こうもりむすめのはなし
田中政宗
こうもりむすめのはなし
これは、まだこの世のものごとのほとんどに名前が付いていないくらい昔の話。
あるところに、娘がいた。娘という生き物は、芽[メ]を生す[ムス]生き物ということで、ムスメという名前がつけられていた。だから、娘の仕事は、花や草木を芽吹かせることだった。
娘は、草木や花の母だから、彼らの声を聞くことができるし、会話もできた。もちろん、同じ生き物である鳥や虫と話すこともできた。なぜなら、生き物というのは、息[イキ]をする者[モノ]ということでイキモノという名前であるからだ。声は息に調子を付けて作り出すのだから、同じく息をする者ならば、会話が成立することは取り立てて語る必要はなかろう。
しかし、娘と鳥や虫は、魔物と話すことができない。なぜなら、魔物は間[マ]の者[モノ]だからだ。間の者は、まだ名前の付いていない空白の間で暮らしている者についた仮の名前である。これは、今でいうところの「あれ」だとか「あなた」とか、そういう言葉と一緒で、それ自体には実体がない言葉だ。今の言葉の「お前」が、御[オ]間へ[マエ]という、魔物の名前がかしこまった形の名残であることを考えれば、なるほど当たり前の事実である。さて、この魔物だが、実体のある名前がないから役割を持たない。役割がないと、意味がない。意味がないから、言葉がない。したがって、彼らは、生き物のように意味が付けられたものと会話できない。
とはいえ、このことはとりわけ不自由ではなかった。魔物というものは基本的に夜にしか現れない。このときはまだ、夜には生き物がおらず、生き物は昼に暮らしていた。娘は魔物と出会うことなどなかったから、話す必要もないのだ。娘はただ、魔物というものは、なんだか暗ぼったくて、形も定まっていない何かということくらいしか知らなかった。
どうして生き物は夜の世界で暮していないのか、忘れてしまった人もいるだろうから説明しておく。まず、夜というのは名付けたものが寄る[ヨル]という意味で、ヨルなのだ。名付けたものが寄ると、寄った分の隙間ができる。この隙間は名前のついていない空白で、隙間の部分にいるのは、言わずもがな、間の者、魔物である。反対に、昼というのは名付けたものたちが広る[ヒル]という意味で、ヒルなのだ。これは意味のあるものたちが広がるということであり、広がった分、空白は埋め尽くされて、魔物は居場所を失くしてしまう。そして、意味をもった生き物はそこで暮らすのだ。
実は、夜に暗くなるのは、いまだに色も形も定まっていないいくつかな魔物であふれるからであるし、昼が明るいのは、形と色がしっかり定まった、役割をもつものたちで埋め尽くされた世界だからである。
昼と夜が繰り返されるのにももちろん理由がある。昼と夜ができるもっと昔は、ものに名前がつくとき、二重に名前がついてしまうことがあった。当時、名付けをする時は、どれに名前がついていて、どれに名前が付いていないかが分からなかった、こうなると、すでに名前のついたものに名前をつけてしまうこともしばしば起こったのだ。現に、今の世界では人の住む場所や社会によって、言葉の種類が違っている。これは、二重につけてしまった名前がそのまま残ってしまったから起きた事態である。
こうした問題のために昼と夜ができた。名前のついたものたちが寄るようにしておけば、まだ名前のついていないものがひと目でわかる。けれども、名前をつけておいたものをひとまとまりにしておくと、個別の名前を忘れてしまうから、名前をつけたものの世界をほどよい具合に広げておく必要がある。こうして、寄るのと広るのを繰り返していたら、昼と夜ができた。一年で昼と夜の長さが変わるのも、名付けが難航している時と、調子のいいときの違いに過ぎないのだ。
さて、そんなこんなで娘は、昼のうちはせっせと草木作りに励んでいた。娘の草木作りというのは、単なる植物の生成、というわけではない。同時に名づけも行っている。娘が草木を作るとき、出来上がった草木には名前がない。生き物が作り上げたものではあるから、息をするにはしているのだけれど、ただ生き物というだけでは、意味も役割も曖昧で、すぐにたち消えてしまう。これを放っておくわけにはいかないので、娘はそれらに名前をつけていくのだ。名付けの時、娘はよく出来上がった生き物たちと会話をして名前を考える。例えば、聞き上手な植物には菊[キク]、無口な植物には山梔子[クチナシ]と名付けるように。
