妖峰戦記‐宝永の乱‐【Ⅱ】~地ノ章~

幻想歴史資料館@ナマオ

第六幕 伊勢志摩編

第1話:影狼と影虎

 ここは鷹高山たかたかやま

 宝永山ほうえいさんが最も美しく見える山として知られ、南を向けば紺碧の駿河湾するがわんを望むこともできる。自然豊かな、駿河を代表する名山であった。

 しかしそれも、宝永山の大噴火ですっかり様変わりしてしまった。

 宝永山の上空には年中暗雲が渦巻き、陽光を遮り、妖しげな光を地上に落としている。ある意味美しくもあるのだが、多くの者は、魔界へと引きずり込まれるような錯覚を覚えるであろう。今や鷹高山は、宝永山が最も恐ろしく見える山となってしまった。


 そんな鷹高山のブナ林の中を、一匹の獣が駆けている。

 姿形は狼だが、体毛はやや黒ずんだ紫で、牙は頭一つ分の大きさがある。

 紫牙狼しがろ――殲鬼隊せんきたいの解散以降、急速に数を増やし、人里に頻繁に出没するようになった妖怪だ。妖怪の中ではそれほど凶悪というわけでもないが、逃げ足が速く、群れも作らないために駆除が難しい厄介者だった。

「気を付けろ! そっち行ったぞ!」

「うわぁ!? こっち来んな!」

 林を抜けた先には、槍と鉄砲で武装した男たちが待ち伏せていたが、鉄砲は外れ、槍持ちが怯んだ一瞬の隙を突かれて、突破されてしまった。

 紫牙狼はその奥に、二つの人影を見た。

 一人は波打つ栗色の髪の男。顔は彫りが深く、異人のようにも見える。

 もう一人は少年で、同じく栗色の髪をしていたが毛は滑らかで、凛々しい顔立ちをしていた。

 異人風の男が刀の柄に手をかけると、少年はずいとその前に進み出た。

「いい。自分でやる」

 言うと同時に、少年は小太刀を引き抜く。

 悠久の時を超えてきたかのような、くすんだ瑠璃色の刀身。

 少年が一閃すると、刀身から伸びた薄青い光が、飛び掛かる紫牙狼を斬り裂いた。

 パシュッ

 途端に、紫牙狼は糸が切れたように崩れ落ち、疾駆の勢いそのままに地面を転げた。

 おお、と歓声が上がる。

「お見事です。影狼かげろう様。この半年でまたお強くなりましたな」

 そう少年を褒め称えたのは、喜利きり万次郎まんじろう。かつては殲鬼隊員としても活躍していた、九鬼くき家の重鎮である。異人のような顔つきの割に、誰よりも甲冑姿がよく似合う。

「万次郎が稽古つけてくれたおかげだよ。あと、妖怪退治はいい練習になる」

 紫牙狼を仕留めた少年は、照れくさそうに万次郎に笑いかけた。

 九鬼くき影狼かげろう――駿河国を治める九鬼家の末裔である。

 とは言っても、影狼がそれを自覚したのは、つい半年ほど前のことだ。

 物心がついた頃から、影狼は鴉天狗からすてんぐ源家みなもとけで、里子として暮らしてきたのだ。今ここにいるのも望んでのことではないし、九鬼家の者として見られることには抵抗感すらある。

