王妃様に最も愛されている男4



「――はぁ? 生まれたことを後悔している、だとぉ!?」


 ウルの声量を抑えた、しかし憤りは抑えようもない声が、部屋の中に響いた。



 隠し通路を通って真っ先に駆けつけたウルに対し、ロッツとフェルデン公爵は納屋の扉から飛び込んできた。

 ウルがマイリを掻き抱き、ロッツはシトラを抱き上げる。

 最後に、フェルデン公爵は大司祭コリンの前に進み出て……


「コリン」

「ス、スコット……」


 子供の頃のようにお互いを名前で呼び合うと、フェルデン公爵がコリンを真正面から抱き締めたのだった。


「孫達を守ってくれてありがとう。君がいてくれて、よかった……」

「いや……うん、うん……あの子達を無事お返しできて、ほっとしたよ……」


 ヴィンセント王国に降り注いでいた雨は、いつのまにか上がっていた。


 犯人の司祭は、マイリに七日分の〝かわゆい〟を言ってもらって元気百倍のケットが城に連行することとなった。

 司祭の上司であるコリンと、そもそもの恨みの矛先であるフェルデン公爵も同行する。なぜか、猫悪魔ドンロもくっついて行った。

 一方、子供達の無事を知ってほっとしたのも束の間。心労が祟ってアシェラが体調を崩したため、ロッツはそのベッドに張り付いて動かなくなった。

 思いがけない騒動により混乱を来したフェルデン公爵家を落ち着かせたのは、幼馴染とのお茶会から戻ってきた公爵夫人だ。

 彼女が使用人達に箝口令を布く中、眠ったシトラを見ているという名目で、ウルとマイリは新たに赤ちゃん用のベッドが置かれた部屋に腰を据える。

 そのシトラは、祖母が部屋を出て行ったとたんに、菫色の瞳をパチリと開いて、ふんと生意気な様子で鼻を鳴らした。


『わしは、魔界の王であるぞ。なにゆえ、人間などという矮小な生き物の一生に甘んじねばならん』

「矮小で悪かったな。しかし、いくら人間に生まれたのが気に入らないからといって……」


 ベッドの側に置いた椅子に腰掛け、ウルは苦虫を噛み潰したような顔をして、その先の言葉を濁す。

 この七日間、マイリが城に戻れなかったのには、ウルが思った通り退っ引きならない理由があった。

 それは、口に出すのも憚られる。

 人間として生まれたことを不服に思う自称魔王の弟が、早々に命を断って魔界に戻ろうというのを阻止するためだったというのだ。


「といっても、シトラはまだ寝返りもうてぬからな。窓からとびおりたり首をつったりできるはずもない。せいぜい飢え死にを目指して乳を拒むことくらいしかできんかったが」

「そういえば、ロッツが赤子の乳の飲みが悪いのを侍女頭に相談していた、とか聞いたな」

「まあ、空腹にたえきれず、最終的には飲むんじゃがな。魔王とやらの矜持よりも本能がまさっておるんじゃろ」

『うぬぬ……赤子のこの身体が憎い……』


 そういうわけなので、シトラはちょっと食が細いだけで至って健康な赤子のままなのだが、彼の意識を変えない限りは不安で、マイリは側を離れられなかったのだという。

 隣の椅子にちょこんと腰掛けたマイリからそれを聞いたウルは、震えるほどの怒りを覚えた。

 相手が赤子でなければ、ぶん殴ってやりたいくらい、それはもう腹立たしかった。

 

「魔王だかなんだか知らんが、ふざけるな。お前の誕生をアシェラがロッツが――マイリが、どれほど待ち望み、喜んだと思っているんだ」

『若造が、口を慎め。この命はわしのものだ。生きるも死ぬも、決めるのはわしよ』

「ああ、そうだな。その命はお前のものだ。しかし、思い上がるなよ。お前ただ一人の力でこうして生まれてきたわけはあるまい」

『ふん……』


 赤子は十ヶ月余りを母親の胎内で過ごす。

 シトラが七日前の朝に産声を上げるまで、アシェラがつわりや不自由に耐えつつどれだけ彼を愛しんだのか、ロッツがそんな彼女と腹の子をどれだけ慈しんだのか――そして、マイリが弟が生まれることをどれほど楽しみにしていたのかを、ウルは知っている。

 それに、今はマイリの器となっているが、フェルデン公爵家には生まれてくることが叶わなかった命がある。

 だからこそ尚更、簡単に死を望もうとするシトラが許せなかった。

 シトラの愚かな望みに、この七日間マイリがただ一人で向かい合っていたことも、ウルは気に入らなかった。


「なあ、マイリ。いいか、よく聞け」

「なんじゃ、改まって」


 太々しい態度の新生児から目を逸らし、ウルは隣に腰掛けたマイリに向き直る。

 マイリもウルの方に身体を向け、ちょこんと首を傾げた。

 