娘が生まれてから少し経ったころ、次第に世界では名付けられたものの数が名付けられていないものの数を超えてきた。しかし、依然として夜に生き物が暮らすことはなかった。
そんなある日の事だった。それは確か黄昏時だった。娘の芽吹かせた草木の中に、ひとつだけ口の聞けないものが現れた。
「あなたは花がいい? それとも、木?」
娘がそう聞くと、形の定まらないそれは身体を粘土細工のようにひねらせながら答えた。
「あじもる、ごれざ、ろぐび」
しかし、その植物が何を伝えようとしているか、娘には分からなかった。
「花?」
念のため、娘は確認すると、その植物はまたもや身体をうねらせた。
「がずぎ、ばじずぐらだ」
その様子は苦しみに満ちていた。娘には、その植物の言葉が理解できなかったが、それが苦しんでいるということは確信していた。
「木かしら?」
「ごぐぶざ、だっげ」
「もしかして草?」
「づざぼぎどっばぐ」
木でも草でも同様で、その植物は身体を波打たせ苦しんだ。娘は困った。どう話しかけていいのか分からないのだ。
娘は困った。無口なら無口な植物で良いのだが、この植物の喋ることはどうしても聞き取れなかった。
会話には応じるが、話は通じていない。娘にとってこれははじめての出来事だった。喋れるのなら問題ないし、喋れないなら喋れないと名前をつければよい。しかし、彼は確かに娘に何かを伝えようとしている。だから、彼を理解できなかった娘は大変困った。このまま名前をつけないでいると、彼は消えてしまう。娘は考えた。暮れかける太陽を、露にも気にせず。
娘がはたと気が付いた頃には、辺りは夜の世界になっていた。名付けに悩みに悩んだ結果、娘は眠ることを忘れてしまった。眠るとは[音無る]という意味で、音を静めるということだ。夜の間は名前の音を伏せることで、間に呑まれなくなるのだ。娘は驚いた。急いで名付け損ねた植物を探すと、先ほどまでいた場所には見当たらなかった。しかし、代わりにある巨大な影が、娘の前に立ちふさがっていた。
「あくま……?」
娘は口をぱくぱくとさせながら、目の前にあるものの名前をなんとか声に出すことができた。娘の眼前には、悪魔がいたのだ。悪魔というのは、空く[アク]間[マ]という意味をもつ。間者と同様に、彼は夜の世界の住人だ。
「だぐざ」
悪魔はそう呟いた。
「あなた、悪魔だったのね……」
「どが」
悪魔は、名前が付いている。しかし、その意味は間の中にいる、ということ。つまり、彼の役割は夜の中に居続けることである。魔物[間者]がまだ名前のついていない空白であるのに対して、悪魔は間に実在するが、息づかず、ただそこにいるだけである。名前がついていないものが魔物[間者]だが、悪魔は[空く間]という名を持つ。つまり、[名無し]という「名」をつけられた存在だった。彼は実態を持ち、役割をもつ。役割を持つから意味があり、意味があるから言葉をもつ。しかし、彼の意味は「意味がない」という意味なので、会話は出来ない。
しかるにして、まだこの世で孤独を知るものは悪魔ただひとりだった。意味のない意味を持つのは唯一として悪魔だけである。すなわち、彼に対する共感も、同情も、そこに生じる術はなく、彼を救う術もない。ただ一人、名付けのできる娘でさえ、彼の言葉の意味を理解できないので、娘が彼に新たな名を与え、孤独から救うことは万に一つもない。そういう意味で、悪魔は孤独であった。
「私は帰るわ! 植物たちの声を聞かなければならないもの!」
娘がそう言うと、悪魔は夜の暗闇を千切って、娘の脚に縛り付けた。娘の脚は、脚である意味を失くしてしまった。
「ごぶぎっぐ」
娘にとって悪魔の考えは依然として理解できないものだった。
「たすけて!」
娘は精一杯叫んだ。もしこの声が鶏[日発取り]に聞こえていれば、彼が日の出を取り立てて、朝をもたらしてくれるのであろうから、精一杯叫んだのだ。
すると、悪魔はまた夜の暗闇を千切り、娘の喉奥に流し込んだ。
「──!」
娘は声が出せなくなった。喉をどれだけ絞ろうと、息をするのと同じように、空気が抜けゆくだけだった。娘の喉は、喉の意味を無くしてしまった。
これにて娘は昼へ帰る術を失った。それと同じくして、悪魔の孤独は和らいだ。夜の住人に娘が加わったわけである。
しかし、悪魔はこれで喜ぶということはなかった。何も、不満足があったわけではない。悪魔には意味がないので、孤独を埋めることについても、結局意味が生じなかったわけである。