 早くやるべきことをやって帰りたい――というのが正直なところだ。

「さあ、今日はもう帰りましょう。あまり長居しては体に障ります」

「うん……行こう」

 そう言って歩き出した影狼の顔には、いささかの陰りがあった。


     *  *  *


 宝永山の大噴火は、日ノ本全土に大きな爪痕を残した。

 中でも最も深刻だったのは、宝永山直下――北の甲斐国かいのくにと、南の駿河国であろう。

 火山灰に埋もれた田畑は打ち捨てられ、村や町からは人が消え――さらには妖怪が火砕流のごとく雪崩れ込むという、酷いありさまだった。

 当時駿河国を治めていた大名は、復興のために手を尽くしたが叶わず、ついには領地を幕府に差し出すこととなった。

 そして代わりにこの地を任されたのが、朝廷挙兵の煽りで領地を失っていた九鬼家だった。


「ただいま麟丸りんまる! 寂しくなかった?」

「ピーイッ」

 本拠地の駿府城すんぷじょうに帰還した影狼は、自室に戻るや否や、鳥籠の中の鷹と戯れた。

 相模さがみを発つ前に、高見たかみ遊山ゆさんから預かったものだが、意外と人懐っこく、駿河に来て以来の孤独を紛らわせてくれる存在だ。

 そう、これは孤独な闘い。馴れ親しんだ仲間たちとは当分会えない。

 九鬼と東国同盟とうごくどうめいの仲立ちとなり、九鬼の旧領志摩しまを攻略する――それが影狼に与えられた任務だった。これが成功すれば、影狼は東国同盟に大きな影響力を持つことになる。

 すべては鴉天狗の汚名を雪ぐため。

 そして鴉天狗を蜂起に追いやった妖派あやかしはに対抗するため。

 そのためなら、これくらいどうということはない。なんともないはずだったのだが……

「影狼様。お父上にも帰還の報告を」

「はぁ……」

 万次郎が促すと、途端に嫌な顔になる影狼であった。


「父上。ただいま戻りました」

 御殿に参上した影狼は、座敷の奥に座る男に向けて膝をつき、至って平静な声で挨拶した。

 男の傍らには何本もの徳利とっくりが無造作に転がり、こぼれた酒が畳を濡らしている。

「若君が帰ってきましたよ。労いの言葉の一つでもかけてあげたらどうなんです?」

 無言で酒を啜るだけの男に、御側付きの女が説教じみた口調で言う。

 男はとろんとした目を、ようやく影狼の方に向けたが――

「ん? なんだ影狼か。オレになんの用だ?」

「殿! なんですかその言い方は……!」

 呆れた御側付きが、重ねて諫言しようとしたが、それより先に影狼が立ち上がり、さっさと部屋を出て行ってしまった。

「若!?」

 万次郎も一礼してから、そのあとを追う。

 足早に廊下を歩きながら、影狼は溜まりに溜まった不満をぶちまけた。

「信じられない! 本当にあんなのがオレの父さんなの!? 元殲鬼隊だって言うから、もっと頼り甲斐のある人だと思ってたのに……」

 功を立てるために駿河へ来た影狼であるが、一方で、まだ見ぬ実の両親に会うことを楽しみにしていた。それだけに、失望を禁じ得ない。

「毎日酒に浸って、わざわざ遠くから来たオレのことは除け者扱いするし、肝心の志摩攻めもこの半年間ずっと二の足踏んでばかり……こんなことなら、来るんじゃなかった!」

「心中お察しします……ですが、殿も決して若様を嫌っているわけではございません。若様が人質になっていると聞いた時、殿は本気で心配されていました」

「!」

「ただ、あの方には少々不器用なところがありまして……急に我が子と再会することになって、戸惑っているのかもしれませぬ。あれだけ酒浸りになるのも、志摩の一族が攻め滅ぼされて以来のことで……」

 そこまで万次郎が言うと、影狼は足を止め、

「……大変だね、万次郎も」

「いえ、慣れておりますので」

 影狼はまた踵を返して、今度はいつもの足取りで、自室へと引き上げていった。


 影狼の去った部屋では、飲み疲れた男が気持ち悪そうに寝そべっていた。

 この男こそ駿河国大名――九鬼くき影虎かげとら。影狼の父である。

 髪は息子よりやや明るい栗色。年は三十代半ばであるはずだが、若々しく、鼻筋の通った顔立ちが男前の印象を与える。酒さえ入っていなければの話だが――

 その背中をさすっているのは、紋舞もんぶらん

 万次郎とともに影虎を支える腹心であり、殲鬼隊の経験もある。色白く髪長く、大和撫子やまとなでしこを思わせる外見を持つ。影虎にかける言葉には、主従の関係を超えたものがあった。

「やけ酒もほどほどにしないと、お体壊しますよ。もう壊れているのかもしれませんが」

「もう放っといてくれ。オレが壊れたところで、誰も困りやしない」

 影虎が寝返りを打つと、蘭はその背中を平手で叩いた。

 バンッ!

