第4話 氷のような冷たさと太陽のような温かさ




縦5cm横8cmの紙の雑誌の広告の、

そのインクの文字がきっかけで

ミュージシャンを目指して上京することに

なった私。




真田直樹さなだなおき20歳の春。





深夜の夜行バスで大阪から新宿にご到着。

朝の6時。

歯が磨きたい気分のまま眠気まなこでバスを降りた。

雨だった。

傘がない。





東京は見た感じは大阪と同じ。

でも人の態度がまるで違うと聞く。

そんなのはただの噂だろう。




私は傘が欲しくてコンビニに入った。





私は傘をコンビニで買うのは初めてだった。

コンビニで傘購入童貞の私は、

レジにいる店員さんに質問した。

ちょうど女の子だった。




「すいません。傘売ってますか?」

レジの若い女の子は私と同い年くらい。

忙しそうでレジを打ちながら私の質問に答えてくれた。




「何種類か、そちらにございます」



手も足も顎も目線すらも動かさずに言ってくれた。

優しいけど、私にはわからなかった。



そちらはどちらだ?



こちらを見ることなく

何かをしながら言ってくれたので、

その「そちら」がどっちか分からなくて

キョロキョロしてしまう私。






「あのー。どの辺にあるんですかね、傘」


「あの、その辺に・・・あ、お釣りでございます。」




レジは結構並んでいるが

他に店員さんが居ない様子。




よしっ!

こうなったら

この店の店主になった気持ちで

傘をどこに置くだろうかと

考えてみよう。




普通入り口付近に置くだろうが

このお店には無い。

奥の方かな。

トイレの近くかな。

店内をぐるりと一周してしまった。





お!なんと!灯台下暗し!

目の前のレジの横、つまり

私の足元にあるではないか。

週刊少年ジャンプのタワーの横に

ジャンプ傘があった。




「あー!ありましたよ!傘!」

と私はレジの女の子に向かって言うと

レジに並んでいた黒くてくたびれたスーツを着たおっさんがこう言った。





「無視した方がいいよ。ほっとけばいいよ。」




レジの女の子は(そうします!)と言わんばかりの

同意した雰囲気を全身から醸し出した。

もう湯気立っていた。



人の態度の冷たさを感じて私は氷のように固まった。

東京に来てまだ1時間目だ。




私は結局、傘を買わずにコンビニを後にした。

雨なので涙は誤魔化せた。




雨は私に少し味方するように小降りになり

私は肩を少しだけ濡らしながら

これから住むべき場所へと向かった。




この時に浮かんだ心どしゃ降りの

メロディーは今も胸の中にある。




地図は持っていない。

下調べもしていない。

全く初めての土地だ。




どうやって辿り着いたのか

思い出せないくらい人に聞いて聞いて

そして聞いた。犬にも猫にも聞いた。





「神楽坂」が近いだろう、とか

「曙橋」へ向かえ!とか

「早稲田」に行きな!とか言われた。




色々言われながら地図も持たずに

住所を書いた紙だけを頼りにやっと辿り着いた。





坂道の途中に、そのお店はあった。

「近藤新聞舗」。




ここか!

ここでお世話になるんだな。

一年間も。

もしかしたら一生ここで骨を埋めるかもしれないんだな。

カナダが沈没したらここで私は人生を沈没させるんだな。

よしっ!




東京は大都会だと聞いていたけど

下町は、こんなものなのか。

新聞店の作りは木造の二階建て。

木だけで出来ているような

古い2階建てのお店だった。

きっと釘も使っていない。

隣の建物との間の隙間は、ほとんどない。

猫専用の通路のよう。




なぜこんな場所に人は集まるのか?

人が集まっているから集まるだけ

なのかもしれない。




そんな20歳なりの乏しい考えを

巡らせながらお店の中に入っていった。




薄暗い。

誰も居ない。

朝の8時。




誰も居なくて当然だとは知らなかった。



お店の人はみんな、ひと仕事終えた後の

まったりとしたひと時を自分の部屋で過ごしている時間だ。




「すいませーん!」




ガチャ・・

「はいはい。」




ご老人が出て来られた。

裕福そうな仕立ての服を着て

肌のツヤも良く

ふくよかでお腹が出ていて

優しそうだった。




「あのー、今日からここで

お世話になる予定の大阪から来た

真田と申します。」




「はいはい。えーと、

真田さん真田さんね。

あ、所長の近藤です。」




この人が所長さん!つまり社長さん!

この人が私を学校へ導いてくれ

お金も払ってくれて

ご飯まで食べされてくれて

住むところまで用意してくれている

父のような存在!大社長!




