王妃様が案内するヴィンセント城ダンジョン6



「──ようこそ、いらっしゃいました。お待ちしておりましたよ」


 勇者一行を笑顔で迎え入れたのは、菫色の瞳をした黒髪の紳士だった。



 昼食を挟んで仕切り直しとなったヴィンセント城ダンジョン攻略だが、佳境に入っていた。

 マチアスは今度こそ、国王執務室があるフロアへと足を踏み出す。

 ところが、マイリのちっちゃな手に引っ張られていったのは、国王執務室ではなく、それに負けじと重厚な扉の前。

 その部屋の主と、マチアスは面識があった。


「フェルデン公爵閣下……その節は、大変お世話になりました」

「いえいえ。ご赦免お喜び申し上げます、殿下」


 級友ロッツの父であり、ヴィンセント王国の宰相を務めるスコット・フェルデン公爵だ。

 内乱罪で極刑に処される危機にあったマチアスを救おうと尽力した功労者の一人でもある。

 勇者一行がたどり着いたのは、その仕事部屋──宰相執務室だった。

 マチアスにソファを勧めたフェルデン公爵は、ローテーブルを挟んだ向かいにマイリと並んで腰を下ろす。

 ドンロものそのそとソファに上ってきて、マチアスの膝にのしっと顎を置いた。

 エリックは勝手知ったる様子でお茶の用意を始め、入室を許された名もなき護衛騎士と犬は扉の脇に控える。

 そんな一同を見回してから、マチアスはおずおずと口を開いた。


「あの、マイリ様? さっき、やっつけるとおっしゃっていたのって……」

「じーじのことではないぞ。じーじは確かにヴィンセントで最も胡散臭い人間じゃが、ウルにとっての悪者ではないからのう」

「ははは、マイリにはかないませんなあ」


 フェルデン公爵はさも愉快そうに笑うが、孫娘から散々な言われようだ。

 しかしながら、マイリはきっぱりと、こうも言った。


「じーじはウルの味方じゃぞ。たとえ、何があろうともな」

「はあ……」


 マチアスはというと、生返事をしつつ首を捻る。

 フェルデン公爵は、勇者一行の倒すべき悪者役ではないらしい。

 それではなぜ、マチアスはわざわざこうして彼のもとに連れてこられたのだろう。

 彼はけして、ちっちゃなヴィンセント王妃の相手をするのが嫌なわけではない。

 しかし、ヴォルフ帝国特使としての本来の役目を、もうそろそろ果たさせてもらうべきではなかろうか。

 意を決したマチアスが、そう訴えようとした時だった。


「マチアスよ──おぬし、ウルが好きか?」

「えっ!? あっ、はい……好き、ですけど……」


 ふいに、脈絡もない質問を投げかけられて面食らう。

 戸惑いつつも律儀に答えるマチアスに、マイリは畳み掛けた。


「おぬしにとって、ウルはいかなる存在じゃ?」

「ウルは……彼は私にとって、かけがえのない人、です」


 この世には、光をまとって生まれる人間と、そうでない人間がいる、とマチアスは思う。

 向かいのソファに座るマイリやフェルデン公爵、三男坊でありながら公爵家の当主となったエリック少年は、明らかに前者だろう。

 ヴォルフ帝国においては、姉レベッカは前者で──マチアス自身は、後者だった。


「姉を敬愛する心に嘘偽りはございません。姉が、私を深く愛してくださっていることも重々承知しております。ですが……光り輝く彼女の陰で、私はずっと燻んだ存在でした」


 それは、ヒンメル王立学校に入学したことで顕著になる。

 当時、王のように君臨していたレベッカの弟が入学すると聞いて、在校生も教師も勝手に期待を抱いていた。だから、平々凡々としたマチアスが現れたとたん、落胆を露にしたのである。

 冷ややかな周囲の視線に居た堪れなくて、マチアスはすぐさま祖国に逃げ帰りたくなったが……


「でも、踏みとどまることができました。ウルが、友達になってくれたから……」


 ウルもまた光をまとって生まれたような人間だったが、彼はマチアスをレベッカと比べることはなかった。

 いや、似ていないと言ったことはある。

 ただ、それがどうした、とも言ってくれた。


「姉の光は頭上から降り注ぐばかりで、私はただただ眩しくて、顔を上げることができませんでした。でも、ウルは違う。彼の光は隣に寄り添い、私の覚束ない足下を──私の人生を、明るく照らしてくれたんです」