「しっかりしてください! 一族の無念を晴らすという志は、どこへ行ったのですか!? 東国同盟からの支援も得て、これからという時に!」

「うっぷ! 蘭……てめぇ……!」

 危うく吐きそうになるところをこらえて、影虎は体を起こした。

 それから最後にもう一杯だけ、酒をあおり――

「これからオレたちが始める戦は、負ければ地獄。勝っても先がねぇ。それでもやってやろうって決めてたのによ…………畜生……! とんだ邪魔が入っちまったぜ……」

「………」

 ポツリポツリとこぼれ出る独り言に、蘭は静かに耳を傾けるのだった。


 蘭が影狼の部屋を訪ねて来たのは、窓の外がすっかり闇に閉ざされてからのことだった。

 身分的に下であるはずの蘭に、影狼はついへこへこしてしまった。相模からの船旅を共にした万次郎とはそこそこ打ち解けたが、影狼はどうも高貴な身分というものに慣れていない。

 ここだけの話――初めて蘭に会った時、影狼は彼女を母だと勘違いしていた。それも少し響いているのかもしれない。

「先程は、すみませんでした。私の補佐が至らぬばかりに」

「いや、そんなことないです。こちらこそ、父上がご面倒を……」

 そこまで言って、影狼は力なく笑った。蘭もつられて、やれやれといった風に笑う。

 二人ともに、世話の焼ける子供の話をしているかのようで、おかしい。

 それから気を取り直した蘭が、切り出した。

「我々は半月後、志摩へ発つことになりました」

「!」

 影狼は息を呑んだ。

 半年間待たされていたことが、ようやく動き出したのだ。

「ですがその前に、若様のご意思をお伺いしたく」

「はい、なんなりと」

 なぜかかしこまる影狼。蘭は影狼をまっすぐに見つめ――

「若様は本当に、此度の遠征への参加をお望みですか?」

「……!」

皇国こうこく領の海を渡っての遠征です。一度志摩へ攻め入れば、すぐに退路を断たれ、敵中で孤立してしまうでしょう。それでも、参加をお望みですか?」

 なんだそんなこと――影狼は迷わず答えた。

「もちろん。そのために来たんですから。でも、どうして今になってそんなことを?」

 問われた蘭は、申し訳なさそうに目を伏せた。

「殿が若様を引き取られたのは、若様の御身を東国同盟に委ねるわけには行かなかったからでございます。ですが万次郎の話では、若様は羽貫衆はぬきしゅうの元で落ち着かれていたと。であれば、羽貫衆の元で暮らしていただく方がよいのではないかと、殿は考えておいでです。今さら、勝手な話ではございますが……」

 影狼は面白くなかった。半年間も待たされた挙句に、帰れと言われているようで――

「だから……だから父上は、オレを遠ざけているんですか?」

「いいえ」

「じゃあなんで……!?」

 思わず語気が強くなる影狼。蘭は静かに顔を上げて言った。

「殿は、若様を九鬼家の戦に巻き込みたくなかったのです」

「!」

「この戦は結局のところ復讐戦。志摩の九鬼家が滅ぼされて以来、影虎様も我々も、この戦で討ち死にする覚悟を決めていました。しかし、せめて若様だけは違う道に進んでもらいたい――そんな思いで影虎様は、殲鬼隊時代の上役であった鵺丸ぬえまる殿に、若様を託したのです。そして……以後はもう、会わないおつもりでいました。覚悟が、揺らいでしまわないように――」

 そこへ、父たちの気も知らずに影狼が来てしまった。

 曲がりなりにも血族であるのだから、来たら泣いて喜んでくれるだろう――という幻想を少なからず抱いていた影狼だが、急にそのことが恥ずかしくなった。

「ともかく我々は、若様のご意思を尊重します。殿もようやくご決断されました。若様が行くと言うのであれば、殿も反対はしますまい」

「そんな話されたら……なおのこと引き下がれないじゃないですか」

 影狼の意思は変わらない。

 ただ、意識は変わった。これから始まるのは、自分だけの孤独な戦いではないと。

「行きましょう、志摩へ! オレだって九鬼の一門ですから」

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