大きなお腹に飛び込みたい気分だった。



「ちょっと待っててね。」と言って

所長さんはどこかに電話し始めた。




「あ、もしもし!ゆうこさん!新しい子が来たから

案内してやって欲しいんだけど・・はいはい。ガチャ。」




「じゃあ上がってこっちの部屋で座って少し待っててくれるかな。」




「お、お邪魔します。」




狭いタバコ屋のおばあちゃんが座っていそうな

机が一つだけ置いてある玄関部分から

中に入った。




おばあちゃんが居た!



「あら、こんにちは。」




所長夫人がコタツの中に入ったまま

こちらを振り向き、

挨拶をしてくれた。




「こんにちは、今日からお世話になります真田と申します。

よろしくお願いします。」




きっと、この人が私のご飯を作ってくれるのだな。

煮物ばかり出てくるんじゃないか心配した。




その奥の応接間は広くて優雅な感じ。

フカフカの皮のソファーがコの字で置いてあり

真ん中にはテレビとビデオと北海道の熊の置物。

額に入った絵。




私はカバンを置いてソファーに座って

外は狭くて汚くても中は広くて綺麗なのかと

安心した。




「お待たせしましたー!」




元気な女の人の声がした。

さっき所長さんが電話した相手の人だろう。

私を案内してくれる人だな。




「では荷物を持って。部屋を案内するからね。」




再びおばあちゃんのコタツの横を通って

狭い入り口からお店の中に戻ると

目から元気が溢れ飛び出ている笑顔が満点の女の人が立っていた。




「ここの嫁の優子です。よろしくね!疲れたでしょう!

何も連絡なしでここまで一人で来れたんだね!

慣れない土地で疲れてるだろうから今日は部屋でゆっくり休んでね。」




な、なんと優しい!

そして気遣い!

太陽のようだ!






「部屋は、この上の階にもあるんだけど、もういっぱいだから

少し歩いた所に借りてる部屋に案内するね。」




私にあてがわれた部屋まで案内してくれた。

歩いて3分くらいだった。

一本道だった。




そして元気に前を歩く優子さんはお寺の中に入っていった。

お寺?

お寺の敷地の中にどんどん入っていく。

本堂の真横の建物まで来た。

その長屋みたいな建物の入り口はドアが開きっぱなしだった。




ドアの奥はすぐ階段になっていて

階段の下は靴が散らばっていた。



優子さんはその散らばっている靴たちを並べながら

「ここの二階の一番手前の部屋が空いてるの。どうぞ!」

と言って靴を脱いで階段を登っていった。




私も靴を脱いで階段を上がる。

狭いので荷物と私でギュウギュウである。




なんとか二階に登った。




二階には部屋が3つあった。

それとトイレが1つと流し台が1つ。

蛇口は2つ。




つまり3人でこのトイレと水道水が出てくる流しを

使うことになるのだな。なるほど。




実家の家族は4人だから1人分少ない。

マシになるということだ。




あれ?風呂はどこだ?




ガチャガチャ。

優子さんが一番手前の部屋のドアを開けている。

部屋のドアには一応鍵が付いていた。

これでプライベートは充実だ。




江戸間の四畳半。

窓付き。

押入れ上下二段付き。

鍵付き。

共有だけどトイレと流しも付き。

台所はなし。

風呂もどうやらなさそうだ。




お寺にあるのかな?

行水かな?




新聞屋さんで働くには

まずお寺で修行しなければならないのかな?

坊主は嫌だな。




「ここで一年間過ごしてもらうけど、

一年後に卒業する先輩たちが出ていった部屋に

移ってもいいからね。もう少し広い部屋もあるから

順番ね。」




「ありがとうございます!充分です!しかも

学校にまで行かせてもらえるなんて!」




「うん。あとお風呂が無いのはみんな同じだから。

どの部屋にもお風呂は無いの。

ここから歩いてすぐ2.3分の所に銭湯があるからね。

でも夜12時で閉まるから気を付けてね。」




「じゃあゆっくりして!ご飯は夕方5時くらいには出来てるから

食べに来て。さっきの新聞屋さんのお店の中で食べる所があるからね。

あ、そうだ!荷物が届いてたわよ。あの大きさは布団かな?

大阪から来る人って珍しいから覚えてた。あとで誰かに届けてもらうように

言っておくね!」




至れり尽くせりナリ。




優子さんは帰っていき

私はひとりの部屋に寝転がった。




まるで民宿に泊まりに来たみたいだ。

畳の四畳半の部屋。

カバンが一つ。




窓を開けてみよう!