悪魔は、はじめこそ娘を捕らえて眺めていたものの、やはりそこに意味を見いだせなかった。そして、しばらくして悪魔はついに娘の前から姿を消した。娘は闇にひとり取り残された。
「──! ──!!」
娘のまわりには、声も音も無い。しかし、暗闇は見えた。暗闇だけは見ることができた。やがて娘は声を出そうとするのに疲れ、夜の空を見つめていた。
そのときはじめて、娘は孤独というものを理解する手がかりを得た。とはいえ、悪魔によってもたらされた孤独であるから、悪魔が感じていたような真の孤独ではなかった。
ふと気が付くと、娘の身体は暗闇に飲まれかけていた。脚に黒い影がさしていく。娘は怯えたが、叫ぶことはできず、ただ意味の残った目を使って涙を流すのみだった。声の意味を失った娘は、彼女自身の意味も失い始めていたのである。闇というのは、[止み]である。意味が止めば、役割がなくなり、役割がなくなれば、やがて実体も消える。娘から対話の術を奪うことは、対話によって命名する彼女自身の役割を剥奪するのだった。
その時、娘の脚に一滴落ちた。その一滴が、入れ墨のような影を落とした大腿を走った。すると、たちどころにその闇は千切れ、剝がれていった。剥がれた黒はその身を悶えさせ、娘のそばへ集まった。
これには理由がある。涙は[名実足]であり、名前と実体を付け加えるにあたっての触媒であるのだ。だから今でも涙は、名前のついていない感情のあとに流れるのである。ともかく、これによって無意味の暗闇たちは、意味と実体を求めて動きまわるようになったのである。
娘は何が起きているか分からず、恐怖で更に涙を流すと、娘の口に雫が入り込んだ。すると、咽びと共に娘の喉奥から黒い塊が飛び出した。
「一体何が起きているの……? あれ……!?」
娘は、自身の声が戻っていることに気付いた。たった今吐き出したのが、自身の喉を塞いでいた[無意味]だと分かった。
吐き出した暗闇も、脚を伝っていた暗闇も、娘の回りをバタバタと蠢いている。
「もしかして、名前が欲しいのね?」
娘は聞くが、千切れた暗闇たちは何も答えない。しかし、今回は悪魔の時とは事情が異なっていた。ひとつは、名付けの相手にまだ名前が定まっていないということ。そして大事なことがもうひとつ、娘が今は意味を持たないことの孤独をわずかに知っているということだ。
「夜が明けるまで、悪魔から私のことを守ってちょうだい」
娘がそう告げると、暗闇の切れ端は娘を包むほどの翅を成し、暗闇の塊はその体を成した。これによりこうもり[侯守]と名乗る生き物が出来た。役割ができれば、意味があり、名前も生ずる。
「どうか私を昼の元へ」
娘がそう言うと、こうもりは娘を乗せて東へ飛び出した。東は[日向し(ひむかし)]という、太陽の出る方角のことである。
こうもりはずんずん進む。昼をめがけて、月が沈むのに追いつくように、大きな翅をはためかせた。娘はこうもりの背中にしがみついて、昼の訪れを待った。その時、娘の後ろから、ごごずざごごずざと、風を切るような声が聞こえた。
「大変、悪魔が追いかけてきたわ!」
「娘よ、落ち着いて、それは私の翅の成した風の音に過ぎません」
こうもりは娘をなだめつかせようとしたが、今度は娘は暗闇の中に立ち上る影を見つけてこう言った。
「悪魔が走って追ってきているわ! もっと速く逃げて!」
「娘よ、落ち着いて、それは私の成した土煙に過ぎません」
こうもりは後ろを振り返る余裕などなかったが、悪魔が追ってくるはずがないと信じていたので、必死に娘を落ち着かせようとした。悪魔には、役割も意味もないのだから、無関心であるに違いないのだ。だから、娘を捕らえようと追いかけることなど、ありえないのだ。それよりも恐れていたのが、娘が悪魔を信じ、そこらにのさばっている暗闇に悪魔の名をつけてしまうことだった。
「悪魔がもうそこまで来てる! 大きな目を光らせて!」
「娘よ、悪魔の目はいくつか」
「ひとつ。ぎょろりと大きいひとつ目よ!」
その言葉を聞いて、こうもりは安堵した。
「娘よ、それは月だ。月が我々の高さと同じなら、夜明けは近い。耳を澄ませ、鶏の声を待て」
しかし、娘は悪魔に怯え続けていた。彼女は孤独の欠片を知った。知ったが故に、心がいかに孤独を埋めようと働くかを理解していた。悪魔は私が居なくなることを恐れるだろうと、分かったつもりでいた。否、ここで想像するべきは、娘は自身が夜を抜け出すことよりも悪魔のことを気にかけていたということである。