「お前は確かに、年の割には賢くて口は達者だが、まだ五歳だ」

「うむ、わらわは、かしこくておしゃべりがじょうずでうんとかわゆいが、まだ五さいじゃな」

「対して俺は、この世界に存在する時間ではお前の足元にも及ばないだろうが、人間歴だけは確実に勝る」

「うむ、わらわから見ればウルの生きた時間などまたたきにも満たぬが、たしかに人間をやっている時間はウルの方が長いな」


 こくこくと頷く愛くるしい妃に向かい、ヴィンセント国王は殊更ふんぞり返って続ける。


「お前は今、人間だろう」

「いかにも」

「だったら、何か問題に直面した場合、人間の先輩である俺に頼ってしかるべきなんだ」

「おお……なるほど――ん?」


 ここでウルの顔をまじまじと見上げたマイリは、とたんに目を丸くした。

 ぺぺいっと急いで靴を脱ぎ捨てると、毎度のごとく彼の膝の上に立つ。

 そうして、ちっちゃなふくふくの手でもってウルの顔を挟み込み、むにゅっと鼻頭同士をくっつけて叫んだ。


「あれま、ウル! なんたること! おぬし、クマができておるではないか!?」

「当たり前だろうが。お前が七日も帰ってこないで、俺がぐっすり眠れるわけがなかろう」

「ん? ……うむ……そう、そうだな。それはすまんかった……ウルに、さびしいおもいをさせてしもうたな」

「……俺も、早く気づいてやれなくて悪かった」


 ぎゅっと首筋に抱き着いてきた幼子の柔らかな髪に、ウルは頬を擦り寄せる。

 この子供らしい高めの体温と速い鼓動が間近にあるだけで、たちまち心が満たされていくのを感じた。

 マイリがいなくて、自分は寂しかったのだ。

 そう、ウルは改めて自覚した。


「そうか……ウルに相談して、よかったのか……」

「そうだ。むしろ、俺に相談しないで誰に相談するっていうんだよ」

「だってな、わらわ……せっかくできた弟が死を望んでおるなどと聞いたら、ウルがきっと悲しむと思ったんじゃ……」

「そうだよな、悲しいよな。マイリだって悲しかっただろう。なにしろお前も、その弟をうんと愛しているからな」


 ウルの言葉を肯定するみたいに、マイリがますますしがみついてくる。

 彼の肩口に顔を埋め、小さな肩を震わせた。

 ウルは、片手にすっぽりと収まる丸い頭を無言のまま撫でてやる。

 この愛情深い人ならぬ存在が、いったいどんな気持ちで七日もの間、生を放棄しようとする弟に付き添っていたのかを考えると胸が張り裂けそうだった。

 彼女がそのような苦況に置かれていることに気づいてやれなかったことが、心底悔やまれる。

 しばし、ぐすぐすとマイリが鼻を鳴らす音だけがその場に響いていた。

 やがて沈黙を破ったのは、マイリ曰くおっさんの声だった。


『……まあ、なんだ。わしが……悪かった、かもしれん』

「かもしれんじゃなくて、全面的にお前が悪いんだよ。マイリに謝れ」


 ばつが悪そうに言う新生児に、ウルはマイリの髪を撫でながらふんと鼻を鳴らす。

 シトラはその言い草に、若造とも口を慎めとも、もう言わなかった。


『……姉者よ。その、すまんかった……』

「うむ……ゆるす。わらわは、シトラをうんと愛しておるからな……」


 そう答えたマイリの声がまだ濡れていたものだから、ウルは赤子に向けるにはふさわしくない鋭い目で、じろりとシトラを見下ろす。

 そして、吐き捨てるように言った。


「二度と、馬鹿なことは考えるなよ。赤子は赤子らしく、乳は腹一杯飲んどけ」

『うむ……』


 こうして、この七日間、ちっちゃなヴィンセント国王妃を悩ませていた問題は解決した。

 それに伴い、ヴィンセント国王の寝不足も解消されることとなるだろう。

 雨が上がった空には、いつの間にか虹がかかっていた。

 その華やかな光景の中、おなじみの鬼畜面が今まさにフェルデン公爵家の門を潜るのが見える。

 騒動を起こした司祭を城に連行したケットが、国王夫妻を迎えに戻ってきたのだ。


『あのケットなる男……魔界でもなかなか見ないような壮絶な面構えをしておる』


 そんな自称魔王な赤子の言葉に、ウルとマイリは顔を見合わせてから口を開く。

 

「そもそもは、だ。魔王が、なぜ人間として生まれてくるようなこと起こるんだ?」

「魔王のおぬしがここにいるということは、いまごろ魔界の玉座はからっぽか?」


 とたん、シトラは今にも泣き出しそうな赤子みたいに――実際赤子なのだが――顔をくしゃっとさせた。

 そうして、ふぐぐ……とひとしきり唸ったかと思ったら、ようやく絞り出すような声で言うのである。

 

『わしは……玉座を、乗っ取られたんじゃ』

「は? 乗っ取られただと? いったい誰に!?」

「魔王たるおぬしを超えるようなものがおったということか。魔界も有望じゃのう」


 ぎょっとするウルとにこにこするマイリ。そんな姉夫婦から目を逸らし、シトラは不貞腐れたみたいな顔をして続けた。


『犯人は……わしの養い子じゃ』

「養い子? 魔王の血を引いた子供じゃないってことか?」

「それが、見事下剋上をなしとげたというわけか。うむ、実にあっぱれなことじゃ」


 またもや対照的な表情をするウルとマイリを、シトラは今後はじとりと見上げ――とんでもないことを言い出した。


『その養い子は……スコットの、孫じゃ』


 これには、ウルもマイリも目を丸くする。

 シトラは、ようやく表情を揃えた姉夫婦に畳み掛けた。


『姉者のその器の、元の持ち主のことよ。――あの魂は、わしが預かっておった』

「なに!?」

「なんじゃと!?」


 ウルとマイリが素っ頓狂な声を上げ、顔を見合わせる。

 そのまま二の句を継げないでいる二人を見据え、玉座を奪われた魔王は淡々と続けた。



『その昔、スコットと約束したんじゃ。あやつを魔界から出す代償として――あやつに連なる命を一つ、わしが預かっておくとな』



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