暗闇に響く。


――ガタッ……ガタッ……ガタタ。


 音が遠のいていく? 更衣室から出て行こうとしているの? 耳をすます。


 パタン……………………。


 ドアの閉まる音がして……シン、と静まる。


 音を殺して、大きく静かに深呼吸をする。頬を汗が幾筋も伝った。


 隠れていたドアを開こうとして、震える指に気づく。一度胸の前でギュッと握って、目を瞑る。


(ママ、信じてる!)


 瞼の裏に、亡くなった母の優しい笑顔を浮かべて、自分で自分を励ます。


(絶対、大丈夫!)


 私がいたのは一番奥。棚の影になるように設置されていた、人が一人入れるだけの細長いロッカー。


 ドアをゆっくりと開けて……。


「みぃ~つけ……」


 鬼はやっぱり出て行ってなかった! 真上から聞こえた声へ反応しそうになる!


 だけど……。


「今宵は朔なり、我朔月なり! 我らを隠せし者、見つけたり! 八将神の導き願いて、満ちし扉を閉じん!」


 母の言った通りだった! やっぱりあ・の・男・はすぐそこにいた!


 一瞬、視界に鬼が映る。


 天井からぶら下がった鬼は、私のすぐ真上。大きな口を開けるから、生臭い息がかかる。鬼の口から逃げたくなる恐怖が襲う。


(ママ! ママ! ママ!)


 半ば恐慌状態に陥って、心の中で意味もなく母に呼びかけながら、私は男を指差す。


 ブルブル震える指先を向けるのは、五十代くらいの白髪の男。予期していなかった事態なんでしょうね。もの凄く目を見開いて、驚愕していた。


「……何っ……どうし……ヒッ、見るな! 何でこっちを見るんだ!?」


 鬼が口を閉じたのか、生臭い臭いが和らぐ。


 それと同時に、男は後ろに後退りし始めた。


「い、嫌だ……来るな! 来る……」

――グジュリ。


 鬼が一瞬で男の正面に移動した。瞬きする間に、男の右肩から背中にかけて大きな口で食らいつく。


「ぎぁやぁぁぁぁぁ!!」


 男は鬼に肉を引き千切られながら、後ろへと押し倒された。断末魔の叫び声を上げる男への、容赦ないグロテスクな光景に腰が抜けそう。


 ヤバイ! 過呼吸になりそう!


 目を逸らしたい! なのに見届けろと言わんばかりに、硬直した体が動かせない!


 その時だった。腰の飾りが場にそぐわないくらい、優しくて温かい光を放ったのは。


「私の娘に、ふざけた事してんじゃねえよ。雑魚が」


 あまりに突然の母の声。もの凄く不機嫌そうだけど、聞き間違えるはずがない。


 光が一気に明るくなって、残虐な光景が白く霞み始める。眩さに閉じてしまう瞼を、何とかこじ開ければ、私の目の前に誰かが立っていて……。


「……れん、か……うぐっ……れんかっ……蓮歌ぁ!」

「ママ……」


 あの男と鬼から、私を背中に庇うようにして立つのは、華奢な背中。私が病室から最後に見送った時の、母の服装が目に入る。


 あの時と違って私より低くなった母の身長に、会えないかった時間の長さを感じる。


 母は私に背を向けたまま、顔だけを軽く私に向けた。


「さすが私の娘だ。良くやった」


 私に向けた声は相変わらず優しくて、その無邪気な笑みも……最後の時と同じで……。


「ママ! 私、私っ……」

「でも、もう私を殺した犯人探しなんかすんなよ」


 光が眩しすぎて、もう目を開けていられない。思わず目を閉じた途端、脳がグラリと揺れる感覚がして、意識が途切れた。

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