第9話 閻魔大王
銭湯に急いだ。
場所は昼間に下見済みだ。
小さいタオルと石鹸をビニール袋に入れて
向かった。
昼間しまっていたシャッターが開いていた。
中に入ると男湯と女湯が入り口で分かれていた。
右は青い暖簾の男湯
左は赤い暖簾の女湯。
赤い暖簾を一度でいいからくぐりたい。
それは私にとっては天国への暖簾だ。
私は下駄箱に靴を入れて男湯と書いた
青い地獄への暖簾をくぐって扉の中に入った。
入ると直ぐはるか頭上に白髪のおじい様が
かなり高い位置で椅子に座っている。
「番台」というやつだ。
おじい様はこちらを見ずに真っ直ぐ前を見て座っていた。
テニスの審判員のような、もしくはプールの監視員のような
高い位置から私を見下すように言った。
「370円。」
僅かに聞こえた声で先払いだということが分かった。
私は持って来て千円札を手を上に伸ばして台の上に置いた。
おつりを取った後、風呂場全体を見渡した。
テレビでよく見る典型的な古い銭湯だ。
ドリフでよく見るような東京下町の銭湯。
高い位置に座っているおじい様は、
男湯と女湯のちょうど真ん中の仕切りに位置している。
天国へ行くか地獄行きかを決める閻魔大王が座る位置だ。
どっちをも監視することが出来るその高台で
閻魔さまは千円札を箱にしまう。
待てよ。
一回風呂に入るのに370円掛かる!毎日だぞ!
そうなのだ。新聞奨学生だからと言って風呂代は免除されない。
フリーパス券は無い。
それでもやはり、帰りにビールを買おうと思っている。
千円札一枚しかは持ってきていなかった。
お釣りの630円で500mlを2本飲むつもりだ。
ふと大王を見た。
大王の視線はその真正面に置いてあるテレビを向いている。
それはそうだろう。
いくらもう性欲がなくなっているとはいえ、
女湯の方ばかり見ていてはプロではない。
いかにテレビを見ている風に眼球だけ女湯を視野に入れるかだろう。
そう考察した私。いい仕事だな。こっちがいいな。
「新聞配達員」ではなくて「銭湯監視員」で学校に通えないものか。
「大衆浴場監視員」かな?「番台養成所」?
そんな事を思いながら服を木製のロッカーに入れて
木の札のような鍵をかけて風呂場に入った。
黄色いケロリンと書いた風呂桶がたくさん並んでいるのが目についた。
20人くらいはいっぺんに入れそうな浴槽と洗い場。
正面には大きな壁画。富士山ではなかった。
上を眺めてみた。
もちろん女湯は見えないが5メートルはあるであろう高い天井から
1メートル分は壁が無く、開いているので音や声は聞こえてくる。
いちおう湯気で繋がっていることになる。
どれだけ目を凝らしても、湯気には何も写ってはいなかった。
しかし考えてしまうのは毎日の370円。悩ましい限り。
明日の分までしっかり洗ったら
二日分入ったことに出来るか試そう。
370円分しっかり入って元を取るのだ。
いつも実家ならシャワーしか浴びないのに
この日はゆっくりと、そしてたっぷり湯船に浸かり
体を真っ赤にしてから風呂を上がった。
風呂から上がるとしっかり冷えた
牛乳が入ったケースが目の前にある。
うまそうだ。
しかし、この後のビール様の出番が台無しになってしまう。
ここはテレビを見てごまかそう。
体を拭きながらテレビを見ていた。
なんか視線を感じる。
入り口のほうからだ。
入り口を見た。
閻魔大王だ。
白髪で牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけている。
前が見えているのかどうかも疑わしい面持ち。
いや、カモフラージュに違いない。
「私は何も見えてない風」にしておかないと
女湯からのクレームが半端ないだろうからな。
しかし、やたらと私を見ているような気がする。
私が閻魔大王を見ると
大王はわずかに視線をテレビに動かす。
銭湯の番台としての見込みでもあるのかな?
それとも男が好きなのか?
なんで一人で両方の湯を同時に見る必要があるのか。
視線をテレビに戻すと思いきや
また大王の方を向いて見た。
やはり私を見ていた。
大王の視線が少し下を向いている。
ちょうど私の股間の位置だ。
気のせいという事にしないと
これから毎日ここに来るのだから辛くなる。
しかし世の中には色んな仕事があるものだな。
募集の貼り紙でも貼ってないかな。
辺りを見渡した。
味気ない二色刷りの貼り紙があった。
区役所からのお知らせのようだ。
「今年は水不足!」と書いてある。
大阪では見たことないな。琵琶湖のおかげかな。
牛乳から目が離せない。
小学校の時の給食で飲んでいたのと同じ形。
やはり牛乳の誘惑に負けた。
よく冷えた瓶の牛乳を小さなケースから取り出して
大王に渡した。
「百円」だった。
これでビールは350mlになってしまうな。
牛乳は後でコンビニで飲んでも美味しくない。
今この瞬間の風呂上がりにキンキンに冷えた牛乳が良いのだ。
まるで旅行に来ているみたいな感覚。
それはそうだ。
まだ来て初日。初めての銭湯である。
わたしは股間への視線を思い出しながら
また青い地獄の暖簾を押して外に出た。
大王はこちらを見ていなかった。
まだ肌寒い4月の夜。
早くビールが飲みたい。
なぜ千円しか持ってこなかったのか。
銭湯には財布を持っては行かないというイメージに
とらわれすぎていたのか?
腕に冷たいものが落ちてきた。雨だ。
なんてことだ。
せっかく風呂に入ったというのに
雨に打たれて濡れそうだ。
小雨のうちに帰ろう。
もし今銭湯に戻ったら、さっきの料金で
もう1回お風呂に入らせて貰えるのだろうか?
いやきっと私のことを覚えてない素振りを見せるだろう。
それが大王というものだ。
〜つづく〜
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