こうもりは、娘が言うとおりにしないので、かしこまってこう言った。
「我は世に息づくはらからどもを名付けたる娘の下僕、貴殿を守り候うが故こうもりという名を賜りき。よって言に偽りなし。我を信じよ」
ここでようやく、娘はこうもりの言葉に耳を貸した。このときからすでに、若い娘を口説くには一生懸命に言葉を尽す必要があったのである。
「……そこまで言うなら信じましょう。私は言を用いるがゆえに人、すなわち信じる者なのですから」
こうもりが、義をもって言を用いたがゆえに、これすなわち議となり、娘は耳を貸した。そして、こうもりは言を成したがゆえに、これすなわち誠となり、娘は彼を信じたのである。
娘がこうもりを信じ、耳をそばだてると、東のどこか遠くから「こけこっこう[来解来光]」という声が聞こえた。その瞬間、闇はたちまち西[日死]の空へと引き去られ、端の見えぬ蒼天が娘の背中まですべてを取り囲む。昼だ。鶏の大号令によって昼がやってきた。彼女を包む暗闇は今やどこを探しても見つからない。
「やった! ついに帰って来られたわ」
娘が喜びこうもりから飛び降りると、こうもりはこう返した。
「これにて、しばらくは悪魔はやってこないでしょう」
この言葉が発せられた途端、こうもりの身体はみるみると萎んでいった。
こうもりは守り候う者であるため、守る必要が無くなれば、役割がない。役割がないと意味がない。意味がないなら実体もなくなる。
娘はこうもりに何が起こっているのかを即座に理解することができた。彼女もまた、名を失うことがどういうことかを知ったためである。
「名の示すところの役が尽きてしまった。少しすれば私の身体はまた間者に帰る」
こうもりがそう告げると、娘は即座に返して言う。
「しかし、消えてしまってはあなたへのこの恩はどうやって返せばよいのかしら」
するとこうもりは消え入ることを露にも恐れない風情で語る。
「あなたは泡沫のように暗闇をたゆたう私に名を付け、形と意味を授けてくれたのだ、もとより恩返しを求めることは道理ではない。私にはもう名前がついてしまっているから、その名は変えることができない。となると、名についた意味は変わらないだろう。意味が変わらなければ、役割も変わらない。すなわち、ここで永訣となる」
こうもりの説得は真っ当であったが、娘は少しの沈黙をおいて、こう返した。
「いや、少し待ってちょうだい。これ以上名を付けられないからといって、名を変えられないわけではないのではないかしら」
「つまり?」
こうもりは怪訝な表情をしたが、娘はどこか確信をもったような態度で命ずるのだった。
「こうもりよ、あなたは[香守]である。私の成す草木花を守りなさい。悪魔から、本草の香を守ると書いて、あなたはこうもりなのです」
娘がそう告げると、こうもりは萎むのをやめた。娘の手のひらほどの大きさになってしまったが、こうもりは無事、この世に生きる意味を得たようだった。
娘の予想は的中した。名が変えられないのであれば、名を変えずに意味を変えればよいのである。
「悪魔から守るといえど、昼に悪魔はいないのではないですか?」
「彼は、黄昏時に現れた。だから、あなたは黄昏時に草木花を見て回りなさい。その中で姿形の定まらぬものが悪魔です」
黄昏時というのは[誰そ彼時]である。よって、名を持つものが誰なのかが曖昧になる時である。悪魔はおそらく、その曖昧さを利用して、娘を夜に引きずり込んだのであろう。もっとも、子供や女を早く家に帰らせる風習も、本来はこのことを踏まえてはじまったのであるから、さして語るほどでも無かったかもしれない。
とかくこれにより、こうもりは新たな役を賜った。現在こうもりが夕暮れ時になると花のそばを飛ぶのは、もちろんこれが所以である。
「さて、娘よ、もし悪魔を見つけたら私は何をすればよいのか?」
こうもりは尋ねた。闇から生まれたこうもりといえど、名を賜れば闇によって意味を剥奪されてしまうから、悪魔を見つけたところで何の策も講じることはできない。
「ひとつだけ、私が今から頼む伝言を告げ与えてやってほしい」
娘はこうもりをじっと見て答えた。こうもりも、娘のことをしっかりと見据えた。
「果たして、その伝言とは」
すると、娘はこう言った。
「彼にはこう伝えよ。『あなたを、[間を飽くるもの]として、あくまと呼ばん』と」
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