ガラッと。

おっと、お寺が真横だったのを忘れていた。

お寺の本堂には誰の姿もなかった。

大きな桜の木がお寺と部屋の間に

見事に咲いていた。






私はあと何回、この桜を見ることに

なるのだろうか。




窓は開いたが

ベランダはない。

洗濯物は干せる感じ。

窓があるだけ良いではないか!




隣にはもう誰かいるのかな。

トイレに行ってみよう。




この建物も全て木で出来ている木造。

うす〜い木のドアを開けたら

水色のタイルが内装の和式のトイレ。




おしっこしてみた。




流すレバーが無い!

タンクもレバーも無い!

あ、あった!

タンクはあった!

頭上にほぼ天井の所にタンクがあり、

そこからなんやら鎖がぶら下がっている。

鎖の先は持つような感じになっている。




「もしや、これを引っ張るのかな?」




もし引っ張って頭上のタンクが丸ごと

落ちてきたら嫌だなーと思いつつ

おそるおそる、そのチェーンを下に引いてみた。




ジャ〜〜〜。




流れた!

おしっこ流してみた!





流しも使ってみよう!

水が出た!




歯を磨いてみた!

顔を洗ってみた!




初めてだらけで楽しい!




少し近所を散策してみよう!



もらった鍵で部屋に鍵をかけて

階段を降りてお寺の境内に飛び出してみた!




静寂!

静かすぎる!

誰もいないのか?

いや寮の横には母屋があり

お寺の人が住んでいる感じ。




その玄関の前に井戸を発見!

これは良い!

最悪、井戸水で体を洗える!





のどかだな〜。




お寺の外に出てみようか。

右に行こうか。

左に行こうか。




まるで

初めてプレイするドラクエのように

敵が出る訳でも無いのに

私は恐る恐る慎重に

またここに帰ってこれるように歩き出した!

私は城の外に出た。

ダッダッダッ。




夕方のご飯までに戻らなければならない。

少しずつ冒険を進めよう。




新聞屋さんは左に行けば着くから

今回は右に行ってみよう。




おっと!本当だ!

歩いて2分で銭湯を発見!

営業時間 16:00〜24:00

入浴料370円。




「えー!

朝風呂に入られへんのかい!」

銭湯のシャッターに向かって突っ込んだ。




井戸が脳裏にチラつく。

私は首を横に振る。




緊急の時だけだぞ、井戸は。

自分に言って聞かせた。

真夏ならともかく

冬に井戸水は死ぬぞ。




いくらキャンプ慣れしているとはいえ、

井戸水は経験したことがない。




お湯が出る井戸とかあるのかな?

地下の水は温かいかもしれない。

いや、それは無いか。

汲んだ井戸水を温める方法は

ないかな?




気になる井戸。井戸。江戸。

そうだな。江戸時代みたいな暮らしに憧れる。

どれくらい深いのだろう?

そういえば大阪で井戸に出会ったことは無いな。




まだシャッターが閉まっている銭湯の前で

ずっと井戸のことを考えてぶつぶつと言っていた。



まだ近所を散策しようか。

地図もないので迷ったら飯にありつけないかもしれない。




コンビニとかスーパーはないのかな?

いきなりビールが飲みたくなってきたぞ!




風呂にまだ入ってないのに

銭湯から離れるとビールが飲みたくなる

という通例の現象が襲ってきた。




駅はこちら方面的な矢印の標識を見つけた。

駅が近いのだな。




このあたりで「おさらい」しておかないと

これ以上進んだら戻れなくなるぞ!




えーと、どれどれ。

・部屋のあるお寺から右へまっすぐで銭湯。

・銭湯は突き当たりなので銭湯を見て左に行くと駅に行くらしい。




駅なら色々売っているだろう。

いざ駅へ!




あった!コンビニだ!

駅に行く途中にもコンビニがあった。

もう駅に行かなくてもいいかも。

また今度にしよう。




目の前のコンビニでビールとプリンを買って

お寺(自分の部屋)に戻った。




自分のカバンが「おかえり」と言っている。

私はビールを飲んでプリンを食べて

カバンから中身を出した。




漫画が出てきた

「行け!稲中卓球部」だ。






長い一日だ。




色々あって疲れたが、

感慨深い。




たった一冊の雑誌で

たった一本の電話で




こんな環境に身を置いている自分。




100%みんなのおかげなのに、

私は「道を切り開くというのはこうやるのだな!えっへん!」

と自分自身の勇気ある行動を褒め称えて乾杯した。




そろそろ夕方だからご飯を頂きに行こうかな。




まだまだ子供である。




まだ新聞のインクで顔が汚れていない

ウブなハタチだった。




〜つづく〜

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