 ウルのおかげで、ヒンメル王立学校で過ごした六年間、ずっと前を向いて歩くことができたのだ。

 マチアスは、感慨無量といった顔をして繰り返す。


「ウルは、私にとってかけがえのない存在なんです」


 そうか、とマイリが頷いた。

 この時、思い出の中に意識を飛ばしていた男は気づけなかった。

 ヴィンセント王妃の愛らしい顔から、すっかり笑みが消えていることに。

 マチアスは、なおもウルと過ごした日々を思い浮かべて頬を緩める。十年近く経った今でも、思い出は少しも色褪せることはなかった。

 ところがマイリは、そんな相手にちっちゃなふくふくの指をびしりと突きつけ、冷や水を浴びせるがごとく言った。



「じゃがな、マチアス。そのかけがえのない存在を害する悪者は──おぬしの中におる」

「え……」


 

 マチアスの笑みが凍りつく。

 何を言われたのか理解できない様子の彼に、マイリは淡々と続けた。


「マチアスよ、答えろ。クーデターをしくじらせた後、おぬしはなぜヴィンセントにきた?」

「そ、それは、その……ウルならば、きっと私情に流されず、正しい処断を下してくれると信じていたからで……」

「そう、レベッカも申しておったな。しかし、おぬしがヴィンセントを──ウルを選んだ一番の理由は、それではないはずだ」

「……え?」


 さっきまで無邪気にマチアスと手を繋いでいた五歳児が、恐ろしく大人びた表情をしている。

 その隣にいるフェルデン公爵なんてただ穏やかな微笑みを浮かべているのに、マチアスは自分の身体が小刻みに震えるのを止められなかった。

 口の中がカラカラに渇いていく。

 まるでそれを見越したみたいに、目の前のテーブルに紅茶のカップが置かれた。

 マイリとフェルデン公爵の前にも同じものを置いたエリックが、無言のまま彼らが座るソファの後ろに控える。

 王立学校を卒業して間もない少年の、理知的で潔癖そうな眼差しにじっと見つめられたマチアスは、ひどく責められているような心地になった。

 慌てて視線を落とせば、今度はカップの中の茜色に映り込んだ自身と対峙することになる。

 ぐっと押し黙った彼の前で、最もいとけない声が核心を突いた。



「おぬしは、厳罰を覚悟していたのではない。むしろ、処刑されることを望んでいた──そうであろ?」



 ひゅっ、とマチアスが息を呑む。

 とっさに顔を上げた彼は、自身を見据える二対の菫色の瞳に気づいて背筋を凍り付かせた。

 ついさっき食堂で対峙した級友のそれと、同じ色、同じ温度の瞳だ。


 ──反逆者ごっこは、楽しかった?


 あの時の冷ややかなロッツの声が脳裏に蘇ってきて、背筋を冷たい汗が伝い落ちる。

 はく、と喘ぐように下手くそな呼吸をする相手に、マイリはなおも手を緩めなかった。


「レベッカをわずらわせる叔父を確実に排除するため、逃げのびた先で囚われて本国に戻されねばならんかったというのはわかる。じゃがそれは、ヴィンセントが選ばれる理由にはならん」


 大陸の最北に位置するヴォルフ帝国と、南端にあるヴィンセント王国の間には、エレメンス王国とデルトア王国という二つの国が挟まっている。

 国王の交代劇により混乱している前者はともかくとして、マチアス達が後者で亡命を求めようともヴィンセント王国と結果は同じになっただろう。

 もっと言えば、ヴォルフ帝国には西にも東にも隣接する国があり、どちらもかの国と友好関係にあるため、反逆者は即刻捕縛されて本国に送り返されたはずだ。

 それ以外にも、ヴィンセント王国よりもヴォルフ帝国に近く、マチアスの望む結果をもたらしてくれるであろう国は、他にもたくさんあった。

 それを踏まえて、マイリは再び問う。

 

