コロッケ②

 しばらくして運ばれたのは、コロッケとパンである。

「本日は、ごゆっくりお召し上がりください」

と、ハチクマが言うので殿下は箸を手に取った。

 まとった細かなパン粉の一粒一粒がカラリと立ち上がり、黄金色に輝いている。割ってみると、水気も脂っ気のないパサパサしたものが、ほろりと崩れた。

 一口食べてみると、まったく何の味もないわけではないが、これと言った味がしない。


「これは何ですか?」

「おからの代用コロッケです。パンも代用パンをご用意しました」

「ハチクマさんは、いつも私に粗末なものを食べさせますね」


 ハチクマが非礼を詫びると、殿下は哀しく微笑みながら代用コロッケをじっと見つめた。


「このコロッケは、今の大日本帝国そのものです。綺麗に揚がっていますが、衣の向こうの嘘がうっすら透けて見えます。中を見れば、今にも崩れそうな真実が露わになります。下ごしらえや味付けを工夫すれば美味しくなるのでしょうが、そんなゆとりはありません」


 代用パンを千切って口に運んだ。一体何が入っているのだという雑味で一杯だった。

「しかし今は、そういうものしか食べられません。知っていても、知らなくても、気付いていても、信じていても……」


 ハチクマが供した内地の現実に、殿下が応えた戦地の現実は、あまりにも重苦しいものだった。

 しかしこれはきっと始まりに過ぎないのだ。


「ハチクマさん、子供は?」

「娘が産まれました」

 残念そうな顔になってしまいそうなのを堪えて「そうですか」とだけ言ったが、感情は隠しきれなかった。


 しかしハチクマは、厚い雲も吹き飛ばす満面の笑みを浮かべた。

「これからは女の時代です。最近は駅も工場も、どこもかしこも女ばかりですが、真面目で一所懸命に働いております。この戦争に勝った暁には、戦地から帰ってきた男と、銃後を守り抜いた女が手を取り合って働いて、大日本帝国を世界一の国に導くでしょう。私は娘を、日本の未来を担う商売人に育てる所存です」


 ハチクマから語られる明るい未来は、現状の重圧を振り払った。喜びが心の底から湧き、弾む声となって溢れ出た。

「さすがですね、ハチクマさんはそうでなくっちゃ」


 殿下は代用コロッケと代用パンを口に運んだ。

 そうだ、これをまやかしと思わず真摯に向き合い、そのものの良さを引き出すよう研究や工夫を重ねれば、本物を超える日が来るかも知れない。


 男の代用などではない、女ならではの仕事が認められ、男女が切磋琢磨する世の中が、列車食堂のウェイトレスのように職場を男から勝ち取る日が、いや男女など関係なく社会で活躍する時代がやってくるかも知れない。


「私は子宝に恵まれませんが、こうしばしば船に乗っていては、新しい時代を作ることもままなりません。家のことがあるので、恵まれた場所で働いていますが……」

 箸を置くと、うつむいて、ぽつりとつぶやいた。


「私もそろそろ、危ないかも知れない」


 ハチクマの顔が凍りついた。


「もし、列車食堂が閉まるようなことがあったら、ハチクマさんはどうされるおつもりですか」

 ついに、食堂車がなくなろうとしているのか。

 衝撃的な言葉であったが、現状を鑑みると言及できないような気がして、殿下の質問に答えるのみにした。


「横浜鶴見の洋食屋から、いつでもいいから来てくれと声を掛けて頂いております。外食券制で商売は厳しくなってはおりますが、気ままな雇われコックなので、私にとっては願ってもない話です」

「工場に動員されるかも知れませんよ」

「お国のために働けるのならば、本望です」

「そうですか……」

 しばらく空いた皿を見つめてから、すがるような目でハチクマを見上げた。


「この戦争がら……」


 殿下が突き付ける現実はあまりにも残酷で、その一言ひとことに胸をえぐられるような思いがした。五年に及ぶ戦いで、悪魔に取り憑かれてしまったのであろうか。


「目黒の家で働いてはくれませんか」

「それは……畏れ多くも……」

 今にも息が止まってしまいそうなハチクマに、殿下が泣き出しそうな声を出して、畳み掛けるように懇願した。


「戦争が終わるのを待たなくてもいい、列車食堂が閉まってからでも、いいや、その前でもいい。私の家に来てもらいたいが、明日さえどうなるかわからない身です。目黒であれば最悪の事態になっても、海と工場が近い鶴見よりは安全だと思うのです。何より私はハチクマさんに生きていてほしい。だから、お願いします。父には私から話しておきます、だから……お願いします……お願いします……」


 丸まった背中はぶるぶると震えていた。

 ハチクマは脱帽し、平伏するとしばらく、そのままでいた。


おかに戻られましたら奥様とご一緒に、目黒にお立ち寄りください」


 ハッとして顔を見上げると、そこにはよく知った顔があった。

 そうだ、私にまかない飯を供したときの、恐れを知らぬ自信に満ちた笑顔だ。


「必ずそのようにします。だから必ず、生きて帰ります」

 今にも弾けてしまいそうな、はち切れそうな声で絞り出された言葉は、ふたりの祈りであった。

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