「どうしてわざわざ、一際遠く離れたヴィンセントを選んだ?」

「そ、それは……だって、ウルに……」

「ウルに会いたかったからか? しかし、おぬしはウルが会わぬこともわかっておったであろう? だとしたら、道理が通らぬな?」

「わ、私は……私は……」


 五歳児相手にしどろもどろになる自分を、マチアスは心底情けなく思う。

 情けないついでにこの場から逃げ出したくなったが、膝に乗った真っ黒い塊がそれを許さない。

 じっと見上げてくるドンロの瞳は、やはりウルのそれとそっくりで、マチアスはカチカチと歯を鳴らした。

 そんな彼に、マイリは容赦なくとどめを刺す。



「正直に申せばよかろう。ウルの人生に、友を見捨てて死なせたという傷を──己の存在を、永遠に刻みつけるためだった、とな」



 ぶわわっと、マチアスの毛穴という毛穴から汗が吹き出した。

 こめかみから滴ったものが、顎まで伝い落ちる。

 は、は、と意図せず息は荒くなった。

 ドクドクと激しく心臓が脈打ち、身体はもう誤魔化しようもないほどに震えている。

 マイリの言葉を、幼子の戯言と笑い飛ばすのは不可能だった。

 彼女の隣に陣取るフェルデン公爵が口を挟まないということは、すなわち彼も同じ考えである証拠だろう。

 もはや言い逃れも叶わない。

 そう悟ったマチアスは、歪んだ表情を隠すみたいに前髪をくしゃりと掴むと、息も絶え絶え、喘ぐように言った。


「……あなたは、いいですよね。ウルの妻になって、一生を添い遂げることを約束されたんです。だったら、少しくらい、いいじゃないですか。彼の心に、私の居場所をくださっても」

「ならぬ」


 ぴしゃりと叩きつけられた拒絶に、マチアスの目に憎悪が浮かんだ。

 それに気づいてエリックは眉根を寄せたが、当のマイリや、その祖父であるフェルデン公爵はぴくりとも表情を変えない。

 まるで、お前など取るに足りないと言われているようだった。

 ドンロが乗っているせいで膝は温かいというのに、心はどんどんと凍えていく。

 きつく唇を噛み締めれば、口の中に血の味が広がった。

 それを冷ややかに見据えて、マイリが続ける。 


「笑って語れるような思い出としてならば、おぬしに居場所を与えるのもやぶさかではない。じゃが、ウルを悲しませ苦しませようとするヤツに情けをかけてやる義理があるものか」

「そ、それは……」

「ウルをかけがえのないものだと言いながら、おのれの死によってその人生に呪いをかけようとは、おぬしの想いはひとりよがりよのぅ。全力でおことわりじゃ」

「ううっ……」


 痛いところを突かれて、マチアスには返す言葉もない。五歳児に論破されてしまうなんて、情けないにもほどがあった。

 するとここで、フェルデン公爵が初めて口を挟んだ。

 殿下、と優しい声で諭すように、マチアスに語りかける。


「マイリはこの通り、まだ五歳の愛らしい幼子ではございますが、我がヴィンセント王国の歴とした王妃であり──なにより、陛下をとても愛しておられます」

「わ、私だって! 私だって、ウルのことをあ──」

「殿下のそれは、あいにく自己愛でございましょう。履き違いなされませぬよう、ご忠告申し上げます」

「うぐっ……」


 マチアスは、ここでようやく気がついた。

 ロッツはきっと、マチアスの本心を知っていたのだろう。だから、怒っていたのだ。

 彼だけではない。

 マイリも、そして今まさに目の前でにこにこしているフェルデン公爵だって、自分に対してひどく憤っていた。

 なぜ、などというのは愚問だろう。

 彼らは、ウルを愛しているのだ。

 愛するものを傷つけられそうになったから、その犯人たるマチアスに憤っている。

 彼らの怒りは、至極道理が通ったものであった。


「最初から……私をウルと会わせる気など、なかったのですね……」


 ウルを愛する者達にとって、マチアスはもはや害悪以外のなにものでもない。

 それを自覚しながらも、この期に及んで恨みがましげに言う彼に、しかしマイリは心外そうな顔をして首を横に振った。


「ウルに会えるかいなかは、おぬし次第。申したであろう? ウルに会いたければこのヴィンセント城ダンジョンを攻略せよ、と。そして、わらわはこのダンジョンの案内役。おぬしをウルのもとに導く者じゃ」


 ちっちゃなふくふくの指先が、再びマチアスに突きつけられる。

 しかし、今度は彼を断罪するためではなかった。


「おぬしの敵は、わらわでも、じーじでも、父でもない。おのれ自身──その心にひそむ弱さじゃ」

「私自身の、弱さ……」


 おずおずと顔を上げたマチアスを、マイリは真っ直ぐに見つめて告げた。



「戦え、勇者よ。おのれに打ち勝ち、胸を張って姫に会いにゆけ」



 その時である。

 大きな音を立てて、ノックもないまま宰相執務室の扉が開いた。


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